【PTA活動】史跡めぐり

2024.11.12

Soshin Jogakko

10月25日(金)、雨上がりのしっとりとした空気の中、捜真の歴史を感じる「史跡めぐり」がPTAキリスト教教育研究会委員会(通称キリ研委員会)主催で行われました。初代校長シャーロット·ブラウン先生をはじめ、ゆかりある先生方のお墓参り、礼拝、そして捜真の歴史をたどるコースを、中島昭子学院長と仁平のぞみ先生(捜真女学校旧音楽教師)が引率くださいました。

元町·中華街駅に集合後、まずは横浜外国人墓地へ向かいました。門をくぐると、木立や草花に囲まれた静かな空間が広がります。銀杏やどんぐりといった秋の恵みを踏まないように気をつけて歩きながら最初に向ったのはアルバート·ベンネット先生(関東学院創立者)のお墓です。ベンネット先生は、ネーサン·ブラウン先生らとともに日本における神学校設立に力をそそぎ、長年にわたり学生たちを教導された方です。かつて捜真の敷地内に住まわれ、寒い雪の日は子どもたちに「頭巾をかぶって行きなさい」と優しいお声がけをくださったそうです。妻のメラ先生は捜真で音楽を教えられました。お花をお供えしたあと、仁平先生がベンネット夫妻により作詞作曲された讃美歌48番を歌ってくださいました。先生の美しい歌声と小鳥たちのさえずりが調和し、すばらしい癒しのひと時となりました。

しばらく道を進むと、聖書の日本語翻訳で有名なネーサン·ブラウン先生と、その夫人であり捜真を創立された初代校長シャーロット·ブラウン先生のお墓に到着しました。墓石に刻まれた何冊かのパンフレットのレリーフは、ネーサン·ブラウン先生が翻訳された聖書だそうです。捜真女学校は、最初は宣教師のサンズ先生やブラウン先生夫妻の自宅に数名の生徒を集めて英語や聖書を教える塾のようなものでしたが、その後1886年に山手67番にあった聖書印刷所の2階で少女たちに教育を続けることになり、捜真学院はこの年を創立年としています。

現在の山手66番には「横浜ユニオンチャーチ」があり、その入り口近くの敷地内にある「捜真学院発祥の碑」が私たちを迎えてくれました。創立130周年を記念して建てられたそうです。

ユニオンチャーチでは中島学院長によるお話と礼拝の時を持ちました。お話の中で、シャーロット先生の波乱に満ちた、けれどもどんな時も立ち止まることなく、前を向いて歩んでいく人生を紹介してくださいました。そしてこの日の聖書箇所である詩編46篇2節「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦、苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」をもとに、中島学院長は「いろいろなことが私たちの人生にはある。嵐と感じられることや乗り越えられないと思うことがあっても、神さまは必ず私たちを守ってくださる」とお話しくださり、心がポッとあたたかくなりました。

 

次に仁平先生による讃美歌の解説が行われました。シャーロット先生が最初の生徒たちと讃美したといわれる讃美歌461番です。まずは原詞である英語で、仁平先生の後に続いてワンフレーズずつ参加者全員で声を合わせ、続いて外国人宣教師による大変珍しい1872年の日本語直訳版、そして最後に1931年版を讃美しました。1931年版は「ヨナ抜き音階」(ファとシがない)と七五調の歌詞がついたことで多くの人に大変親しまれ、現在も歌いつがれています。

その後、ユニオンチャーチを出発し、再び山手本通りを進んで最終目的地の山手34番に向いました。ここは第2代校長カンヴァース先生が1891年に3階建ての新しい校舎を建てた場所です。当時、この通り沿いのフェンスにはバラが綺麗に咲き誇り、馬車で通りかかった明治天皇がその美しさを称賛したという逸話が残っています。当時のバラと校庭にあった藤棚は、現在の神奈川区中丸の校舎中庭に移植され、今も私たちを楽しませてくれています!今回の見学を通して、捜真の歴史にふれ、来年、満開のバラや藤の花をただただ美しいと眺めるだけではなく、100年以上続く時の流れを感じ、私たちを見守ってくださる歴代の先生方に思いを馳せたいと思いました。

関東大震災による地形変動や空襲による火災などの影響で、捜真の歴史的資料が簡単にはそろわない中、中島学院長と仁平先生が遠方まで足を運び、さまざまなエピソードを発掘してくださったことに感謝の念でいっぱいです。先生方のお話や捜真の歴史をもっと伺いたいと思えた楽しい時間でした。中島学院長のお話をチャペルで聞く機会はありますが、自然の中でともに歩きながらうかがうお話こそが、この「史跡めぐり」の最大の魅力だと参加者からの声もありました。まだご参加されたことのない保護者の皆様も、来年はぜひ参加されてはいかがでしょうか?

(広報委員 中3·中1)

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