礼拝メッセージ 10月12日

2020.10.12

Soshin Jogakko

新しい世界を広げる

中2副担任 日浦 華子

【聖書】コヘレトの言葉3章1節~11節

何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時/保つ時、放つ時7裂く時、縫う時/黙する時、語る時
愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

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博物館見学が大好きです。今思うと、小さい頃に上野の国立科学博物館にしょっちゅう連れていってもらったからかもしれません。そのころは東京の外神田に住んでいて、割と近くでもあった上野公園や動物園、国立科学博物館をよく訪れていました。国立科学博物館では、いろいろなものが展示されている中でも、特に恐竜の化石に惹かれていました。だいたいの骨がレプリカではあるけれど、大きな恐竜の骨格標本を見るとわくわくします。そんな経験から恐竜の化石のある博物館が大好きなのです。

この間、小田原にある生命の星地球博物館に行ってきました。人数規制があるとホームページにはありましたが、余裕で入場することができました。

1階には、進化のはじめに登場する岩石、動植物のサンプルがたくさん展示されています。ちょうど1学期に、中学3年生の授業内容で進化を取り扱っていたので、その内容が思い出されて、興奮気味の私でした。地球博物館は割と新しい建物で、大きな展示物も小さなものもわかりやすく並べてあります。

おすすめは、入ってすぐのエントランスホールです。大きなホールの真ん中に大きな化石が飾ってあるのです。それは1億年前に生息していた生物たちがテーマになっていて、海で泳いでいた巨大な魚の化石や、空や陸を闊歩していた大きな恐竜の化石が展示されています。恐竜の化石の足元に行って見上げると、その大きさや高さに圧倒されます。そして、展示されている恐竜を見上げると、その上にドーム状の天井が見えます。高い天井には宇宙をイメージしたイラスト、装飾がしてあり、見とれてしまいます。首が痛くなるまでその天井の絵画を眺めていました。

そこで思い出したことがあります。

小さいころの私は高い天井を見上げることが嫌いだったのです。嫌いというより大嫌い、というより怖いという思いを持っていました。

「高い天井がこわい」という同じ感覚をもっている人はいますか?

高い所がこわいのではなく、高い天井を見上げるのがこわい。高い天井を見ていると吸いこまれていきそうな感じがして、幼かった私はその浮遊感とクラクラする感じがとっても怖かったのです。ですから高い天井を見上げるのが恐怖でした。

インターネットで調べてみると、高い天井を見上げるのが怖いという人、結構いるみたいです。

始めにお話ししましたが、小さいころよく行っていたという上野の国立科学博物館も、昔エントランスホールにトリケラトプスの全身骨格標本が展示されていました。が、そのかっこいいトリケラトプスの真上のドーム状の天井がこれまた高かったので、怖い以外の何物でもない場所でした。トリケラトプスには惹かれるけど、天井が高い恐ろしい場所、ということで、いつも泣きながら目をつぶって母の手にすがりついてその場を逃げるように進んでいきました。もちろん科学博物館の入り口にあるので避けて通れません。見学に行くたびにまず、おびえ泣きながら通るのが通過儀礼みたいになっていました。

天井が高くて私にとって怖い場所はもう一つありました。東京駅の丸の内改札口ホールです。レンガ造りの歴史あるあの建物の天井もドーム状になっていて、とっても高く、祖父母のいる横浜に電車利用で遊びに行くときも、その改札を通らなければならず、そのたびに私の泣き叫ぶ声がホール中に響いていた、らしいです。

北杜夫という作家のエッセイにこんな話があります。

彼が小さいころ、キングコングという映画が上映されて、当時話題になりました。そこで北杜夫は家族に連れられ映画館に行ったそうです。皆さんもキングコングの作品そのものを見たことがなくても、巨大なビルディングほどあるゴリラの怪物が、街を破壊して回るイメージ、あれだなというのは何となくわかるのではないでしょうか。少年北杜夫は、キングコングのポスターや宣伝で、破壊的な怖いものを感じたようで、映画館には行ったのですが館内には入れず、外の廊下のソファーにすわってずーっと泣いていたそうです。だいぶ時間がたって中から家族が出てきて、「こわくないよ」と中に入るように促しました。どきどきしながらそっとスクリーンを見てみると映画は終盤で、キングコングが人間に倒されていくシーンでした。北杜夫はそれを見てかわいそうに思った。初めからみればよかったな、とふりかえっています。彼は最後にこうまとめています。「私は、キングコングを見て泣いたのではなく、見ないで泣いた」。

この北杜夫の言葉がとても印象に残っています。小さなころの私に当てはめるなら、「トリケラトプスの標本を見て泣いたのではなく、見ないで泣いた」ぴったりくるなあというところです。

あんなにホール中に声を響かせて泣いて怖がっていた高い天井も、今はなんとも感じません。それどころか、この間行った小田原の地球博物館のエントランスホールの天井の絵とその開放感が素敵に思えてしばし眺めているほどです。小さなころ持っていた高い天井への恐怖心は今はもうありません。

べつに「高い天井嫌い克服プロジェクト」に参加したわけでもないのに自然に怖くなくなっていたのです。

考えてみると,小さいころの私には苦手なもの、怖いものがたくさんありました。納豆、生姜、ワサビ、ピーマン、パクチー、雷、カーテンがちょっと開いていて夜の暗い外が見える窓ガラス。長期休暇に入ると登山好きな親に無理やり連れて行かれた山。などなどなど。

納豆、ワサビ、生姜は、今や冷蔵庫にないと不安になる必須アイテムですし、雷が鳴ると逆にワクワクします。山は、もう、大好きです!苦手なものを好きになろうと努力したわけではないけれど、いつの間にか違う良さや楽しさに気付けるようになりました。趣向はかわるものですね。

食べ物や物だけでなく、人でもそういうことがありました。

中1、中2のころ、教室の近くの席にいた趣味も違う、何を考えているのか分からないと思っていた人と高校生になって同じクラスになり、話してみたらとても愉快な人で魅力的に思え、とても仲良くなったということがあります。

今わからない価値や魅力でも、時間が経つとその良さが分かってくるという経験をたくさんしてきました。時間が解決することもあるし、こちらから歩み寄っていくことで違う世界を好きになることもあります。

若いみなさんもこれからそういう経験をたくさんしていくと思います。新しい世界をどんどん広げていってください。人生が深く複雑に、そして豊かになると思います。

お祈り

まわりの環境が目まぐるしく変わる中、私たち自身も変化しています。よい成長という変化を期待します。そのためにも自分にできることを見つけ、努力できますように。どんな結果であっても神様が良しとして下さることにもきづかせてください。

(10月8日 中1、中2放送礼拝)

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