礼拝メッセージ 12月18日
2020.12.18
Soshin Jogakko
頭の中の小さな声
宗教主任 藤本 忍
【聖書】ルカによる福音書10章30節~37節
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
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ある日、何となくYouTubeを開いていたら、「あなたにおススメ」という表示が目に入りました。「私の何を知っていて、そんなことを言うのだろう」と思いながらも、少し気になってポチっと「おススメ」を押してしまいました。すると、MIT(マサテューセッツ工科大学)の卒業式でした。大成功を収めた卒業生が母校に招かれて、祝辞を述べていました。英語の勉強にもなると思って少し聞いてみました。
「幸な人と言うのは成功を収めた人のことを言うのではなく、自分の挑戦を攻略している人のことを言うのだと思う。果敢に未知のものに挑んでいる人のことだ。それはまるでテニスボールを追いかける犬のようだ。リードを外された犬は、なりふり構わず無我夢中でテニスボールを追いかける。しかし、人間にとって厄介なのは自分のテニスボールが何なのか、わかりにくいということだ。」とりあえず聞こうと思っていた私でしたが、スピーチ中盤には彼の言葉に引き込まれていました。「何かに挑んだ時、準備万端だったということは一度もなかった。いつも何かが不足していた。しかし、それでも前に進まなければならなかったし、始めなければならなかった。」「人生でたった一回、正しければそれでいいのではないか。本当に正しかったその一回は、頭の中の小さな声に従ったときだった。消そうと思っても消えない小さな声、消えたと思っても再び浮かび上がってくる声、これが一番正しかった。そしてそれが僕のテニスボールだった。」
素晴らしいスピーチでした。ポチって押して本当に良かったと思いました。かき消しても打ち消しても何度でも浮かび上がっている声、自分にとってのテニスボール、皆さんにはありますか。先日の修養会でお話してくださった高一の講師の先生も、同じことを仰っていたのを思い出しました。「気になって気になって仕方のないこと、それがあなたのやるべきこと、使命なのかもしれない」と。
10月に入ったある日の日曜日、礼拝を終えた教会にインターホンが響きました。出て行くと小学校中学年位の女の子が二人いました。一人は自転車にまたがり、もう一人は素足で靴も履かずにいました。10月だと言うのに二人とも半袖半ズボンで、顔や腕が少し汚れていました。私が「こんにちは」と言うと、「ね~、ね~、子ども食堂はいつからやるの?」と聞かれました。「まだやらないの?コロナだから?」2月に中止にしたまま再開の目処が立っていなかったので、「再開する時は必ずこの掲示板でお知らせをするから、必ずここを見てくれる?」と言いました。「わかった。でも漢字は使わないでね。読めないから。」と女の子。「うん、わかった。漢字は使わないね。」と私。「ね、靴はないの?」ともう一人の女の子に聞くと「あるよ」と自転車の籠の中にある大人のサンダルを指差しました。「これは靴じゃないじゃない」と私が言うと「これが好きなの。これがいいの。」と返事が返って来ました。その子達とさよならした後、なぜか涙が溢れて来て止まりませんでした。泣き顔になる自分を必死に誤魔化しました。教会の主任牧師やメンバー達が「誰だったの?」と聞くので、「子ども食堂に来ていた子ども達です。」と伝えました。以来、私の頭の中の小さな声はこの「ね~、ね~、子ども食堂はいつからやるの」になっていきました。
それから2週間後の日曜日、教会でメッセージを聞いていたら、ある声が頭の中で響いてきました。それは「子ども食堂を再開しなさい。」という声でした。もしかしたら神様の声なのかもしれないと思いました。私は子ども食堂の責任者でもなければ、スタッフでもないのに。不思議でしたが、教会で子ども食堂に関わっている2人のご婦人に、そのまま話をしました。彼女達は直ぐにスタッフミーティングを開いて、12月15日には子ども食堂を再開することを決定してくれました。しかし、それから1ヶ月後の12月6日の日曜日、コロナ第三波を懸念して、再開は難しいと判断。中止が決まりました。束の間の糠喜びになってしまいました。いつになったら掲示板に再開の日を掲示できるのか。子ども食堂のスタッフ達は、一緒にご飯は食べられなくても、せめて食べる物は届けたいと、教会の前で月一回、缶詰やペットボトルの飲み物、個包装のお菓子などを無償で配ってくれています。そして、そのような中、捜真のKDM(Kids Dream More)の生徒達が献金を募って、クリスマスプレゼントを届けてくれるという知らせが聞こえてきました。大きな喜びです。こういう時だからこそ、人の優しさが心に沁みます。
今日お読みした聖書箇所にはサマリア人を突き動かす動機として「憐れに思う」という言葉が使われています。原語では「五臓六腑が引きちぎられるほど痛い」という意味です。相手の痛みが瞬時に伝わってきて、思わず動いてしまう、そういう衝動的な行動の根拠を表す動詞です。私の頭の中の声、そして私のテニスボールは、私の五臓六腑を締めつけたあの女の子の一言です。「ね~、ね~、子ども食堂はいつやるの?」神様からのクリスマスプレゼントとだと思い、私はこの言葉を犬のように追い駈けていきます。
お祈りします。
神様、本当に助けが必要な人達の所に、あなたの救いが届きますように。
その為に私達を用いて下さいますように。
(12月9日(水)全校放送礼拝)