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学校法人 捜真学院

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礼拝メッセージ 7月22日(水)

2020.7.22

Soshin Jogakko

「そのまま愛されている」

中1担任 新井 昂太

こちらから讃美歌453番「聞けや愛の言葉を」を聞くことができます

 

【聖書】ヨハネによる福音書 5章1節~9節
その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
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時折、女の子みたい、とか、女子っぽいと言われることがあります。先日は担任をしている中学1年生に、「D組担任の稲野先生は男の子っぽくて、新井先生は女の子っぽいですね。」と言われました。また、以前に藤本先生と食事をした時には「新井先生がいるけれど女子会コースで頼めないだろうか。」という私にはどうにもできない謎の相談を受けました。
女の子っぽいと言う(言われる)ことが良い悪いといった問題はここでは置いておきます。(少なくとも、私自身はそう言われることで不快な思いをすることは全くありません。それを含めて「私」です。)

さて、そう言われることについて、私にはいくつかの考えと背景があります。
私は兄弟について、「兄と私の二人兄弟です」と普段は説明しています。「普段は」というのは、私には実は姉がいます。そして、その姉は私が生まれる前に二歳で病気で亡くなってしまった、という事情があるからです。二歳というかわいい盛りで亡くなってしまいましたから、当然両親にはその姉への思いがあったはずです。「顔や性格がそっくりだね」とか「好きなものも似ているね」と言われた覚えがあります。そんな覚えから、「自分はどこかで姉と重ね合わせて育てられたところがあるのかもしれない。だから女の子っぽいところがあるのかな」と、中高生くらいまでは思っていました。

ところが、どんなに思い返してもはっきりそう(女の子として)育てられた覚えがないからか、ある時、別の考えが私に浮かびました。それは「自分が実際に姉と重ねられて育てられたわけではない。でも、自分自身がそう思おうとしている。」というものです。なぜそんな必要があるかというと「愛されている」確証を得たかったからだと思っています。私自身十分に大切に育ててもらったという自覚もありますが、一方でかわいい盛りで亡くなってしまった姉への両親の愛情には確固たるものがあります。「自分は愛されているはずだ。なぜなら姉みたいに大切に思われているからだ。」と思おうとしたのだ、ということです。

私達は誰もが皆「愛されたい」と願っていると思います。そして、愛されるためにたくさんの労力を払います。努力を重ねて、愛される自分になろうとします。でも、それにもかかわらず、愛されない時が私達にはあります。

先日、ある生徒から一枚のプリントをもらいました。その人のおすすめ本を紹介するものなのですが、そこにはこんなことが書いてありました。「人が本当に苦しいのは自分が一人なのだ、私は誰からも愛されていないのだ、と思う時です。」と。
誰からも愛されない。誰からも顧みられない。とても、辛く苦しい時です。

今回の聖書箇所に出てくる「病人」もまさにそのような時を過ごしていたはずです。38年もの長い間病に苦しみ続けた人。その病人はイエス様に声をかけられると、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」と答えます。病人は自分の問題は「池に連れて行ってくれる人がいないこと」だと思っていました。だからイエス様に対して池に連れて行ってくれるように頼んでいます。
ところがイエス様の応対はそれとは異なるものでした。その場で、そこにいるその人そのままに、「起き上がりなさい」と、「歩きなさい」と語りかけられたのです。

私たちは愛には理由が必要だと思っています。「姉と一緒だから愛されているのだ」「…だから愛される、好かれる、認められる」「…だから愛されない」また、「…ができない自分は愛せない」。聖書の病人で言えば「池に連れて行ってくれる人がいないから」などという風に。
でも、神様の愛には理由はありません。何かができるあなたを愛するわけではありません。何かに優れているあなただから愛しているわけではありません。あるいは、何かができないから愛されないのでもありません。
いまそこにいるあなたが、そのまま愛されている大切な存在なのです。あなたの存在そのものに価値があり、あなたの存在そのものが愛されているのです。
「…ができれば、…だったら」と私たちは思ってしまいがちです。でも、私達の存在そのものが愛されている、ということを信じて、歩む者でありたいと思います。

 

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