投稿者「soshin」のアーカイブ

礼拝メッセージ 6月4日(木)

「『自分の居場所』のない救い主」

中2担任·聖書科  藤巻 正悟

こちらから讃美歌Ⅱ編196番「救い主は待っておられる」を聞くことができます

 

【聖書】ルカによる福音書2:1-7

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

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1.誰にでも必要な『自分の居場所』

『自分の居場所』がない、それほどつらいことはありません。

子どもであれ大人であれ、人間が人間として生きていくには『自分の居場所』が必要です。捜真生の皆さんは『自分の居場所』と聞くとどこを思い浮かべますか? 家でしょうか? 自分の部屋? リビング? ダイニング? 学校でしょうか? 教室? 部室? カフェテリア? チャペル?

もちろん家や学校以外に『自分の居場所』がある人も大勢いるはずです。

 

2.目には見えない『自分の居場所』

『自分の居場所』というのは、目に見える物理的な空間のことだけではありません。『心の居場所』という言葉を聞いたことがありますか? 『心の居場所』とは、何かをしている時や誰かと一緒にいる時などに「飾らない自分でいられる」「リラックスした自分でいられる」、そういった「時間」や「つながり」を意味しています。

それが存在することによって、安心感や自己肯定感を持って自分らしく過ごせる『心の居場所』、これも『自分の居場所』に含まれます。 物理的にも精神的にも、人間は誰もが『自分の居場所』を不可欠としているのです。

 

3.生まれた時からイエスには『自分の居場所』がなかった

イエスの誕生、それは非常にみじめなものでした。

「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」、これがイエスが家畜小屋で生まれた理由です。ヨセフとマリアは、ローマ帝国の指示で住民登録をするためにベツレヘムを訪れ、そこで予定より早く出産をすることになりました。しかもどこの宿屋も満室で、2人は泊まる場所を確保できませんでした。『自分の居場所』のない夫婦のもとに生まれた『自分の居場所』のない赤子、それがイエスだったのです。

そのようにして生まれたイエスは、敵対する権力者たちに捕らえられ、十字架で処刑されて死んでいく最期を遂げることになりますが、その意味でイエスは最初から最期まで『自分の居場所』のない生涯を歩んだと言えます。

 

4.『自分の居場所』のない救い主が共におられる

家畜小屋に生まれたイエスは、高い所から人間を見下ろしているのではなく、この世のいちばん低い所に身を置くことで、徹底的に人間と共に生きようとする救い主です。私たちと共にいてくださるイエスは、悲しみや悩みなど全く知らないという方ではありません。痛みやうめきをどこまでも知り抜いています。

みじめな誕生から十字架の死に至るまで、『自分の居場所』がないという最大の苦しみを味わい尽くした救い主だからこそ、私たちが経験するあらゆる苦しみに寄り添ってくださいます。

「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ2:18)

共におられるイエスが『自分の居場所』のない方であったことを深く悟る時に、私たちには「苦難から立ち上がる力」と「もう一度新しく生きようとする力」が与えられるのではないでしょうか。

 

 

礼拝メッセージ 6月3日(水)

「先生、どうして恋愛の楽しい部分はすっぽり抜けてしまうのですか?」

中1担任 新井 昂太

こちらから讃美歌453番「聞けや愛の言葉を」を聞くことができます

【聖書箇所】列王記上 19章6節~8節
主の御使いは戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ。」と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。

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「先生、どうして恋愛の楽しい部分はすっぽりと抜けてしまうのですか?楽しい部分がいいところなのに、出会ったと思ったらすぐにお別れなのですね」。というような質問だったと思います。大学生の私は、その時習っていた教授に聞いてみました。

大学で私は和歌を勉強していました。(和歌とは、五·七·五·七·七のあれ、百人一首などのあれ、ですよ。)和歌によく詠まれる二大テーマは「季節」と「恋愛」です。そうして、その時のクラスでは「恋愛の和歌」が教材になっていました。私たちのクラスは思いついたらすぐ質問、どんなにくだらないことでもすぐ質問、というクラスで、その時の私も深く考えずに先ほどの質問を教授にぶつけた、というわけです。
というのも、和歌集の「恋」のテーマを見ると、「恋心が芽生える→会いたいなあと思う気持ち→お別れした後のさみしさ→また会いたいと思うさみしさ→すっかり会えなくなってしまった悲しみ」と続いていくのです。要するに「会いたい」と思ったらすぐに「さみしい」。だから私は、どんな質問にも完璧な答えを返してくれるその先生に、「そこには日本文化の考え方がね…」とか「そこには歌人の思いが込められていてね…」といった解答を期待して、質問をしたのでした。
先生の答えはこうでした。
「そりゃあさー、デート中はデートが大事ですから。そんな大事に時に和歌なんか詠んでちゃダメでしょー。」
「和歌なんか」と言い切った先生のコメントに、そりゃそうだわー!とクラスで笑ったのをよく覚えています。(先生はその後ちゃんとした解説もしてくれました。)
続けてクラスメートがこんなことを言いました。
「確かにさ、『楽しい』っていうのは皆同じように『楽しい!』って感じだけど、『悲しい』っていうのは人とか場面でそれぞれじゃない?だから歌にできるのかもよ。」と。

その言葉に私は確かな説得力を感じたのでした。もちろん、「悲しみを共にする」ということはあり、それはとても大切なことです。でも、悲しみの色合いというのは私達一人ひとりが持っているもののような気がします。

新型コロナウイルスがあろうとなかろうと、私たちには日々悲しいことや辛いことがやってきます。楽しいことはたくさん起こってほしいけれど、悲しいことや辛いことにはなるべく起こってほしくありません。そして悲しいことは早く忘れたいものです。
でも、今。まさに今、あなたが悲しんでいることは、あなたという人間の大切な、中心的な「何か」を表しているのではないか、と思ったりもするのです。あなたという人間だけが、そのことにそんな風に悲しめる。そこにあなたの大切な何かがある。
その大切な何かこそ、私たちが神様によって与えられたもの。それに基づいて「生きよ。」と言われたもの。そんな風に思って歩んでゆければよいな、と思っています。

 

ご入学おめでとうございます!

6月2日、2020年度入学式が行われ、一年生のみなさんをお迎えいたしました。

ほっとした顔、ちょっとドキドキしている顔、にこにこ笑顔···新しいランドセルを背負う姿は、どこか誇らしそうでした。

ご入学おめでとうございます!

 

 

礼拝メッセージ 6月2日(火)

「前に向かって進もう!」

体育科 小澤 優子

こちらから讃美歌448番「み恵みを身に受くれば」を聞くことができます

【聖書】 フィリピの信徒への手紙 3章13-14節

兄弟たち、わたし自身は既に捉えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト·イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

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4月26日、今年の水泳部の一番大きな目標だったインターハイの中止が決定しました。その次の日、水泳部の高三の生徒が水泳部のclassroomに後輩たちに向けてメッセージを送りました。そこにはその生徒のインターハイ出場にかけてきた強い思いや『私達高三の夏は始まらないうちに終わってしまった。でも、みんなにはまだ来年があるということを忘れないで自分の目標に向かって真っすぐでいて欲しい』と後輩たちに託す願いが書かれていました。そのメッセージをきっかけに他の生徒からも、自分も大きな目標を失ってつらい、悔しい、悲しいといった高三の生徒に共感するメッセージがたくさん寄せられました。

そんな中、ある生徒が「自分は先輩たちとは違う思いです」という書き出しでメッセージを載せました。「今自分の中にある1番大きな感情は安心です。」と。その生徒はタイムが順調に伸びている先輩たちとは違って自分は調子が不安定で自分のせいでインターハイに行けなくなったら一緒に泳ぐ先輩たちはもちろん、応援してくれる沢山の人たちをがっかりさせてしまうと思っていたというのです。だからインターハイが中止になってこの思いから解放されて安心してしまっている自分がいる。そしてその時初めて抱えてきた思いを言葉にして、わけもわからず泣いているというものでした。

私はそれを読んで彼女がここで正直な気持ちを吐き出せて良かったと心からそう思いました。もしこのもやもやした思いをかかえたままで練習してもその成果は出にくくなったでしょうし、部活にいても後ろめたい気持ちでいづらさを感じながら過ごすことになってしまうと思ったからです。また、自分の気持ちを誰かに伝えたくても相手の反応が怖くて出来ないということは誰にでもよくある事だと思います。ましてや今回は自分だけが違う思いだとわかっていましたからその状況での告白はものすごく勇気のいることだったにちがいありません。それでも彼女が自分の気持ちを素直に伝えられたのは先輩たちを信頼していたからではないでしょうか。みんなとは違う思いの自分を受け入れてくれると信じられる関係が先輩と後輩のあいだに築かれていたことを実感でき教員の私にとってこれはとてもうれしいことでした。そしてうちあけられた上級生の方としても彼女は中学生の時から大会で華々しく活躍していて水泳には自信を持っていると思い込んでいたと思うので、強いと思っていた後輩が不安な気持ちを素直に自分たちに伝えてくれてうれしかっただろうと思います。そして先輩である自分がこの後輩の支えになりたいと思った上級生は多かったのではないかと私は思っています。

実際、彼女の正直な気持ちに対して高三の生徒からは『とってもわかるよ』『怖いとか不安とか誰でもあることだから安心したことは悪いことではないよ』『あなたのこと嫌いにならないよ』『あなたの気持ちがわかってよかった、ありがとう』などという言葉が返ってきました。そのことで彼女は先輩たちに気持ちを伝えて良かったと言っていました。そして私はこれで彼女がすっきりした気持ちで前へ進む事が出来ることになって本当によかったと思いましたし、この暗い状況の中、光が見えた気がしました。弱い自分をさらけだすことは結果、自分を強めることになりました。そしてチームの絆も一層強くなったと私は確信しています。

新型コロナウイルスの流行により、当たり前だった日常が当たり前でなくなりました。そして目標も夢も奪われる経験はできればしたくなかったのが本音です。でも後ろをふり返って嘆いてもそこからは何も生まれません。前を向いて進んでいきたいと思います。昨日から学校が始まりました。生徒の皆さんの声が校舎内に響き静まり返っていた学校に活気が戻ってきました。ここからまた皆さんと共に新しい気持ちで新しい目標に向かって希望を持って日々過ごしていきたいと思います。

新しい学校生活が始まりました!

6月1日、待ちに待った学校再開です。みなさんあらためまして、進級おめでとうございます。

これまでオンラインで学習したり、お友達と顔を合わせたりしてきましたが、やはり実際に会えるのは嬉しいもの。こどもたちの笑顔がはじけていました。

とはいえ、しばらくは半日ずつの2部登校制のため、全員で顔を合わせるのはまだ少し先になります。また、マスクの着用はもちろん、登校時や授業後の手洗い、間隔を開けた座席、特別な時間割など、これまでとはちがう学校での過ごし方になります。不自由さを感じることもあるかもしれませんが、私たちだけでなく、家族、お友達、日本や世界の人たちのいのちを守るため一つひとつ大切なことになります。どうかともに助けあい、支え合いながら、新しい生活を歩んでいきましょう。

礼拝メッセージ 6月1日(月)

「磨き合い」

高三副担任 関 一樹

こちらから讃美歌Ⅱ編26番「小さなかごに」を聞くことができます

【聖書】箴言27章17節

鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。

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皆さんこんにちは。

いよいよ今日から学校への分散登校が始まりますね。「久しぶりに友達に会える!」と気持ちが高まっている方や、どのような学校生活になるのかと不安に思っている方もいらっしゃるかと思います。特に中学1年生の方や高校から入学された方はなどは、「友達できるかな…」と不安に思っている方も多いかもしれません。冒頭で御言葉を紹介させて頂きましたが、これは私が友人と会ったり、ぶつかったりする際にいつも思い出す御言葉です。じきに学校が始まり、クラスメートや友だちと会うことができるようになるということで、ここを選びました。

私はこの御言葉の意味は「二本の鉄の刃をこすり合わせるとお互いが磨かれてより鋭く、より輝きを増すのと同じように、人は人との関わりでお互いが磨かれて成長する」という風に解釈しています。人とお互いに成長するという意味では、切磋琢磨という言葉にも似ているでしょうか。

この御言葉では友という字が使われていますが、友と一口に言っても一緒にいて居心地が良い人や、好きだけど嫌な部分もある人、心の中で苦手だなと思ってしまう人など、色々な友がいると思います。また、必ずしも 友=友だち ということでは無く、普段自分が関わりのある人の事を指すかもしれません。

「友によって研磨される」という言葉は一見「友と関わることで研磨されるのだから、仲良しの友と沢山関わりなさい」という意味のようにも感じられますが、苦手と感じる友との関わりも含んでいるのではと思います。私の経験談ですが、「こいつ自己中だな~」と感じたり、友人の態度にムカついてしまったりする際に自分を省みてみると、自分もそういうところがあるなと思わされることが意外とあるものです。友人と話して刺激を受けた時などにこの御言葉を思い出し、素晴らしい友人を与えて下さった神様に感謝するのはもちろんのこと、私は友人とぶつかった時にもこの御言葉を思い出し、神様はその友を通して私に何を教えて下さろうとしているのかと考えます。

今までの日々は、ある意味、居心地が良い友とテキストや電話を通して関わり合うものだったかもしれません。これからはそういった友と直接会うことができるようになっていき、苦手と感じる友と関わる機会も増えるかもしれません。新しい友との出会いもあるでしょう。この期間に新しいことを始めたという人も多いでしょうし(私も人生初の料理に挑戦してみたりしました。)

前から知っていた友人と学校で会っても、話してみたら「え?休校中にそんなことやってたの⁉すご!」という驚きがあったり、変化があったりするかもしれません。そういった友との関わり合いで私たちは刺激を受け、磨かれていくのではないでしょうか。COVID-19による影響で密集を避けるという動きの中、捜真生同士の対面での関わり合いが始まって行きますが、刺激を与え合い、磨き合っていく姿を見られることを楽しみに思います。

6月1日 入学式が行われます

政府による緊急事態宣言が解除され、在校生の準備登校が6月1日からスタート。同じ日に新入生の入学式が行われる予定です。
「捜真版『新しい生活様式』」にのっとってのいつもと違う入学式ではありますが、式の中でオルガンによって校歌が演奏されます。新入生の皆さんも在校生の皆さんも、校歌を聞いてテンションアップ!しましょう。

 

図書館だより 5月30日(土)

杉山先生から是非皆さんにと、本の紹介が届きました。

『アルジェリア、シャラ通りの小さな書店』カウテル·アディミ 作品社

「1960年4月9日
ここは恐ろしい場所だ。外出しないよう言われるが、もちろん働かなくてはならない。外出を控えるよう新聞で書く連中は、僕らがどうやって生活費を稼ぐと思っているのだろう。」

エドモン·シャルロの手帳のこの1節を読んだとき、ぎょっとしました。
ちょうど60年後の今、新型ウイルスで命を落とさなくても経済で亡くなる人がいるかもしれない状況だからです。

60年前の外出禁止令は、アルジェリアの独立戦争のさなか、フランスに住むアルジェリア人に対して出され、パリ警察による虐殺も起きたそうです。
エドモン·シャルロはアルジェリア生まれのフランス人で、21歳のときアルジェに書店兼出版社を開き、今話題の『ペスト』を書いたアルベール·カミュを世に送り出した実在の人物です。

〈真の富〉と名付けられた店には「若者の、若者による、若者のための」という看板を掲げ、激動の時代に命をかけて本を愛しぬきました。

著者はアルジェ生まれの女性作家。この作品は現代の大学生(読書嫌い!)のエピソードが挟み込まれている巧みな構成で、「高校生のルノドー賞」をはじめ、いくつもの文学賞を受賞しました。フランスの高校生に選ばれた作品なので、ぜひ捜真生にも読んでほしいです。

 

 

学校再開に向けて

以下は、5/25(月)15:00に配信したメールから抜粋しました。

保護者の皆様

新型コロナウイルス感染拡大のための長期に渡る休校にご協力くださり、誠にありがとうございます。

緊急事態宣言とそれに伴う外出自粛要請の成果が現れ、緊急事態宣言が解除された府県が大半になりました。そしてご存知の通り、北海道及び首都圏の緊急事態宣言の解除も本日中に公表される模様です。つきましては、学校における教育活動を6月1日より再開いたします。

しかしながら、市中にどの程度ウイルスが残っているのか把握する手段もなく、横浜市、神奈川県、東京都の現状から慎重に登校を再開させるべきであるという判断をいたしました。学校再開を待ちわびていた児童·保護者の皆様には本当に申し訳なく思いますが、どうぞご理解くださいますようお願いいたします。

具体的には、学年をクラスで分けて、午前·午後の二部登校を実施いたします。期間は概ね4週間といたします。

6月2日(火)は、入学式をクラス別に午前·午後に分けて行います。これに伴い、2年生〜6年生は6月2日(火)を再び休校とさせていただきます。

○学校の対策

①手洗い

登校時

登校時に子どもたちが確実に手を洗えるように、昇降口前に蛇口やポンプに触れなくても手を洗え  る器具を設置しました。また、一日に何度も手を洗うことを踏まえて、紙タオルを用意し手を拭けるようにします。

学習時間帯

定期的に教師の指導の下、蛇口やポンプに触れないかたちでクラス全員で手洗いを行います。更に頻繁に手を拭きたい場合は、ウエットティッシュを持たせていただき、児童が適宜拭くようにしてください。

②消毒

子どもたちが教室内にいる時間帯を利用して、蛇口、トイレの扉·ボタン·バルブ、階段の手摺りなど、多人数が触れることが想定される箇所を1日に複数回消毒します。一日の学習活動が終了後、児童の使用した机を同様に消毒します。教室の机·椅子は午前と午後で別とし、専用で使うようにします。

③換気

教室は必ず2方向の窓を開けて、換気を図ります。

④水分補給

個人の水筒から行うことといたします。マスクを外す場面になりますので、着席して教員の指導の下、マスクの片側だけを外すかたちで行います。尚、前述の手洗いの方法と水分補給の仕方などの動画を明日配信いたします。お子様と一緒にご確認ください。

⑤教員·学習

子どもたちと対面するかたちになる教師は、マスクを必須とすることはもちろん、全体に説明するような場面では児童から2m離れることを心がけます。大きな声を出さないよう、簡易的なマイク を必要に応じて使用します。また、飛沫を飛ばす恐れのあるホイッスルの使用は止め、電子ホイッスルを使用します。

以下のような子どもたちが同時に発声するような学習は当面行いません。(個別に行う場合はあります。)

歌唱、音読、発声練習、リコーダー·ピアニカ演奏 等 接触が増えるグループ学習などは当面行いません。また、休校期間  が長かったこと、気温が上昇する季節になっていることを考慮して体育の学習は穏やかなものから少しずつ進めていきます。

○保護者の方、子どもたちへのお願い

マスク

登下校時および学校内では十分な距離をとれない場面もありますので、マスクの着用は必ずお願いします。市販の大人用マスクを使う場合は子どもの顔の大きさに合うようにゴム紐の長さを調節してください。ずれると顔を頻繁に触ったり、口·鼻を覆えなくなり意味が薄くなります。マスクは、使い捨てのサージカルマスク、布マスク、手作りマスク、ハンカチを折って作った簡易マスク、政府配付の洗えるマスク、どのようなものでも構いません。色柄も問いません。汚れた場合に備えて、予備を一つ持たせてください。

検温および欠席のお願い

登校前には必ず検温してください。平熱と差がある場合、その他、咳が出る、のどが痛い等の風邪症状がある場合は欠席をお願いいたします。

子どもたちへのおねがい

子どもたちへは、①マスクをつける ②手を洗う に加えて、③友だちと手をつながない ④友だちや自分の顔を触らない。心配があるご家庭は花粉症用の眼鏡を着用させてください。 ⑤相撲のような抱き合う感じになる遊びはしない。以上の5つをお願いします。(子どもたちだけで自由に遊ぶ時間は、当分の間設けません。)

休校期間中の取り組みはこちらから

図書館だより 5月29日(金)

『犬は神様 DOG is GOD』山本容子 講談社

偶然にも、前回の本同様、表紙に犬が描かれています。
山本容子さんは、銅版画家でエッセイストでもあります。
銅版画を描いたことはありますか?私は捜真の高校時代に美術研究で一度だけ描いたことがあります。銅板に鉄筆で傷をつけ、さらに薬品でその傷を腐食させ、凹んだところにインクをのせて紙に摺って完成。なかなか思い通りならず、苦心した思い出があります。

山本さんの作品は銅版画にのせた薄い黄色や橙色の明るい彩色が特に印象に残ります。鉄筆でつけた線の太さ細さ、線を重ねた濃いところ、一本の繊細な線が豊かな表情をあらわしています。目を凝らすと手作業で創られた優しい世界が見えてきます。絵を描く感性は、文章を書く感性にもつながるのでしょうか。

この作品は、長年一緒に暮らしてきた犬の“ルーカス”との思い出がつまったエッセイです。犬を飼うまでは想像できなかった生きもの同志の深い関わりが、胸の奥に届いく作品でした。
昨冬に16歳で逝った我が家の柴犬を思い出しては、幸せだった日々を又期待するこの頃です。
疲れてしまった時は、近くの誰かに「ただそばにいてもらう」ことをおすすめします。

礼拝メッセージ 5月29日(金)

「W.W.J.D.?」

中学部教頭  島名 恭子

こちらから讃美歌7番「主のみいつとみさかえとを」を聞くことができます

【聖書】ヨハネによる福音書1章1節

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。

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長かった休校期間も終わりが近づき、来週からは学校への登校が再開できるようになりました。少しずつであっても日常が戻ってくることはうれしいことですが、ここに至るまでに多くの方の命が失われたこと、医療や介護、その他の様々な場所で、今も命がけで働いてくださる方たちがいらっしゃることを、私たちは忘れてはならない。そう思います。

さて、今日のタイトル「WWJD?」とは何でしょう。これは「What would Jesus do?(イエス様ならどうなさるでしょう)」を略して表したもので、ネックレスとかブレスレット、キーホルダーなどのデザインとしても使われていることがあります。
捜真では「WWJD?」といえば、J.O.C.のキャッチフレーズでもあります(中1の皆さん、J.O.C.については入学したらきっと紹介がありますから、楽しみにしていてください)。

先日、東京にある「上馬キリスト教会」のTwitterを見ていて思わず笑ってしまいました。有名な「最後の晩餐」の絵を題材にして「新しい生活様式、はじめました。対面でなく横並びで座ろう」とツイートしていたのです。誰でも知っているいわゆる「名画」に、こんなユーモアたっぷりのツイートは不似合いなのでしょうが、とにかく楽しくなりました。もし、イエス様が今、ここにいらしたら、きっとこんなふうに私たちを笑わせてホッとさせる、あたたかな言葉をかけてくださるにちがいない、とも思いました。

今回の「コロナ禍」と呼ばれる状況で、家にいる時間が長い分、私たちはテレビやネットでたくさんの言葉を聞いてきました。人を励ます言葉もたくさん聞かれました。でも、人の心がささくれだつような言葉を聞くことも、それと同じくらいたくさんあったと思います。私自身ももしかしたら人を傷つけるような言葉を使っていたかもしれません。「イエス様だったらどうなさるでしょう?」と考えるゆとりもなかったことに気づきます。

本来、言葉は人を生かすものであるはずです。ヨハネによる福音書の最初に「言は神と共にあった」とありますが、神様は私たちをいかしてくださる方ですから、その神様と共にある言葉もまた、私たちをいかすものであるはずなのです。

聖書には、言葉によって人の病をいやし、人を生かすイエス様のことがたくさん書かれています。
もし、今、ここにイエス様がいらしたらいったいどうなさるでしょう。きっと、今、苦しさ、孤独、弱さ、寂しさを感じている私たちをいやし、生かす言葉をかけてくださるに違いありません。時にはユーモアたっぷりに私たちを笑わせてくださるかもしれません。

まず私たち自身がイエス様の言葉から生きる力をいただきたいと思います。そして、少しでもイエス様に倣って、私たちの近くで苦しんでいる人、つらい思いをしている人、寂しくて助けてほしいと思っている人にあたたかな生きる力となる言葉をお伝えできるものでありたいと思います。「イエス様ならどうなさるでしょう?」と考えながら今日一日を過ごしたいと思います。

お祈り
天にいらっしゃる父なる神様。今日、このような形で多くの方とともに礼拝を守ることができましたことを感謝します。
その時々で、「イエス様ならどうなさるでしょう?」と祈り考えることができるものと、私たちをしてください。イエス·キリストのお名前によってお祈りします。アーメン

 

新しい学校生活

学校再開に向け、新しい学校生活のお約束を動画にて児童とご家庭にお伝えさせていただきました。

(動画が表示されない場合は、再度読み込みを行ってください。)

こんにちは。enjoy_your_timeです

高三有志団体enjoy_your_ timeは総勢24名で活動しています。
私達は、コロナ禍において何かできることはないか、自分たちの休校期間の時間が誰かを幸せにするものになってほしいと考えて、この団体を作りました
私たちは、自分たちのやりたいと思うことや社会貢献など、主体性をもって自ら提案し、様々な活動を行なっていくことを目指しています。

今回は、毎日家にいる捜真の、主に小学生に届けたいと思い、読み聞かせをしてみようと考え、私たち独自の紙芝居を作成し、動画にしてみました。家で退屈している子供たちとお母さんの助けに少しでもなれば幸いです。

小さな行動でも何か大きなものに繋がる、そして誰かの幸せに繋がると思い、引き続き、精一杯頑張って行きたいと思っています。

 

こちらから紙芝居をご覧いただけます

中1のために高三が動画をつくりました

高校三年生が中学1年生に向けて応援のメッセージ動画を作ってくれました。
テーマは「中学1年生の時不安だったこと……。」
中学1年生はようやく入学式の日が近づいてきたところです。これまでも大変だったことでしょうし、また実際に登校の日が近づくにつれて不安も募るかもしれません。高校三年生も最初は同じように不安だったようですね。
高校三年生の思いが届いて、1年生が穏やかで楽しい捜真生活を送れるよう、教員もお祈りしています。
高校三年生の皆さんも、本当にありがとうございました。

礼拝メッセージ 5月28日(木)

「狭い門から入りなさい」

中1学年主任  佐々木 広

 

【聖書】マタイによる福音書7章13節~14節

狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。

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ゴッホという画家を知っていますか?

ゴッホの代表作「ヒマワリ」の1つが日本にある、というのは有名な話です。安田海上火災という会社が、1987年に58億円で競り落としました。

ゴッホは37歳という若さで死にましたが、死ぬまでの約10年間で、860枚の油絵を描きました。しかし、生きていた時には、彼の絵はたった一枚しか売れなかったそうです。

もしもゴッホの生涯を「勝ち」「負け」で判定するとしたら、あなたはどっちだと思いますか?生きているときに絵が売れたかどうかを基準とするならば、「負け」かもしれません。

では、ゴッホ自身はどう思っていたのでしょう。

「10年間で860枚」を単純計算すると、4日で1枚というハイペースで絵を描きあげていたことになります。絵が売れないことを気にしていたら、そんな風に描く意欲がわいてくるか。たぶん無理だと思います。

ということは、ゴッホは売れるかどうかを自分の基準にしていなかったことになります。そして、そこがゴッホのすごさだと思います。

世の中の評判や評価ではない、もっと次元の違うことを自分の基準にしていたから、ゴッホにしか描けない独自の画風を確立できたわけです。

私たちは、周りの評判や評価が気になって、周りに受け入れられることを優先してしまいがちです。でも、そうした生き方は、勝っているように見えて、実は負けているのかもしれません。そういう生き方は、他人の人生になってしまっていて、自分の人生を生きていないのです。そんなことを、ゴッホの人生から考えさせられます。

さて、あなたは、世の中の多数派でいたいと考えますか?

今世界は、ウィルスの感染拡大によって大きな混乱と不安の中にあります。

何が正しいのか、どうするのが正解なのかわからない、そんな混乱の中で生きていると、私たちは「拠りどころ」がほしくて、自分で考えるより先に、周りに情報と基準を求めます。そしてテレビでニュースを見たり、インターネットで検索したりします。

しかし私などは、ニュースを見て、たとえば「ある学校がこんな最新の方法をとりいれて成功している」などの情報に触れると、「拠りどころ」を得るどころか、かえって不安になります。「自分は競争に乗り遅れ、脱落してしまうのでは」と。そして不安に負け、「乗り遅れてはいけない」という「思考停止」の生き方に流されてしまうのです。

今日の聖書の言葉は、狭き門から入れ、と言っています。なぜイエスはそう言ったのでしょうか。

周りを見て、皆がこうしているから私もそうしなきゃ、という生き方では、真に価値のある、「いのち」に至る道を見つけることはできない、ということだと思います。

「私の人生」にとっての価値は、多数決では決められません。自分一人になってさがし求めていくしかありません。それは孤独な作業ですが、その孤独に耐え、自分1人しか通れないような、自分の「狭い道」をさがし求めなさい、とイエスは言っているのだと思います。

お祈り

今日もともに、礼拝の時間をもてたことを感謝します

自分の人生にとって最も大事なものは、人と同じではないはずです。しかし、私たちは、周りと同じであると安心し、大事なものが何か、考えることをやめてしまいがちです。

一人になって、静かに聖書の言葉と向き合い、自分と向き合う時間をつくることができますように、私たちを導いてください。

悩みの中にある人、体調がすぐれない人、苦しみの中にある人を、あなたが守り、いやし、励まして下さい。イエス·キリストの名によって祈ります。

 

 

図書館だより 5月27日(水)

『希望という名のアナログ日記』角田光代 小学館

石黒先生が注文された本ですが、本屋さんから届いた箱をひょいと覗いてみたら、なんとも魅力的な題名に手が伸びてしまい、一気に読んでしまいました。(先に読んでしまってスミマセン石黒先生)

表紙は『100万回生きたねこ』の作者、佐野洋子さんの装画。木の枝に足をかけさかさまにぶら下がった子どもはいったい誰でしょう?周りの鳥や犬やカエルがにぎやかに画面に収まっています。

目次を開いてみると、

Ⅰ<希望を>書く Ⅱ旅の時間·走るよろこび Ⅲまちの記憶·暮らしのカケラ

帯に「作文の得意な少女は作家になる夢を追いかけた」とあったので、小学生時代のお話が書かれているかなと想像しましたが、Ⅰには、みなさんが「これって、もしかしてここの教室?」と思える箇所が出てきます。Ⅱには、旅やマラソンなど自分の時間に感じた思いがさらりと書かれています。みなさんも同じように感じたこと、あるかもしれません。Ⅲには(中高生にはもう少し先の風景かもしれませんが)私には「そう、それだよ」と思っていたけれど言葉にするとこうなのね。と、すとんと納得できる文章が書かれていて、読んだ後に「一緒だね」というほっこりとした気持ちになりました。

言葉は不思議ないきものだと思います。乱暴に使って傷つけることもできるし、優しく慰めることもできるし、角田さんのように読者の気持ちを代弁して共感させることもできるし。

「目の前しか見えていない。」とおっしゃる角田さんですが、その目の前を切り取ったアナログな画面が特に今、魅力的です。

ところで、あなたはどのように言葉を使っていますか。私はどうやって使っているかしら。