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学校法人 捜真学院

横浜市神奈川区中丸8番地 045-491-3686(学院総務)

礼拝メッセージ 10月5日

2020.10.5

Soshin Jogakko

こびりついて剥がれない罪

 

宗教主任 藤本 忍

【聖書】ローマ信徒への手紙7章15節~25節

わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス·キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

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私が赴任して間もない頃、JOCが全校にアンケートを取って「捜真生の好きな聖句Best3」というのを文化祭で発表していました。今年も久し振りにそれをしようということになり、昨日からアンケートを取り始めました。かつて取ったアンケートの結果は、
第1位 コリント信徒への手紙Ⅰ-10:13~「乗り越えられない試練はない」
第2位 コヘレトの言葉4:9~10     「一人よりも二人が良い···」
第3位 マタイ7:7~12         「求めよ、そうすれば与えられる···」
でした。

今の高二が中1の時に、授業でその話をすると、「今一つ、自分にはピンとこない。罪について書かれた聖句とかないですか」と聞かれ、私は先ほど読んだローマの信徒への手紙を紹介しました。するとその生徒は「今の自分にドンピシャです。何これ!凄い!この気持ち、よくわかります!」という反応が返ってきました。正直、中1でこの罪の箇所がわかるなんて、と驚きました。

話は変わりますが、私は就学前、自宅近くのお寺の境内で毎日のように、従兄の「のりちゃん」と遊んでいました。池にいるアヒルを捕まようとしては、飼育員のおじさんに叱られ、お寺の鐘を勝手な時間に撞いてはお坊さんに説教され、銀杏の落ち葉を集めてはお墓の通路に敷いて寝たりと、朝から晩までずっと境内で遊んでいる子でした。

ある時、その境内の脇に新しい立派な建物ができました。あとからわかりましたが、それは「信徒会館」と呼ばれるものでした。その信徒会館の前に『古賀政男さんの銅像』がありました。有名な音楽家です。のりちゃんと私は少し離れた所から石を投げて、この銅像に当てたら1点というゲームをしました。二人で調子にのってやっていると、のりちゃんの投げた石が大きく外れ、後ろにある建物の一枚ガラスに当たりました。私達は一瞬ヒヤとしましたが、割れた訳ではなかったので、また投げ続けました。すると突然、中から「こらーっ!誰だ、窓に石を当てたのは!」と怒鳴り声を上げて怖そうなオジサンが出て来ました。私は思わず「のりちゃんです。」と人差し指をのりちゃんに向けてしまいました。

それから40年経ったある日、のりちゃんが私に言いました。
「あの時、忍ちゃんが僕を指差したから、あの後大変でさ。ガラスが傷ついたとかで、親と一緒に謝りに行って、結局あの一枚ガラスを弁償したんだよ。当時で20万位だったかな。」
「えー!ごめんなさい。全然知らなかった。」と私。
「忍ちゃん、うちの入口のガラス、自転車で当たって割っちゃったことあったじゃん。あれは親戚同士ってことで、うちの親は忍ちゃんちに請求しなかったんだよ。」
私は、自分の罪は赦されていたのに、のりちゃんの罪は訴えるような子どもだったのだと、愕然としました。あの時、私は咄嗟に自分を庇い、のりちゃんを指差し、彼をいとも簡単に怖いオジサンに売りました。どんなに幼くても、人は自分を守るためなら何でもする、そういう本能が働いたのだと思います。

最後の晩餐で主イエスが「この中に私を裏切る者がいる」と言った時、全員が「まさか私では?」と自分を疑いました。皆、自分という人間の危うさを知っていたのだと思います。あの時、誰がユダになってもおかしくなかったのです。つまり、誰の心の中にもユダがいる、私達はそういう人間存在なのだと思います。ペトロも、「イエスなんて知らない」などと言いたくなかったはず。「あの方は、私の先生です。生けるメシア、救い主です」と言いたかったはず。しかし、言えなかった。もしそんなことを言ったら、自分も十字架刑に架けられるからです。望む善は行わず、望まない悪を行っている。これは誰の心にも当てはまります。幼子も大の大人も、です。何が良い事で何が悪い事か分かっているのに、私達は悪い方を選ぶ、そういう者なのです。

しかし、パウロは最後にこうも言っています。「イエス·キリストを通して神に感謝します」と。犯した罪は消えません。自分の心にこびり付いて剥がれません。しかし、赦されることで罪から解放されます。唯一の解決法は赦されることです。キリストの十字架は私の罪のため、この私の罪の為に、代わりに裁かれて下さったものです。しかし、そんなことを言っても納得しない人がいます。自分に厳しい人ほど、そう言います。なぜなら、自分の罪をイエスになすりつけて、自分だけがのうのうと生きていくなんて出来ないからです。では、どうすればいいのか。キリストは言います。
「誰の罪でもあなたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でもあなたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネによる福音書20:23)
「赦しなさい、そうすれば天の父もあなたの過ちを赦して下さる」(マルコによる福音書11:25)

今年の好きな聖書箇所アンケート、どのような結果になるか楽しみです。

祈ります。
神様、
罪に苦しむ者に、赦しがあることを、
どのような闇にも出口があることを、
長いトンネルの先に光があることを、
それら全てがないと思っている人に、教えて下さい。
またそれを伝えられる者として遣わして下さい。アーメン

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