礼拝メッセージ 2月25日

2021.3.2

Soshin Jogakko

「自分が自分であること」

 高三担任 ネルソン 綾

【聖書】コリントの信徒への手紙二6章2節

なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。
救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

ルカによる福音書23章39節~43節

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

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皆さんは、自分が自分であること証明するためは、どのようなことをするでしょうか。たとえば英検の試験会場だったら、受験票を見せ、そこには名前と住所が書かれ、顔写真が貼ってあります。あるいは、50年後に同窓会をして、外見が万が一ものすごく変わってしまって誰にも気づかれなかったらどうしますか。きっとまず名前をいうでしょう。そして高3B組だったとか、○○部に入っていたとか、写真を見せるとか、必死になって説明するかもしれません。

話はちょっと学校から出ますが、私は以前、アメリカの空港で、私が私であることを証明できず、苦労した経験があります。それは今までに2回、アメリカ入国の際に、すんなり許可がおりなかったことです。一度目は、アメリカ短期研修の引率をしていた時でした。入国審査では、一人一人、パスポートを見せ、簡単な質問を受け、顔写真を撮られて、指紋を取られて、問題がなければ許可がおります。ところが、私の指紋がうまく取れず、指先が乾燥してるからだとクリームを塗って何度も指紋を取り直し、やっと許可が下りました。しかしそれはまだ序章に過ぎず、その後もっと大変なことがありました。
その時は、まだ子どもが生まれる前で夫と二人でアメリカに行きました。今はアメリカに入国する時は、必ずアメリカ人が並ぶ窓口の方に、夫と一緒に行くようにしていますが、その当時は、そういうことが許されるのか知らず、私は外国人用の窓口に一人で並びました。するとまた、指紋が取れないとなりました。クリームを塗ったりという努力も虚しく、結局私は別室送りとなりました。

別室には同じような境遇と思われる人たちが何人もいました。私は、質問を受けました。「なぜアメリカに来たのか」「私の夫がアメリカ人で、彼の家族と会うために来ました」「なぜその夫と一緒ではないのか」「夫はアメリカ人ですが、私はそうではないので別々の列に並びました」たぶんそういうやり取りがあったと思います。不安の中、「私は今まで何度もアメリカの入国を許可されてきた、このパスポートも確かに私の物、だから大丈夫なはずだ」と言い聞かせました。しかししばらくたつとまた呼ばれ、「あなたは〇〇〇ですか?」と、突然外国語の名前を言われ、驚きましたが「No」とはっきりと否定しました。しかし、何が何だかわからず、もしかして、私はネルソン綾ではないのかな?とさえ思いました。幼い頃からどこかの国のスパイとして育てられてきたのかとか、実は何か大きな犯罪と関わっているのかとか、様々な妄想にとらわれ焦りました。係の人たちはコンピューターと向かいあってパタパタとキーを打ったり、色々話をしたりしています。他の人たちも同じように質問などをされ、やがて一人が去り、二人が去り、、、としていくうちについに私だけが取り残されてしまいました。

どのくらい時間が過ぎたのかも覚えていません。突破口が見つからない中、空港の掃除をしていた女性が突然その別室の入り口のところに来て、「ここにMrs. Nelsonいますか?アヤ·ネルソンです。ご主人が下の荷物受け取りのところでずっと待っています。聞いてきてくれって頼まれたから。」私はとっさに「That’s me!!」と声を上げました。まるでドラマのようですが、たったそれだけでした。その後すぐ、係の人たちはまたコンピューターをパタパタして、特に説明もなく、釈放なのか解放なのか、どんな言葉を使えばいいのかさえわかりませんが、ともかく自由の身となりアメリカへの入国を果たしました。この出来事は10年以上前の話で、それから指紋を取る機械の性能も上がったのか、私もそれ以来一切引っかからなくなったので、皆さんも何も問題ないはずなので外国に行くことを心配しないでください。

ともかくも、空港では、パスポートと指紋を取る機械やコンピューターが、私を私と特定する手段なわけで、それが一致しなければ私が私とみなされないのです。

このように私たちの生活の様々な場面では、書類などをもって本人であることの証明をします。
ここでちょっと話を精神的なレベルに上げてみましょう。もし、あなたが空港ではなく、「天国」の入り口に立っていたとして、そこでもし本人証明を求められたら、その時にあなたが見せる証明書には、なんて書いてあると思いますか。
ちょっと想像するのは難しいかもしれませんが、「自分が自分である」ことを何をもって証明できると思いますか?ある人は家族と言うかもしれません。今もう、そちらに入っている誰誰の娘ですとか、家系図が書いてある証明書を持っていくかもしれません。大切な友人や関わりを持った人たちのことを挙げる人もいると思います。またある人は自分が学んできた事や、自分が働いてきたことだと思い、学校や職場が書かれた履歴書みたいなものを見せるかもしれません。あるいは、自分が所有していたものが自分を表すと考え、こだわりの衣類やかばん、家や車を説明するかもしれません。これらの事柄は多かれ少なかれ、私たちが影響を受けたり自分の人生を捧げてきたものであり、私たちを定義するものにもなり得ます。しかしこれらのことで自分をすべて説明できるかというと、それもまた疑問です。たとえどんなに強く影響を受けたとしても、完全には、私自身を言い表すことはできないのではないかという気がします。本当の私は、地上の生活で得たものだけでなく、神様が私を造られたその原点に立ち返って見出せるものなのかなと思います。

さて、先日テレビ番組を通して考えさせられたことを最後にお話しして終わります。それは60年以上も刑務所にいた無期懲役囚の話でした。彼は強盗殺人の罪を犯し、刑務所に21歳の時から80歳を超えるまでいたのですが、ついに仮釈放となりました。受け入れ施設で過ごし始めますが、しっくりいきません。何をしたらいいのか、どう考えたらいいのかわからなくなってしまっていたのです。数か月経つと「食べたくない、刑務所に戻りたい」とさえ言い始めます。最初は優しく「自由に過ごしていいんだよ」と言っていた施設長も、やがて「ここで生活するのなら、ここでの決まりに従って欲しい。自分の置かれている立場がわかっているのか。あなたは自分の罪をつぐなって生きていくのだ。」と諭します。しかし程なく、彼は体調を崩しこの世を去っていきます。「この人の人生に意味はあったのでしょうか」と問うテレビ局のインタビューに、施設長は「仕方がない。一人の人の命を、人生を奪った彼がのうのうと生きていくわけにはいかない。」と言いました。その施設長が言う事には何も間違いはないと思いました。

ただ、私の心には、今日最初に読んだルカによる福音書23章の言葉が浮かんでいました。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」という犯罪人に、イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言いました。この個所を読んで、結局私自身も罪を背負ったもので、天国の入口で見せるに値するものは何もなく、ただただ「神様、私の罪はあなたによって贖われました。あなたによって救われました。」と言うことしかないのかなと思わされました。
皆さんは、ご自分のことをどう表すでしょうか。願わくは、お一人お一人が神様に愛された大切な存在であることを知っていて欲しいと思っています。

お祈りします。

神様、私たちを愛し、いつも共にいてくださることに感謝します。私たちが弱い時、苦しい時は特に支えてくださることに感謝します。どうぞこの困難の中私たちが希望を失わずに生きることができるように、あなたに希望を置く事がいかに確かな事かを知ることができるようにお導きください。今日も受験に挑んでいる高校3年生がいます。あなたが支えてください。このお祈りを主イエス·キリストの御名によって、御前におささげ致します。

2月25日 高等学部礼拝

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