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横浜市神奈川区中丸8番地 045-491-3686(捜真女学校)

礼拝メッセージ 11月16日

2020.11.16

Soshin Jogakko

食事に招かれる            

聖書科教育実習生 高橋海帆子

【聖書】ルカによる福音書15章11節~24節

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

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休校期間を終え、数ヶ月がたった学校は、少しづつ日常生活を取り戻しているように見えます。もちろん、行事や部活などまだまだ元どおりとはいかない部分も多くありますが、学校にきて生活できる事は嬉しい事です。しかし、そんな生活の中でも昼食の時間の風景は、実習生として1週間皆さんと過ごした今でもまだ慣れません。みんなが教室にいて一緒に食事をいているのに、なるべく喋らないようにと注意をして、前を向いて動画を見て食事をしています。仕方がないことですが、なんだか寂しいように感じるのは私だけでしょうか。

こうした食事シーンはこの学校に限ったことではありません。私が普段アルバイトをしている学童保育でも、昼食やおやつの時には座席を制限し、同じ方向を向かせて、話し始めたらすぐに静かにさせています。注意を受けた子どもたちは不満そうな顔をして、つまらない、楽しくないなどと文句を言います。そんな姿を見て、私たちは食事に対して「楽しさ」や「充実感」を求めていることに気がつきました。

さて、もう一つ食事の持つ別の姿を紹介します。私は年に数回、母と喧嘩をしてしまうことがあります。1ヶ月前も母を怒らせてしまい、しばらく口を聞かない日が続きました。正直それで何か困ることはなく、普段通りの生活を続けます。そのうち用事があって話したり、私の方から謝ったり、何かしらのきっかけで仲直りをします。そんな中で、我が家での仲直り定番パターンが、食事に呼ばれることです。家の中で誰か喧嘩をしている人がいると、その人だけ勝手に自炊を始めて、家族が集まって食事をしていても、そこには現れなくなります。そんな生活が続くと、母が痺れを切らしてご飯だから食べましょう。そう声をかけてくれます。

今日読んだ聖書にも宴会が開かれる様子が描かれています。皆さんも知っている人が多い「放蕩息子のたとえ」です。父からもらった財産を使い果たし、ボロボロの状態で帰ってきた息子を、父親は抱きしめて着替えさせ、食事の席へと招きます。この息子は家を出る前に、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言って、本来なら父親が亡くなってから貰うはずのお金を受け取ります。父親はまだ元気に生きているのに、です。家族とのつながりを自ら切って、お金を選んで旅へ出かけてしまいました。そして、旅先で飢えて帰ってくるときには「もう息子と呼ばれる資格はありません」という謝罪の言葉を用意して、雇い人として住まわせてもらおうと考えていました。あんなことをした自分もう家族として受け入れられるはずなどないと考えていたからです。そんな予想は裏切られて、彼のために宴会が開かれました。この食事の席についた時、彼は本当に赦されて、家族として受け入れられたことを感じたのではないかと思います。ほかの雇い人たちとは違う、同じ食卓につき、同じ食べ物を一緒に食べることができる。食事は親しい交わりのうちにいる象徴ともいえるかもしれません。

今日みなさんと一緒に読むことはできませんが、聖書の中には他にも食事のシーンがよく出てきます。「放蕩息子のたとえ」を通して、神様が家出した人を赦し招かれる方であることを伝えたイエスもまた、多くの人々を食事に招かれる方でした。中でも、罪人とされていたような人と共に食事をする姿は印象的です。マルコによる福音書では、徴税人や罪人とされていた人と共に食事をするイエスの姿が描かれています。当時、そうした人と同じ席につくのはありえないことだったので、周りの人は驚いたり、怒ったりしていました。そのような他の人からは除け者にされていたような人や今はまだ神様との交わりの中にいない人まで、「ついてきなさい」と言って食事に誘ってくださるのが聖書の語る神様の姿です。

コロナウイルスのために、これまで通り食事を楽しむことのできない今、私たちは改めてその大切さを知ることができます。冒頭でお話したように、食事は単に栄養をとるための時間だけではありません。友達や親しい人に食事に誘われた時のことや、美味しいご飯を食べながら楽しく話をしていた時のことを少し考えてみてください。そのような楽しい時に、神様はいつも私たちを招いてくださっています。食事に招かれる時、私たちは神様との親しい交わりの中に加えられます。その招きに応える者でありたいと思います。

(11月4日 中3·高一放送礼拝)

 

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