投稿者「soshin」のアーカイブ

礼拝メッセージ 7月8日(水)

心の痛みを分かち合う」

スクールカウンセラー 平山 彩乃

【聖書】マタイによる福音書 7章12節
「人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

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この聖句は、亡くなった大好きな祖父が大切にしていた聖句です。祖父は遺書に、この聖句をカードにして、自分の葬儀に来てくださった方々に配ってほしいと残しました。当時私は小学4年生だったのですが、祖父の娘である私の母は、祖父が亡くなった悲しみの中で「おじいちゃんはこの聖句の通り、自分がしてもらって嬉しいことを惜しみなく、無条件に人に行う愛情深い人だった。」と言いました。私も祖父のような人になりたいと思い、この聖句を心に刻み、祖父の聖句カードを聖書に挟み大切にしてきました。

この聖句は、私の人生の道標になりました。心理学部を求めて行ったオープンキャンパスの大学の校訓は「Do for others」でした。“Do for others what you want them to do for you”、なんと、マタイによる福音書 7章12節「人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも人にしなさい」でした。私は運命を感じ、この大学で心理学を学びたい、この大学に進めば道は開かれると思いました。そして捜真のスクールカウンセラーへと導かれたのです。

ルカによる福音書の「敵を愛しなさい」という表題の中にも「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。(6章31節)」とありますが、「あなたの頬を打つものにはもう一方の頬も向けなさい」と続きます。恥ずかしながらこの部分の理解には苦しみました。

しかし、ヒントとなる出来事がありました。私が相手のことを思って一生懸命したことだったのに、相手に気持ちをないがしろにされたようなことがあり、それが悲しくて悔しくて、その相手に感情をぶつけてしまいました。それに対し、さらに「目には目を歯には歯を」のような言葉を返され、とても悲しくなりました。自分がされて嫌なことはしない、それが私の軸となっているため、衝撃的で言葉を失いました。

この時私は、相手にもう少し私の気持ちを理解してもらいたかったのだと気付きました。それなら、私はまず怒りをぶつけたことを謝り、相手の気持ちを理解すべきだと思い直しました。同時に、「あなたの頬を打つものにはもう一方の頬も向けなさい」について考えるチャンスとなりました。傷ついて、言い返したくなっても、それをしてしまったら事態は悪化します。まずは相手の言葉や気持ちを受け止め、あなたのことをもっと理解したいからあなたの痛みを私も知りたい、という姿勢で接することが「もう一方の頬も向ける」ということなのではと考えさせられました。

心理学的な側面からも考えてみました。攻撃的な言動や怒りの根底に不安や悲しみ、傷つきがあることが多いのです。そのため、攻撃的な言動を向けられて言い返したくなっても、その人にもきっと不安や悲しみ、傷ついた気持ちがあるのかもしれないと一度立ち止まり、“あなたのことを理解したいから怒りもその奥にある不安や痛みも全て受け止めたい、だから聴かせてほしい”という姿勢で向き合うことが大切だと改めて思いました。

「人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」が無条件の愛を与えることであるなら、「あなたの頬を打つものにはもう一方の頬も向ける」とは心の奥にある痛みを分かち合いたいという気持ち、姿勢なのではと気付き、救われました。

※注 いかなる場合でも、暴力はいけないことですので、実際に暴力を振るわれた場合は必ずSOSを出してください。

 

捜真SDGs実行会 新たな2プロジェクトスタート

捜真SDGs実行会の2つのプロジェクトが始まりました。

【With Girls】

日本では、当たり前に買える生理用品ですが、世界の女性の中には生理用品を買えない人が多くいます。そのために、その期間は学校に行けないような状況も起きています。

そこで、「With Girls」チームは、女子校の強みを生かし、生徒から生理用品の献品を募り、レッドボックスジャパンを通してアジアの発展途上国の学校に届ける活動を始めました。

献品受付期間は、7月2日〜18日です。

 

 

【TFTプロジェクト】

月に一度、カフェテリアでTFTランチを実施し、アフリカの子供たちの給食支援を行ってきた、TFTチームですが、コロナウイルスの影響により、カフェテリアの営業がストップしているため、支援もできなくなっていました。

そこで、あらたに「おうちでTFT」プロジェクトを始めました。
これは、家でヘルシーな食事を作り、写真に撮って 投稿することで、アフリカの給食支援につながるという活動です。(企業スポンサーが出資)

おうちでTFTプロジェクトの参加方法は、
①ヘルシーな料理を手作りする
②手料理の写真を撮影する
③ 料理名やコメント(材料や作り方、こだわりなど)を書いて、写真を添付して下記アドレスに送る

【おうちでTFT  捜真専用アドレス】

 

※送られたメールは、TFTUA(おうちでTFT企画団体)が捜真分をまとめてSNSに投稿します。
期間は7月1日~28日です!
HPをご覧の皆さんも是非、ご参加ください。
※TFT(テーブル·フォー·ツー)とは、先進国の人々がヘルシーな食事をすることで、1食20円がアフリカの給食支援に使われるという活動です。20円はアフリカの給食1食分に相当します。
【投稿の例】
早速、中1の生徒が投稿してくれました。

礼拝メッセージ 7月7日(火)

「ある女流作家の推理小説から……」

                          中2副担任 日浦華子

こちらから讃美歌79番「ほめたたえよ つくりぬしを」を聞くことができます

 

【聖書】エフェソの信徒への手紙4章32節~5章1節
互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。

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こんな推理小説があります。有名な女優が田舎の村に引っ越してきて、パーティーを開きますが、招待客の女性が殺されてしまいます。その女性は、有名女優が飲むはずだった飲み物を飲み、そこに入っていた毒によって死んでしまったのです。有名女優をねらった殺人事件として村は大騒ぎになります。(···ここからはネタバレになってしまいますが)

パーティーの場で、殺された女性は自分がいかに女優である彼女のファンであるかを楽しそうに話します。そして、昔、医者が止めるのも聞かずに当時入院していた病院を抜け出して、女優に会いに行ったことを自慢げに嬉しそうに話すのです。そして女優はそこで理解します。実は女優の子供は重い障害を抱えていて施設で育てられているのですが、その障害の原因が、今、目の前で嬉しそうに話しかけてきている女性であることを。当時、妊娠していた女優に、風疹で熱が出ているのにもかかわらず、医者に止められているにもかかわらずに接してきた女性によって子供に悪影響が出てしまったのです。

女優に殺意が生じます···。という内容ですが、新型ウィルス感染対策の今だからか、このお話が思い出されます。
「うつさないように」「うつらないように」、目に見えない感染という現象に細心の注意を払っている世の中です。お互いがマナーを守ることが当然のこととなると、危機意識のない無防備な行動をしている人を見てハラハライライラすることもあります。

でも、逆に気づかないうちに自分がほかのひとを傷つけていることって山のようにあるのではないでしょうか。先ほどの推理小説に出てきた、悪意なき、空気の読めない女性に向けられた殺意というほどのレベルでなくても、知らないうちに誰かを悲しませているということはあり得ることです。
その気がなくても罪をつくって生きているのが私たちです。それでも、赦されて生かされているのですね。

礼拝メッセージ 7月6日(月)

「数学は何の役に立ちますか?」

中3担任 山本有希菜

 

こちらから讃美歌66番「聖なる 聖なる」を聞くことができます

 

【聖書】コリントの信徒への手紙(一)15章58節

わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

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私が数学の教員を目指した理由の1つとして、「数学のことを好きだから」ということが挙げられます。
具体的なきっかけは、中学1年生のとき「式に文字を使う」ということを学んで、とても感動したこことでした。たとえば、「ある数に3を足して2倍し、5を引くと13になった。ある数はいくつか求めなさい。」という問題を考えるとき、「式に文字を使う」ということを知らないと、13から順に逆算していくしかありません。ですが、「式に文字を使う」ということを知っていれば、式を立てて簡単に解くことができますね(ぜひ解いてみてください!)。

そんなわけで私は数学の教員になったわけですが、「数学は何の役に立ちますか?」と生徒のみなさんからよく質問されます。そのたびに私が思い出すのは、森博嗣さんの「冷たい密室と博士たち」という小説の一節です。

犀川先生なら、どう答えられますか?」国枝桃子が無表情で尋ねた。「学生が、数学は何の役に立つのか、ときいてきたら」
「何故、役に立たなくちゃあいけないのかって、きき返す」犀川はすぐに答えた。「だいたい、役に立たないものの方が楽しいじゃないか。音楽だって、芸術だって、何の役にも立たない。最も役に立たないということが、数学が一番人間的で純粋な学問である証拠です。人間だけが役に立たないことを考えるんですからね」
「何故、役に立たなくてはいけないか、ですか……。うん、それはいい」と高校教師が呟く。
「そもそも、僕たちは何かの役に立っていますか?」犀川はおどけて言った。
                著:森博嗣「冷たい密室と博士たち」(講談社文庫、1999年出版)

「役に立たないものの方が楽しいじゃないか。」
生徒からの質問に対してどう答えてあげればいいか悩んでいた私にとって、とてもハッとさせられる台詞でした。確かに、「楽しい!」と感じるかどうかは人によって違いますが、実は「楽しいとき」とは、友達と話していて楽しく盛り上がっているときや部活動をしているとき、あるいは好きなアーティストのライブを観ているときなど、人生において本当に役に立つのかどうかは分からないときなのではないでしょうか。
「役に立たないから…」と切り捨ててしまうのではなく、その中にある「楽しさ」に気づける人になりたい、気づかせてあげられる人になりたいと私は思います。

礼拝メッセージ 7月2日(木)

「小さな者と共に生きる」

中3担任 後藤由起子

こちらから讃美歌354番「飼い主わが主」を聞くことができます

 

【聖書】マタイによる福音書18章10節
これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちたちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。

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3月上旬に上陸した3つの台風は、勢力を強めながら我が家に停滞し続けました。時に雷や大雨を降らせながらいつまでこの様な日が続くのか、先の見えない毎日にただただ辛抱するしかありませんでした。仲良く遊んでいたと思ったら喧嘩、大粒の涙を流しながら訴える息子。外にも出られずボールが部屋の中を飛び交う状況に、母の雷が落ちるも数時間後にはケロッとまた楽しそうに遊んでいる。そしてまた喧嘩。お互いストレスのはけ口が見つからないまま1週間が経った時。子供たちに「この休校期間中だからやれる事、やりたい事はないか」と聞いたところ、次男が「犬が飼いたい」と言い出しました。その提案に長男も三男も乗っかり、子供たちで「どうしたら飼えるのか」の議論が始まりました。

数年前から犬を飼いたいと誕生日やクリスマスが来るたびにお願いされていましたが、共働きで土日も家にいないようなお家に子犬が来たら可哀そう。自分の事が自分で出来ないのに犬の面倒は誰が見るのかなど様々な理由で拒否し続けていました。そんな子供たちは今しかチャンスはないとばかりに、両親を説得するためのプレゼンテーションが始まりました。
始めにインターネットや本を見ながら犬を迎え入れるために必要なものや予算、飼いやすい犬種、飼い方やしつけの方法、何よりも今しか飼えない理由を書き出し、メモを取ってまとめ始めました。
今なら学校も無く自分たちで面倒が見られること、学校が始まっても半日授業なので自分たちでお世話が出来ること。何よりも父親がしばらく在宅での勤務が多いので安心であること。一ヵ月あればトイレトレーニングやお留守番のトレーニングをする時間も十分あるなど子供たちのプレゼンの熱意に押され、こちらも迎え入れる決意を固めました。しかしこのご時世、ペットショップに行って見つけることが出来ず、事前にネットを使って逢いたい子を予約するシステム。そこで出会った一つの命。実際に会っても気持ちは変わらず、一目で気に入ったトイプードルの女の子を見て、息子たちのスイッチが本格的に入り、この子を迎える為の準備を進めていきました。

5日後、我が家に来た救世主。この日から我が家の空気が一変しました。大きな声を出す事も、物が飛び交うことも無くなり、この子中心の生活が始まったとたん嵐が凪になったのです。皆がこの小さな者の為に何をするべきか、何が出来るかを考える生活。我々親の想像をはるかに超え、平穏な落ち着いた生活を過ごすことが出来ています。命を預かるという事に不安はありましたが、子供に押されて踏み出したことで不満ばかりの自粛期間にならずに済んだ後藤家です。いざという時こそ、見えるものがあり、再確認出来る事があると改めて自粛の期間があったからこそ感じられた事柄でした。

休校期間中、やりたい事も出来なくて、あれもダメこれもダメの生活で押しつぶされそうになった人も多いのではないでしょうか。私も知らず知らずどこかで「早く平穏な生活に戻りますように、どうか助けてください」と叫んでいたのでしょう。今まで余裕がなく、聞き流して済ましていた私ですが、時間をかけてじっくり話を聞き真剣に向き合う事の出来た時間は私には貴重な時間となりました。自分の力で生きていく事の出来ない小さな存在が我々家族の宝となり、これからもずっとずっと愛されますように。

 

 

礼拝メッセージ 7月3日(金)

「きのう、きょう、あしたの自分」

中3担任 河合 寿水

こちらから讃美歌532番「ひとたびは死にし身も」を聞くことができます

【聖書】コリントの信徒への手紙一 3章6節

わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。

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「♪きにしすぎると、おとなになっちゃうよ~」。この歌は、Eテレで放送されているオトッペという番組の歌です。休校期間中、我が家の朝のテレビは決まってEテレがついていました。オトッペは世界一のDJを目指すシーナと音から生まれたオトッペ(水のオトッペ、火のオトッペ、金属のオトッペなどがいる)の毎日を描いたアニメです。私はこの歌を聞くと思い出すことがあります。

私は大学生の時に南米·アルゼンチンに1ヶ月行く機会がありました。午前中はスペイン語の勉強、午後はアクティビティで馬に乗ったり、チェ·ゲバラが生まれた家に行ったりしました。私のホストファミリーは、富裕層の家庭で街の中心に行くにもバスに1時間ほど乗らないといけませんでした。アルゼンチンでの生活が始まったころ、ホストマザーに、「街から家に向かうバスは2つあるの。1つは普通のバス。もう1つはタクシーみたいに降りたいところで降ろしてくれる白いバスよ。普通のバスでは家に着かないから、運賃が高いけれど白いバスに乗りなさいね」と言われました。はじめは街のこともバスのこともよくわからなかったので、白いバスに乗っていましたが、慣れてくると普通のバスにも乗りたくなり、バスの案内には住んでいる地名が書いてあるのだから乗ってみようと思い、乗りました。

バスに乗り込み、順調に見慣れた景色を眺めているとバスは急に角を曲がり、あれよあれよという間に、自分がどこにいるのかわからなくなりました。さすがにマズイと思い、バスを降りました。降りたところで右と左、どちらに行って良いのかも分からず、空はだんだん暗くなり南十字星が輝き始めました。バスが来た道を歩いていると、ピザ屋さんがあり英語でdeliveryと書いてありました。ココしかない!と思い、自分が道に迷っていること、ピザを1枚買うから家まで連れて行ってほしいと話をしました。店員さんは、笑いながら快諾してくれました。ピザと共に家に帰ると、ホストファミリーは電話を握りしめながら私を待っていてくれました。

「♪きにしすぎると、おとなになっちゃうよ~」のフレーズは、私たちに何を伝えたいのでしょうか。私は子どもたちに失敗をする経験をし、成長をしてほしいのかな、と思います。大人になると失敗する回数は減ってしまいますが、失敗してしまうのが人間です。しかし、神様は私たちを守り導いて下さいます。誰でも多かれ少なかれ失敗をして人生を歩んでいるものです。神様に身を委ねながら、自分と向き合い毎日を歩んでいきたいですね。

礼拝メッセージ 7月1日(水)

「希望」

高二担任 大和 由祈

こちらから讃美歌Ⅱ編64番「のぼれ高く」を聞くことができます

【聖書】 ローマの信徒への手紙11:11〜12
「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」

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「カンボジアのアンコールワットがある街·シェムリアップでは、幸いコロナウィルスの感染拡大は食い止められているものの、産業の柱である観光業が大打撃を受け、街は壊滅しています。ホテル·レストラン·スパは軒並み廃業もしくは休業。街はゴーストタウンと化し、多くの人が失業しています。」

私がインターネットでこの記事を見たのは、5月中旬のことです。この記事を見た途端、私の頭の中には、様々な人·そして様々な場所が思い浮かびました。
毎年カンボジア研修でお世話になっている、現地ガイドやバスドライバー、ホテルやレストラン、アンコール遺跡群で働いている人たち、マーケットで流暢な日本語を操って私たちとやり取りをしてくれるお姉さんたち、訪問するCCH(児童養護施設)やピートゥヌー小学校の子供たち…
彼らの生活は今どうなってしまっているのだろう。失業し収入がなくなって、食べるものにも困り果てるような生活をしているのだろうか。学校が休みになって何をして過ごしているのだろうか。彼らのあの素敵な笑顔が失われてしまっているのだろうか。
残念ながら彼らと連絡を取る術はありませんから、今の私に出来ることと言えば彼らの安全な生活が守られるよう祈ることしかありません。

そんな中、私は、日本のNPOが母体となって始められた、SALASUSUというブランドの活動を知る機会を与えられました。SALASUSUは、カンボジアの農村部に工房を構え、そこに住む女性たちを雇い、カバンやサンダルなどを作り販売しています。更には、女性たちの自立を促すためのソーシャルスキル教育·給食の配給などのプログラムも行っています。
しかし、今回のコロナウィルスの影響で、店舗は休業、彼女たちの働く工房も閉鎖を余儀なくされ、また彼女たちの家族も失業に追い込まれ、と彼女たちの生活は苦しくなっています。

SALASUSUはそのような彼女たちの給料だけはなんとか補償したいと、クラウドファンディングにも取り組んでいました。しかし驚くべきことに、彼女たち自身も、この状況に困り果て途方に暮れていただけではなく、新たなチャレンジを始めていたのです。彼女たちは農作物や家畜を育てたり、自分で作った食べ物を売ったりすることで、少しでも自分たちの家族の生活費を確保する努力を始めていました。この試練の中で、何とかして自分たちで自分たちの道を切り拓こうとしているのです。

今日の聖書の箇所でパウロは、ユダヤ人たちがイエス様を裏切ってしまったことを「つまずき」と言っています。しかし、そのユダヤ人の失敗によって、異邦人、つまり私たちを含む世界中の人々に救いが与えられたとも言っているのです。そう考えると、このユダヤ人の「失敗」「つまずき」でさえも、神様が「全ての人に救いをもたらす」ための計画の一部だったと言えるのではないでしょうか。
カンボジアの人たちだけではなく、私たち自身も今はまだ、自分たちの思い通りに物事が進められない「試練」の中にいます。しかし神様はきっとこの「試練」の先に必ず「希望」を与えてくださっていると思うのです。私たちも今のこの現状にただ嘆き続けるのではなく、カンボジアの女性たちのように、「自分に出来ること」を見つけ、それに挑戦し、神様が必ず用意してくださっている「希望」へと近づいて行きたいと思います。

*SALASUSUホームページ https://salasusu.com/

アンコールワット

CCH(児童養護施設)の子供達と(2018年度カンボジア研修)

 

 

 

カラフルに 中3美術作品「こけし」

中学部3年生によるペットボトルこけしが展示されています。

中2の3学期の課題として取り組んでいたものですが、休校期間中に家庭で続きの作業に取り組み、カラフルで個性あふれるこけしができあがりました。

図書館から本の紹介 6月30日

『ミタカくんと私』銀色夏生 新潮文庫

 

生徒の皆さんから「恋愛小説を読みたいのですが、おススメ本はありますか?」とよく聞かれる。週末に「恋愛」とタイトルにつく本を漁って読んでみたが、私自身がすでに遠い昔の記憶を辿ることができず、更に最近の本は社会情勢があまりにも違いすぎてぴんと来なかった。平成十二年に出版されたこの一冊がようやくみつかった。
恋愛はある日突然やってくることもあれば、ふと気づいたらそばに転がっていることもある。来るぞ来るぞと予感がする場合もあれば来てよ来てよと思っていても一向に始まらないこともある。要は偶然任せなものなのだと思う。
主人公は並子。ミタカ君とは幼馴染。こんな人がそばにいたらよかったのにとしきりに思う。
皆さんもよくよく周りを見回したら、あっと思う人がいたりします。それを待つのも一興です。
続き物の『ひょうたんから空』もおススメ。若いうちにた~くさん恋愛もしてください。おばあちゃんになると忘れちゃうからね。

 

 

礼拝メッセージ 6月30日(火)

「たとえ小さなものでも」

中学部教頭 島名 恭子

こちらから讃美歌284番「主の尊きみ言葉は」を聞くことができます

【聖書】ヨハネによる福音書6章7節

「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

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この間の日曜日の新聞に「どうぞのつくえ」という記事がありました。北九州市にある南小倉バプテスト教会の前にある「つくえ」が紹介された記事です。

4月最後の金曜日、この教会の牧師である谷本仰さんのところに、菓子パンや調理パンがぎっしり入っている段ボール箱がひと箱、送られてきました。新型コロナ感染拡大防止のためにすでに教会では礼拝も行われておらず、信者さんたちも集まれない時期でしたので、谷本さんはパンをどうするか困ってしまいます。パンの大半は消費期限も翌土曜日でしたので、教会の玄関先に折り畳み式テーブルを出してパンを並べ、「ご自由にお持ち帰り下さい」と貼り紙をしたのだそうです。さらに翌日曜日に友人からもらった泥付きタケノコも数本置いたそうです。

するとその夕方、まだ残っていたタケノコ2本の横に、収穫したての新タマネギが転がっていたのです。さらに机の下の段ボール箱にもどっさりのタマネギ。おまけに「掘りたてたけのこ ご自由にお持ち帰りください」と書いておいた貼り紙の「たけのこ」の上には「と、玉ねぎ」と書き添えられていたというのです。谷本さんはこのつくえを「どうぞのつくえ」と名付けて、「誰かが助かりそうなものや喜びそうなものを一つか二つ、持ってきてください。そして、欲しいものや要るものがある人は、どうぞお持ち帰りを」と呼びかけたのでした。
以来、この「どうぞのつくえ」には白玉粉やホットケーキミックスが登場したり、朝置かれていたツナ缶が夕方サバ缶に変わっていたり、マスクや洗剤など日用品が登場したり。今日まで続いているというのです。

新聞を読んだ後、南小倉バプテスト教会のFacebookを見てみると、小さな机に乗りきらないくらいの品物、日によっては机の下に箱や代が置かれ、たくさんの品物が置かれている画像を見ることができました。置かれているものは決して高価な物や珍しいものではありません。きっとほとんどの家庭に「ある時にはある」というものばかりです。でもそれがなくて困ってしまう時もあるでしょう。珍しいものでも高価なものでもたくさんのものでもない、小さなものが誰かの役に立つということがあるのです。自分にとってはそれほど価値が高いとは思えないものでも、誰かを助けることができる。この記事はそのことを伝えてくれていると思います。

今日の聖書の言葉は、イエス様が五千人に食べ物をお与えになった奇跡の中の1節です。5000人に五つのパンと二匹の魚。常識ではとうてい足りません。しかし、この言葉の後、イエス様はそのパンと魚をとって、感謝の祈りを唱えて5000人の人に分け与え、人々が満腹した、と書かれています。

私に与えられているものは五つのパンと二匹の魚よりも小さなものかもしれません。でも、そんな小さなものでもどなたかのお役に立てることができる。今日も、そんな気もちで一日を過ごしたいと思います。

 

 

 

礼拝メッセージ 6月29日(月)

「信仰があれば行動は問われないのか」

宗教主任·高一担任 藤本 忍

 

こちらから讃美歌9番「力の主をほめたたえまつれ」を聞くことができます

メッセージを音声でお聞きになりたい方はこちらから

【聖書】ローマ信徒への手紙3:28
なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

ヤコブの手紙2:24
これであなたがたもわかるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。

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聖書にはこのように矛盾することがよく書かれています。一方で人は信仰によって義とされるとあり、もう一方では人は行いによって義とされる、とあるのです。高三の聖書の授業では、その点について学んでいます。義とは神に目に正しいとされて、救われるという意味です。信仰によって救われるのか、行いによって救われるのか、どちらなのでしょうか。
宗教改革者のマルチン·ルターは、「どうすれば人は救われるのか」と苦悩した結果、一つの答えに辿り着きました。「その条件は人間にはない。神が一方的に無条件に人を赦し、救ってくれるのだ。人間はそれを信じることしかできない」と。すると次に新たな問いが誕生します。「じゃ、神を信じていれば、それでいいの?神が無条件に愛し救うと言うのなら、何をしてもいいのか?行動は問われないのか?」

この問いに対する多くの生徒の回答はこうです。「神を信じているのであればこそ、その愛に応えようとするので、神を裏切ったり悲しませたりするような行為はしないはずである。」「赦された感謝を基に行動をすると思うので、自ずと信仰と行動は一致してくる。」「信仰があればこそ、聖書に書かれていることを自ら主体的に行おうとするだろう。」
しかし、中には「行いは問われない。何をしても良い」と言う生徒もいます。その意見を聞いてみると「殺人や窃盗のような罪を犯せば、人間の世界はその人を法で裁く。しかし、どんなに罪深いことをしたとしても、神は必ず赦されると思う。なぜならイエスもそうやってどんな人も赦していたから。神の一方的な恩寵とはそういうことだと思う。」と言うのです。「何をしても良い」と言うのではなく、「何をしたとしても赦してくれる神を信じている」のです。キリスト教で言うところの罪は法で裁かれるとは限りません。むしろ裁かれないものがほとんどです。でも、一方でたとえ法がその人を裁き、死刑判決が出たとしても神はその罪を赦される、ほとんどの生徒はそう認識しているのです。

勿論、その場合、感情的には「反省や悔い改め」があって欲しいとも言います。死刑に価する人も赦されている、しかし自分の罪の深さを「反省し悔い改めて」欲しいと。実はこの「悔い改め」と「反省」には大きな違いがあります。「悔い改め」は神に背を向けて神から離れていた人間が神のもとへ帰る、方向転換をして神のもとへ戻るという意味があります。その時、人は生き方や在り方が変わります。性格や性質は変わりませんが、生きる方向性、姿勢が変わります。ですから「悔い改め」は生涯に何度も起こりません。それに比べて「反省」は何度も繰り返し起こります。個人的な経験から言うと、罪が赦されたから悔い改めが起こりました。順序が逆です。悔い改めが起こったから赦されたのでは無条件ではないのです。赦されたと同時に過去の自分が崩れ(裁きが下り)、その瞬間、悔い改めが起こり、ゼロから新しい自分が再生されていくのです。これは神の御業としか言いようがありません。

多くの日本人は自分の感情と法の裁きの結果や社会現象、現実、世論等が一致しないと、「赦せない、おかしい、神も仏もあったもんじゃない」と言います。つまり、自分へのご利益がないとダメなのです。自分と神の御心が一致しないと信じられないのです。しかし、キリスト教信仰とは、この自分の感情を越えて存在する神、その意志を信じることです。そういう点では、高三は自分の感情と一致しない神の御心をよく理解しています。いつの間に育ったのでしょうか。憎いあの人も嫌いなあの人も神が創造された人、自分の感情とは関係なく、無条件に一方的に、自分同様神に愛されている存在である、そう理解しているのです。
この神の無条件の愛を、一方的な恩寵を安っぽいものにしない、むしろこの愛に応えるために自分を用いて欲しいと願う者であります。

マルチン·ルター

 

 

 

 

礼拝メッセージ 6月26日(金)

「聞くことのすすめ」

事務職員 原田 直人

こちらから讃美歌500番「聖霊(みたま)なるきよき神」を聞くことができます

【聖書】マルコによる福音書 4章9節
そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

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イエスは湖に出て、舟の上から湖畔に集まった群衆に次のようなたとえ話をされました。
種を蒔く人が種蒔きの途中で、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。石だらけで土の少ない所に落ちた種は、すぐに芽を出したが日が昇ると焼けて、根がないため枯れてしまった。茨の中に落ちた種は、茨が伸びて覆ってしまったため実を結ぶことはなかった。良い土地に落ちた種は、芽生えて育って実を結び、あるものは30倍、60倍、100倍にもなった。
このたとえ話は、神さまのみこころを宣べ伝えているイエス様(種を蒔く人)からのメッセージを、鳥に食べられた種のようにすぐに失ってしまってはなりません。土の少ない所に落ちた種のように、聞いた時は感激してもすぐに冷めてしまってはなりません。茨の道に落ちた種のように、まわりの色々な誘惑や思いに負けてはなりません。良い土地に落ちた種のようにメッセージを素直に聞いて受け入れ、それに従って行動しなさい。このように解釈することができます。

私たちが神さまのみこころ、イエス様からのメッセージを聞くことができる手段はなんだと思いますか?
それは、聖書を読むことです。聖書を読むことで、神さまそしてイエス様からの愛を感じることができます。
日々の生活の中で私たちは様々な問題に出合います。
思うように物事が進まない時。行き詰ってしまった時。人間関係で悩んでいる時。本当に様々です。そんな時には是非とも聖書を開いてみてください。今の自分に必要な聖句や物語がきっと用意されていると思いますから。

「聞くこと」というワードでもう一つ、先日見たテレビ番組をご紹介します。
それは、二人の芸人が30分の授業を受けて、そのあと理解度をチェックするという内容のものでした。
世界史の授業が始まり講師の先生が話しをしながら黒板に図形や文言、年数などを書き始めると、一人は黒板に書かれているものをきっちりとノートに写しはじめました。先生が色を変えるとそれに合わせて色マーカーなども使って忠実に。
一方、もう一人は、確かにノートは取っていましたが、自分だけが分かる必要最低限の形に抑え、その分授業内容を聞くことに専念していました。そして、黒板には書かなかった先生の言ったことを斜め書き(メモ)して、後で振り返った際の補足になるよう付け足していました。
授業が終わり最後に理解度のテストを行ったのですが···なんと、ノートを完璧に写した芸人は0点、聞くことに専念した芸人は98点という衝撃の結果でした。
どちらもさぼることなく、本当にまじめに受けていたにも関わらずこれほどの差が生まれた要因は、授業を聞いていたか聞いていなかったかの一点に絞られると思います。
どんなに後で誰かに貸すお手本になるようなノートを取ったとしても、写しただけでは内容は理解できません。理解するには聞くことこそが大切なのです。
ちなみに、98点の芸人が何を間違えたかと言うと、講師の先生が「バロック」を「バーロック」と発音していたため、その通りに解答してしまったからでした。それだけ集中して聞いていたことが、このことからも理解できますよね。

「聞くこと」はとても大切なことです。
授業の際は、先生のお話しを集中して聞きましょう。そして、聖書を読んで神さま、イエス様からの愛のメッセージを聞き今日も前を向いて元気よく歩んで行きましょう。

 

7/18(土) 学校見学会のご案内

学校見学会を開催いたします。土曜日のため児童は登校しておりませんが、ごゆっくり校内施設をご覧いただけます。

2020年7月18日(土) 9:00〜12:00

こちらのフォームからお申込みください。

☆新型コロナウイルス感染予防への対策として、今年は満5歳〜6歳(年長クラス)のお子様をおもちのご家庭90組までとさせていただきます。                                     ☆ご予約いただいた順に、午前9時、10時、11時のいずれかの時刻を事前にお知らせいたします。
☆3家庭ほどのグループで、教員がご案内いたします。
☆20分ほどご一緒にご見学いただいた後は、自由見学となります。図書室やビオトープ、大型複合遊具などゆっくりとご覧いただけます。
☆お子様向けのプログラムもご用意しておりますので、どうぞご家族の皆様とお気軽にお越しください。
☆どうぞ涼しい服装でいらしてください。本校教員も上着を着用いたしませんことをどうぞご了承ください。

教室やグラウンドで、お子様がのびのびと過ごしながら、すくすくと成長される姿を思い浮かべながら、本校の様子や教職員の雰囲気をごらんください。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げております。

 

 

 

 

 

 

学校が再開してもできるSDGs 捜真SDGs実行会第6弾アピール

こんにちは!捜真SDGs実行会です。
「自粛中でもできるSDGs」改め、「学校が再開してもできるSDGs」と名前を変え、皆さんがSDGsを気軽に実践していけるようなアイデアを発信していきたいと思います!

正面玄関にアピールペーパーを掲示していますのでご覧ください。今回のペーパー作成は内田日奈子、吉田琴美が行いました!

【第6弾】
①古着をアパレルに持って行こう!
もちろん、一つの物を長く使い続けることが一番環境には良いことです。
それでも処分したい服は、ゴミとして捨てるのではなく、アパレルショップへ持っ
て行くのも良い方法です。

H&M、GAP、ユニクロ、GU、無印良品など、あなたの家の近くにも回収しているシ
ョップはきっとあります。このほかにも回収しているブランドはたくさんあります
し、ブランドを問わず回収しているところもあります。

常時回収ではなく、期間限定で回収しているところもあるので、ぜひチェックしてみ
てくださいね!
最後まで、使う責任を全うしましょう!

②地産地消と旬産旬消をしよう!
地産地消をすることで、遠くから食材が輸送される時に排出される温室効果ガスの
削減につながります。地域の直売所などで野菜や果物を買ってみましょう!

また、旬の物を食べることで、旬ではない時期にずらして栽培をする時に使われ
エネルギーを削減することができます。
これからは夏野菜がたくさん出てきますね。旬を取り入れた料理は、より一層美味し
く感じると思います。

地域で栽培された物や旬の食材を食べて、元気いっぱい!コロナに負けない体をつく
りましょう!!

【第6弾の目標ゴール】

図書館オリエンテーション 中学部1年生 国語表現

学校での授業が再開されて3週目に入りました。新中1の生徒たちも少しずつ捜真生活に慣れてきているようです。

今週と来週にわたって国語表現の授業時間に図書館オリエンテーションを行っています。ようやく本を借りることができる!と待ちに待っていた生徒たちもたくさんいます。前半の説明が終わり、「貸し出しタイム」になると思い思いの書棚に行って借りる本を選んでいました。

捜真の図書館には44,000冊の本があります。ぜひ卒業までに幅広く、たくさんの本に出会ってください。

ネット時代の歩き方  中学部1年生 生活指導講演会

 

6月20日(土)中学部1年生の生徒と保護者の方を対象とした生活指導講演会を行いました。講師は、合同会社ロジカルキットの下田太一先生です。先生には毎年、中1を対象に5月にお話をお願いしてきましたが、今年は休校の影響で6月の実施となりました。

お話のテーマは「ネット時代の歩き方」。スマートフォンのリスクを怖がるだけでなく、「使い方」「向き合い方」を親子で考えようという内容でした。特に、スマホを使い続けてしまったり、強い言葉を発してしまったりしたときに、自分自身の心の状態と向き合うことが大切とのお話が印象的でした。コロナ禍におけるスマホの話など、新しい話題も多く、内容の濃い時間でした。

中1数学自由研究

中1の4月は「算数」から「数学」に移行する大切な時期です。
それなのに自宅学習となってしまいました。
そこで、チャンスと変えるべく、家でこそ可能なことを考えました。

1つはトランプのゲームを使った正負の数の足し算です。
ゲームを通して体が覚えた数感覚は、頭で理屈をこねるより確実だからです。

もう1つは立体感覚を養うことです。
ふくらみのある立体をペッタンコの教科書やノートで学ぶより、実際の立体を見た方がはるかにわかりますよね。ですから、中1の皆さんには実際の立体を作っていただきました。

さらに、有志の自由研究として、角錐·円錐の体積が底面と高さが同じ角柱·円柱の体積の3分の1
であることの実験に取り組んでくれた人たちもいました。
お米を使って実験終了したら料理をするようお勧めしたところ、すばらしい食卓を紹介してくれた人もいました!

休校中に培った数感覚や立体感覚を生かして、中1の皆さんが数学の世界を楽しく旅することができますように。

下のリンクで別のノートもご覧いただけます。

中1自由研究p. 1

中1自由研究p. 2

礼拝メッセージ 6月25日(木)

「田中先生のレッスン」

中2副担任  普川 桃花

こちらから讃美歌Ⅱ編157番「この世のなみかぜさわぎ」を聞くことができます

 

【聖書】 ルカによる福音書6章41節〜42節
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

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登校が再開されて3週間が経ちましたが、コロナ禍による世界の混乱は依然として続いています。社会が混乱する時、私たちはしばしば余裕を失い、他者への配慮、とくに弱い立場の人のことを忘れてしまいがちになります。私は、こういう時によく思い出す、ある英語の授業があります。捜真で高校一年生の時に受けた、田中先生の授業です(私はこの学校の教員でもあり、卒業生でもあります)。田中先生はたいへん厳しく、ちょっとコワイ先生でしたが、教え方が丁寧で分かりやすく、希望者には個別でも文法の練習を見てくださる熱心な先生だったので、私は大好きでした。

秋ごろの授業だったかと思いますが、ある英文が課題になりました。第二次世界大戦中のドイツで迫害を受けたユダヤ人の話だったと思います。「〜と思います」というのは、当時からかなり時間も経って、その文章の細かい内容自体はかなり忘れてしまっているからです。
さて、こんなにも記憶がおぼろげな話が、なぜ忘れられない授業なのかというと、授業の最後に先生から私たちに投げかけられた言葉が、とても印象的だったからです。

「さて、みんなはこのドイツ兵がユダヤ人に銃口を向けているシーンを見て、どう思いましたか?」

「ひどいと思いました」とか「戦争って残酷だと思います」とか声が上がります。

「そうですね、その通りです。その通りなんですが、もうちょっと立ち止まって考えてみて。ほとんどの人が被害者のユダヤ人の立場でこの写真を見ますよね。···でもね、私は、こう思うんです。自分は、この時代のドイツ人に生まれていたら、このドイツ兵と同じように加害者になっていたかもしれないなって。この時代のドイツは、これがある意味、正しいと信じられ、「正義」だったんです。皆さんは世界中を見渡してみれば、比較的恵まれた家庭で育つ、「良い子」です。当時のドイツにいたそういう人たちは、ほとんど皆、ユダヤ人を迫害したんです。そんななか、「これは残酷」とか「間違っている」なんて声を上げたら、自分の命が危なかったかもしれない。私たちは、正直なところ、自分が安全ならば良いという考えに簡単に陥ると思います。人間って、周りの意見に流されて、あるいは自分が傷つかないために、平気で弱い立場の人たちを傷つけることができてしまうと思いませんか?本当に、このドイツ兵のしたことを、あなたは非難できますか?自分は絶対にしないと本当に言えますか?もしかしたら、自分もこの時代、この環境に生まれていたら、人に銃口を向けていたかもしれない···、とは考えられませんか?本当に戦争を二度と起こさない、というのは「戦争ってひどい」と言うことだけでなく、自分も戦争に加担したり、加害者になる可能性があるってことを疑ってみることじゃないかな。」

ドキリとした瞬間でした。非行に走るわけでもなく、ひどいイジメの加害者になったこともない私でしたが、戦時下のドイツに生まれ、そういう風潮に触れて育ち、ユダヤ人を批判するようなニュースを毎日のように聞いたら、間違った正義を信じ、大勢のなかの1人としてナチス·ドイツに加担している自分が、簡単に想像できてしまったからです。

自分の弱さに気付かずに、過ちを犯す危険性は誰にでもあると痛感させられた授業でした。そして、その危険性は社会の混乱や大きな変化の時には、とくに高まるのかもしれないな、と考えさせられました。だから、こういう世の中が混乱するような時期には、この授業でドキリとしたことを、今でも鮮明に思い出すのかもしれません。

お祈り
御在天の父なる神様、コロナ禍で、働き方や学校教育まで、いろいろなことが混乱しながら変化しています。世の中の価値観もガラリと変わるような気がします。
その一方で、混乱のなか人々から余裕がなくなると「命の選別」や「自己責任」という言葉の下で、自分たちの命は見捨てられてしまうのではないか、と大きな不安にかられる社会的弱者の方たちがいる状況です。
神様、もし私たちが安全で恵まれたところにいるときには、自分よりも困っている人を想像し、振り返り、助け合うことができますように。知恵と勇気をお与えください。もし私たちが困難に直面し、孤立し弱っているときには、そばにいて慰めてください。あなたが与えてくださった周りの人たちと協力しながら、困難を切り抜ける道を見つけることができますように。そして、どんなときもあなたが共にいてくださることに気付くことができますように。イエス·キリストの御名によって、御前にお捧げいたします。アーメン

礼拝メッセージ 6月24日(水)

「目覚めの時」

中3副担任  大場 正太

こちらから讃美歌174番「起きよ、夜は明けぬ」を聞くことができます

【聖書】マタイによる福音書 7章7節~8節
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」

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一昨日,6月22日(月)の「日々の聖句」は私が選んだ「怠け者よ、いつまで横になっているのか。いつ、眠りから起き上がるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ しばらく手をこまねいて、また横になる」(箴言6章9節~10節)でした。
言うまでもなく,この数か月間私たちは,というより世界中の人々が,強制的に「怠け者」にさせられる状況となりました。外出を自粛され,行動を制限されるというのは初めての経験で,元気で健康な人にとってはエネルギーのやり場に困ってしまうという経験したことのない辛さを感じる日々だったと思います。

我が家の2人の息子たち(6歳と4歳)も体を動かしたいストレスを日々抱えていました。
皆さんの中にも,「身体は元気だけど外にも出ちゃいけないし,ゴロゴロするか」となってしまった人は多いのではないでしょうか。

かく言う私も,これまでの「夜は9時台に寝て,朝は5時に起きる」という生活リズムはだいぶ緩やかなものとなり,そういう意味ではずいぶん怠け者になってしまいました。

今日選んだ聖句は,有名な「求めなさい。そうすれば、与えられる」です。私はほぼ毎年,新年度に行う最初の礼拝ではこの箇所を選びます。それは「行動する」ということをシンプルに教えてくれる聖句だからです。クラスで礼拝をする時には「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」の例として,「いま閉まっている教室の扉の向こう,廊下に誰かいるかわかる? もし遅刻したクラスメイトが扉の前にいて、でも礼拝中だから入りにくいなーなんて思っていたとしても,もじもじしているだけでノックでもしてくれなければ,中から開けてあげることもできないよね? 大切なのは『開けてほしい』という意志表示であり、その意志を『ノックする』という行動に移すことだよね」という調子で話しています。

中1であれば,まだクラスに緊張感が漂う時期ですから,「『友達が欲しいなー,隣の人に話しかけようかなー,でも恥ずかしいなー』と全員がもじもじしているのではなく,全員が近くの人に話しかけるという行動をとってみよう」となったりするわけです。

私たちは自分の意志や健康状態とは無関係に,強制的に怠け者にされ,潜在的な病人として扱われました。そのこと自体は仕方がないことでしたし,それまでの慌ただしい生活では気づけなかった何かを気づかせてくれた貴重な時間だったというポジティブな側面はあるでしょう。

しかし,そろそろ行動する時です。もう眠りから起き上がって,新しい自分の人生を切り拓く時です。なかなか気持ちはすぐには切り替えられないかもしれませんが,神様は私たちに門をたたくことを求め,眠りから起き上がることを求めています。眠い目をこすって歩き出す一歩をともに踏み出しましょう。その勇気を神様からもらえるようにともに祈りましょう。

4歳の息子による父の顔

 

礼拝メッセージ 6月23日(火)

「自然と共に生きる」

社会科  清水 美紀

こちらから讃美歌Ⅱ編26番「小さなかごに」を聞くことができます

 

【聖書】創世記 1章29節
神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物になる。」

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新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が解除され、6月から再び学校生活が始まりました。3か月の休校期間中、皆さんはどう過ごしましたか。度々スケジュールが変わって、生活や学習を調整するのが大変だったと思います。

休校中、私は自宅の庭で過ごす時間が増えました。休校が決まった2月末、季節は冬から春へ移ろうとしていました。そして、春、初夏、梅雨と季節は変わりました。私の庭では2月末に梅や水仙が咲きました。3月には小松菜、山桜、4月にはコデマリ、スズラン、5月にはカラー、アイリス、バラ、6月にはアジサイが咲き誇りました。これからユリのシーズンです。まるで、バレエのプリンシパルダンサーが次々に登場して優雅に舞っているようです。春先に蒔いた種は新芽を伸ばし、木々の若葉は夏の日差しで日に日に緑が濃くなっています。

こうして毎日、庭を観察していると、もうすぐどの花が開花するのか分かるようになります。これまでは、いつの間にか咲いているのを見て、季節を思うという順番でした。そして、自然と共に生きるという、よく使われている言葉を実感した日々を送りました。

私たちはいつも神様の造られた自然に守られて生きています。捜真の美しい環境も、神様によって与えられ、神様と捜真の多くの人々によって守られてきました。自然は時に厳しく、台風や地震などがあると、私たちは神様からの試練だと受けとめます。しかし、忙しい毎日を送っていると、草木や自然が神様から与えられたものだということに意識がいかなくなります。

これまでの学校生活とはあまりにも異なる生活を送っていると、何が本来の生活だったかと、考えることがしばしばあります。世界全体が混乱し、状況が刻々と変わる中でも、草花は今年も同じ季節に咲き、果実も同じ季節に実ります。いろんな状態に適応しきれないこともあるかもしれません。そういう時は、草花や木々に合わせていけば良いのだと思いました。きれいな空間にいると、頭もすっきりします。新しい喜びや楽しみの発見もあります。捜真という自然の中で、皆さんと共に学び、祈り、歩んでいけば大丈夫という安心感も思い出します。こうして共に健康で有意義な時を過ごすことが出来るよう、お祈り致します。