礼拝メッセージ 11月5日

2020.11.5

Soshin Jogakko

ポジティブかネガティブか            

中1担任 杉山知子

【聖書】ローマの信徒への手紙2章16節
そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト·イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

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あなたはどちらかといえばポジティヴな人ですか?それともネガティヴな人ですか?
プラス思考の持ち主ですか?それともマイナス思考の持ち主ですか?
ネガティヴとかマイナス思考とかいうと、どうしても良くないイメージをもつのではないでしょうか。少なくともほめ言葉としてはあまり使われませんよね。

今年の大相撲秋場所で優勝し、大関に昇進した正代という力士は、今年のはじめまで「ネガティヴ力士」と呼ばれていたそうです。きっかけは、5年前に新十両に昇進したとき、今後対戦してみたい関取は?と聞かれて「できればみんな当たりたくない」と答えたことらしいです。ネガティヴというより、正直な気持ちを口にしただけにも聞こえますけどね。その後、関脇にスピード出世したもののすぐに落ちて、3年ほど足踏みをし、このたび大関昇進を果たしたわけですが、マイナス思考だったけれども精神面で成長した、というような報道を目にしました。ネガティヴだったが変わった、プラス思考に変わったから成長した、というのは、きっとだれもが納得するストーリーなのでしょう。変わらないと成長できない、という思い込みもあるように感じます。
ところが、あるインタビュー記事を読むと、本人は別に何も変わっていないと答えています。自分についてまわっていたネガティヴという代名詞も、「あれでよかったと思います。知名度も上がりましたから。」とポジティヴに言ったという記事に、思わず笑ってしまいました。彼はたぶん、みんなを納得させたり成長物語で感動させたりすることには興味がなく、自然体で正直な人なのだろうなあと思いました。

もう一人、ネガティヴで有名な人を紹介します。ある朝、目覚めると巨大な芋虫になっていた男を描いた『変身』などで有名な作家、フランツ·カフカです。たとえばこんな言葉があります。
「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
将来にむかってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。」
あまりにもネガティヴで、かえって笑えませんか?ふざけているのかと思ってしまうほどですよね。でも、本人は本気らしいです。
こんなのもあります。
「すべておしまいのように見えるときでも、まだまだ新しい力が湧き出てくる。
それこそ、おまえが生きている証しなのだ。」
ここまでは前向きですね。DREAMS COME TRUEの『何度でも』に出てくる、「1万回ダメでも1万1回目は何か変わるかもしれない」と似ていますよね。しかし、カフカには続きがあるのです。
「もし、そういう力が湧いてこないなら、そのときはすべておしまいだ。もうこれまで。」
私は、このようなカフカのネガティヴな言葉がつまった本、その名も「絶望名人カフカの人生論」という本を読んであまりにおもしろかったので、さっそく図書館でカフカの作品集を借りました。『変身』はもちろんのこと、どれもこれもとんでもなく悲惨なお話なのですが、悲惨すぎて笑える描写もあり、読み終わると深く心が揺さぶられるのです。さすが、20世紀最大の作家と言われているだけあります。
さて、文学作品はそれぞれご自身で味わってほしいので、先ほどの「絶望名人カフカの人生論」からもう少し引用します。この本の編訳者である頭木弘樹さんは、次のようにカフカを紹介しています。
「彼は何事にも成功しません。失敗から何も学ばず、常に失敗し続けます。
彼は生きている間、作家としては認められず、普通のサラリーマンでした。
そのサラリーマンとしての仕事がイヤで仕方ありませんでした。でも、生活のために
辞められませんでした。
結婚したいと強く願いながら、生涯独身でした。
身体が虚弱で、胃が弱く、不眠症でした。
家族と仲が悪く、とくに父親のせいで、自分が歪んでしまったと感じていました。
彼の書いた長編小説はすべて途中で行き詰まり、未完です。
死ぬまで、ついに満足できる作品を書くことができず、すべて焼却するようにという
遺言を残しました。」
なんだかミもフタもない感じですよね。実際には、カフカの遺言を守ったのは最後の恋人だけで、それ以外の周囲の人々のおかげで作品が残り、日常生活の愚痴でいっぱいのノートや日記や手紙がたくさん残りました。恨んでいた父へ36歳のときに書いた手紙は、タイプ原稿で45ページもあったそうです。「いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」とは、なんと、結婚を申し込んでいた当時の恋人への手紙なのです。何しろ結婚したいと強く願っていたのですから。熱烈に愛し、毎日手紙を書きました。のちに婚約しますが、カフカは不安のあまり自分から婚約破棄し、また婚約し、またまた破棄したそうです。さらに、婚約者の父親あての手紙には、なぜ勤めを辞めて文学で身を立てようとしないのか、その説明として、「ぼくにはそういう能力がありません。おそらく、ぼくはこの勤めでダメになっていくでしょう。それも急速にダメになっていくでしょう。」と書いたそうです。婚約者は結局父親に渡さなかったらしいです。そんな手紙、渡せないですよね。
こんなに自分に対して否定的で、身の回りの愚痴ばかり言っている人間が、なぜ偉大な作家になれたのか。カフカはノートにこのような言葉を書きつけています。
「ぼくは自分の弱さによって、ぼくの時代のネガティヴな面を掘り起こしてきた。
現代はぼくに非常に近い。だから、ぼくは時代を代表する権利を持っている。
ポジティヴなものは、ほんのわずかでさえ身につけなかった。
ネガティヴなものも、ポジティヴと紙一重の、底の浅いものは身につけなかった。
どんな宗教によっても救われることはなかった。」
私はこの言葉を読んで、本人はどんな宗教によっても救われなかったと言っているけれど、徹底的に自分がマイナスになることで、神さまの恵みが注ぎ込んでいるように感じました。自分の力だけでなんとかしようと思ったり、自分が自分がと出っ張って、それをプラス思考だとカン違いしていると、神さまの恵みが注ぎ込みにくくなることって、あると思いませんか?カフカはこうも書いています。
「ぼくの弱さ···もっともこういう観点からすれば、じつは巨大な力なのだが···」
カフカ本人は意識していなかったかもしれませんが、これって聖書のみことばそのものです。コリントの信徒への手紙二 12章9, 10節にこうあります。
「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
まさに、カフカの弱さの中で力が発揮されて、その作品や言葉が私たちに働きかけているのだと思います。

最後に、神さまの恵みがたっぷり注ぎ込んだネガティヴな人として、マザーテレサをあげておきます。インドで貧しい人々に寄り添った、あのマザーテレサです。ユーモアがあって明るい人だったと言われています。どうしてそこまで人々に尽くせるのかと聞かれて「私は何もしていません。イエスさまがすべてなさっているのです」と答えたことは有名です。やさしく、愛にあふれた、このうえもなくポジティヴなイメージですよね。
ところが、バチカンの指導者や親しい神父様に送った手紙の中で、マザーテレサは「私の中に信仰はない」「私の心の底にはむなしさと闇しか見当たらない」「私はたった一人」と、数十年にわたって繰り返し書いているのです。「来て、わたしの光となりなさい」との召しを受け、何年も熱意をもって願い続けたのちに始めた活動でしたが、インドのスラムの想像を絶する悲惨な現実に、神さまの存在さえ疑ってしまうくらい、信仰をはぎ取られるような日々だったようです。「私は何もしていません。イエスさまがすべてなさっているのです」というのは謙遜でもなんでもなくて、苦しみの中から出た切実な本音だったのかもしれません。空っぽになったマザーテレサの中に聖霊がたっぷり注ぎ込んで、彼女を最大限に用いたのでしょう。

結局、人間から見てポジティヴかネガティヴかは関係ない気がします。はじめにお読みした聖書にあったとおり、神さまは人々の隠れた事柄をすべてご存じです。神さまが創られたそのままの姿で、ネガティヴに落ち込みたいときは落ち込み、ポジティヴにがんばりたいときはがんばる、それでよいのではないでしょうか。悲しみを知っている人は泣いている人に寄り添えるし、元気な人は喜んでいる人と共に喜ぶことができます。讃美歌第Ⅱ編1番4節の歌詞にあった「わが力の限り」とは、強い人もひ弱な人も、その人その人の力に応じて精一杯生きるということではないでしょうか。そのままの私たちを、神さまは用いてくださるのです。
どんなに元気に見えても、悩みや苦しみが全くない人はいないと思います。
神の御子であるイエスさまでさえ、「この杯を取りのけてください」と祈り、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と苦しみもだえました。それでも神の御心にしたがって十字架で死なれ、神さまが私たちをどんなに愛していてくださるかを示してくださいました。あらゆる苦しみをわかってくださる方、私たちを決して見捨てない方と共に歩む人生について、礼拝において、また来週の全校修養会において、一人一人が考えられますように。祈祷会を担当する生徒たちが力を与えられ、たくさんの生徒が祈りを共にして備えることができるよう、心から願います。

(11月5日中1中2放送礼拝)

 

 

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