投稿者「soshin」のアーカイブ

ご支援ありがとうございました 寿町支援プロジェクト

こんにちは。捜真SDGs実行会「寿町支援プロジェクト」です。

皆さんに支援をお願いしていた、カップラーメンとマスクが昨日、学校に届けられました。学校と家庭から特別に許可を得て、3密に気をつけながら、少しの時間活動をしました。

私たちが想像していたよりも、沢山のカップラーメン、マスクが集まり、送ってくださった皆さんには感謝しかありません。ご協力ありがとうございました。

マスクチームとカップラーメンチームにわかれ、マスクチームはメッセージカード1枚とマスク2枚を梱包し、カップラーメンチームはお届けしやすいように段ボールにまとめる作業をしました。

カップラーメンの目標数は250個でしたが、軽く500個を超えていました。

また、私たち「捜真SDGs実行会」にお手紙をくださった方もいらっしゃいました。多くの元気をいただきました。皆さんの力が集まるとこんなにも凄いものになるのかと、驚きました。

皆さんが送ってくださったものは、18日(月)に寿町にお届けする予定です。ご協力、本当にありがとうございました。

図書館だより  5月15日

『「これから」の時代(とき)を生きる君たちへ 

 イタリア·ミラノの校長先生からのメッセージ』

ドメニコ·スキラーチェ 

アレッサンドロ·ヴォルタ高校校長 世界文化社

笠原先生が薦めてくださった本をもう一冊紹介します。

ネットニュースで紹介されていたので、現地の高校生に向けた文章は知っていましたが、その後「日本の生徒たちへ」という文章が追伸として加わり、本となって出版されていました。

現役の高校校長先生が目の前の生徒に向けたメッセージですからみなさんにもわかりやすいと思いますし、イタリアの高校生が普段どういった話を先生からされているかも、読み取れると思います。

残念ながら、冒頭に書かれている『いいなづけ』は捜真図書館にはありませんが、イタリアの中高生の教材となっているそうで、ぜひそれも読んでみたいと思いました。

前回の『コロナの時代の僕ら』もそうですが、本となって日本で出版されるまでのスピードには驚いてしまいます。コロナ禍では、世界中の人が真実と思えるものを模索しているのです。

 

「進学レーダー」で紹介されています

2020年6月&7月号の進学レーダー(みくに出版)の「1クラス1日密着ルポ」に捜真の中1の様子が掲載されています。

1日密着取材に協力してくれたのは、昨年度の中1A組でした。中1Aの皆さん、ありがとうございました!

礼拝メッセージ 5月15日(金)

「神が人類に与えた賜物~Characteristic and sense of humor」

高一担任·宗教主任  藤本 忍

こちらから讃美歌「主のまことはくしきかな」を聞くことができます

【聖書】ヤコブの手紙1 1:17~18

良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生じる陰もありません。御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んで下さいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となされるためです。

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お話を音声でお聞きになりたい方はこちらから

教会に行くとちょっと頑固でとても謙虚な主任牧師と、オタクで緻密なICTに長けた伝道師がいます。彼がいなければ、教会は礼拝を音も映像もあんなに鮮明にYouTube配信できなかったと思います。彼の説教は深くて心に残ります。それは彼の心が繊細だからです。そして、もし今の主任牧師がいなかったら、うちの教会は求心力を失い多分バラバラになっていたと思います。彼は優しく全ての教会員を公平に愛してくれています。

そして教会にはたくさんのご高齢の方がいらっしゃいます。耳が遠いので、食前の感謝の祈りをしている時でも、お喋りをしています。時々、教師の癖でついつい「しーっ!」と目上の方に向かって言ってしてしまうことがあります。チャペルに入る前の生徒に「静かに!」と注意をしているかのように。

時にはご飯を炊くお釜のスイッチを入れたかどうか忘れて、説教中にもかかわらず確認をしに飛び出して行ってしまったこともありました。そして帰ってくると「ちゃんとスイッチ入っていたわよ。大丈夫だったわ。」と言い、それを聞いたもう一人のご婦人が「え、何ですって?」と返し、「だから、お釜のスイッチがね、入っていたのよ。」「あら、良かったわね。」。声が大きいので、説教を聞いているのか、お釜のスイッチの話を聞いているのかわからなくなってしまいました。

また、献金の感謝のお祈りが長くて、ご自身で迷子になってしまう方がいます。お祈りしているのか、報告をしているのかわからなくなってしまったご婦人は、お祈りの最中にそれを神様に確認します。「神様、これはお祈りでしたか。それとも···報告でしたか?」と。しばし沈黙の時がありました。(多分ここで目を開けて辺りの様子を探っていた模様。)すると間もなく「あら、お祈りのようでしたので、戻ります。神様、私達は大変罪深い者ではありますが···。」と何もなかったかのようにお祈りを続けました。

ある時、ご婦人達が牧師たちに聞きました。「先生、私達は死んだら本当に天国に行けるのですか?」と。すると最高齢の引退牧師が「それがわかったら苦労しない。」と答えました。そしてもう一人の牧師は「召されてみないとわからない。」と言いました。私は内心、「嘘でもいいから牧師なら天国に行くと言ってよ」と思いました。しかしご婦人は「あ~良かった。安心したわ。牧師がわからないなら私達がわかるわけがないわよね。」と言い、「ほんと、ほんと」と慰め合い納得していました。

20世紀最高の神学者と言われたカール·バルトも似たような質問を受けました。「ね、先生、教えて下さい。私たちが天国で愛する人々に皆再会するというのは、本当に確かなのでしょうか。」と。ご婦人から聞かれて彼はこう答えたそうです。「確かです。しかし、他の人々とも再会しますよ。」無意識のエゴイズムを暴露されながらも、圧倒的な神の恵みを悟らされ、ご婦人は大変慰められたそうです。

私たちは互いに愛し合うために特性のある弱き者として神様に作られました。そのことに感謝しています。同時に私たち人類には「シリアスなことを笑いに変えられるユーモア(底力)」と、「明確な答えがなくても葛藤に耐えうる成熟さ」と、「課題に対峙して解決する英知」も神様から与えられています。だから嘆くことなく、同時代を生きる人々と共に今のこの危機を乗り越えていきたいと思います。

 

 

礼拝メッセージ 5月14日(木)

「心のゆとり」

高二担任  廣川 敦子

こちらから讃美歌「正しく清くあらまし」を聞くことができます

中1の皆さんの音楽の課題のために、歌詞も紹介します。

讃美歌452番 1節 ただしく清くあらまし  なすべき務めあれば

おおしくつよくあらまし 負うべき重荷あれば

2節 まことの友とならまし 友なきひとの友と

あたえてこころにとめぬ まことの愛のひとと

3節 完全(またき)に向かいて進まん 途(みち)にて気をゆるめず

うえなきめあてをのぞみ 笑みつつたえずすすまん

 

【聖書】詩篇119編32節

あなたによって心は広くされわたしは戒めに従う道を走ります。

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先日近所のスーパーに行った時のことです。その日は当時、品薄だったトイレットペーパーが売られていたこともあり、商品を手にした人々がレジに殺到していました。私はその光景を見るだけでうんざりした気持ちになりました。レジ前ではその押し寄せる客達に混乱が起こらぬようにと、一人の店員が懸命に客に声をかけ、誘導をしていました。そしてその店員が一人の男性客にこう声をかけました。「お客様、こちらの列にお並びください。」と、男性客の肩の辺りにそっと手を当て、並ぶ列に誘導したその瞬間です。その男性客は「俺に触るなっ!」とその店員に向かってものすごい怒鳴り声をあげました。そこにいた誰もが驚き、一瞬にして店内は静まりかえりました。そして静まり返った空気の中、一番に声をあげたのはその店員でした。「大変申し訳ございませんでした!」と男性客に向かって深々と頭を下げています。

安心して日常生活を送ることができない、生きることに余裕がない。ギリギリの精神状態でお互いが思いやりをもって接することは本当に難しいことなのだろうと痛感させられる出来事でした。今日もお客様のためにと、きっとあの場に立ち続けている店員さんのことを思う度に心が痛みます。

自分のことだけで頭も心もいっぱいいっぱいになってしまいそうな時、そんなときこそ一度立ち止まり、神様に心を向け、落ち着いて祈ることが求められているような気がします。この世の何ものよりも偉大な全知全能の神様に全てを委ね、心の平安を祈り求める。そのことによって私たちの小さく狭くなっている心や頭は、大きく広く変えられるのだろうと私は信じています。今こそがその時ではないでしょうか。

新型コロナウィルスという得体の知れない敵に恐怖を感じつつも、今日も変わらず仕事を続けておられる方々に心からの敬意を表し、感謝の気持ちでいっぱいです。一日も早く日常が戻り、皆が安心してマスクを外し笑顔で挨拶を交わすことのできる日が来ることを心よりお祈りしております。

 

文化祭実行委員 活動スタートです

今年度も文化祭実行委員の活動がスタートしました。

現状、今できることは少ないですが、皆様に明るいニュースをお届けできればと思っています。
捜真祭ではFacebookページにて活動報告や捜真祭の紹介をしています。ぜひご覧ください。

(顧問 新井)

こちらからfacebookを見ることができます

あるいは「Facebook 捜真祭」で検索いただいてもご覧いただけるかと思います。

図書館だより  5月13日

『コロナの時代の僕ら』  パオロ·ジョルダーノ 飯田亮介訳 

早川書房

笠原先生、小田切先生が薦めてくださった一冊を紹介します。

イタリア人の作家、ジョルダーノ氏。物理学を学んだのち、26歳で小説家としてデビュー。デビュー作の『素数たちの孤独』はイタリア国内で多くの文学賞を受賞。

そして、今回紹介するこの本は、コロナウイルスの感染が始まったイタリアで、今年2月29日から書き始めた27のエッセイ。

彼の小説の翻訳を手がけた飯田氏が翻訳をしている。日本語としても読みやすく、中学生にもお薦めできる。

文章はどちらかというと、淡々と静かで、そのたとえや短いフレーズがかえって丁寧な観察眼を感じさせる。コロナウイルスの感染が刻一刻と広がっていく現場での記録が、緊張感を伝える。読んでいる途中で、普段この人は何を見てどんなことを感じ考えているのだろうかと知りたくなった。(ジョルダーノ氏の動画検索をしてみたが、残念ながらイタリア語であった)

いまだ感染症流行の渦中で、「コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」として末尾をしめくくっている。100ページ強の本だが、これからの私たちの生活に多くを示唆している。

礼拝メッセージ 5月13日(水)

「驚き」を大切にした歩みを!

中2担任  藤巻 正悟

 こちらから 讃美歌「ガリラヤの風かおる丘で」を聞くことができます

 

【聖書】ルカによる福音書2:1-7

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

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1.「驚き」を失っていませんか?

幼い子どもの目に映るこの世界は、「驚き」に満ちた場所と言えます。

幼児が大人に向けて、実にさまざまな質問を飽きずにぶつけるのは、あらゆる事象に対する「驚き」を抱くからです。

ですが人間は成長していき、やがて幼年時代の生き方を棄てることになります(Ⅰコリント13:11)。

ともすれば、子どもの頃あれだけ心がワクワクした多種多様な事柄に対する「驚き」も、成長の過程と共に棄ててしまうことが多いのではないでしょうか。

 

2.学びは「驚き」から始まる

哲学の祖プラトン(B.C.427-347)、また彼の一番弟子アリストテレス(B.C.384-322)は、異口同音に『哲学は「驚き」から始まる』という言葉を遺しています。

彼らの金言を、中高生の皆さんに引き付けて言い換えれば、『学びは「驚き」から始まる』となるでしょうか。

授業を通しての学び、宿題を通しての学び、自習を通しての学び、書物を通しての学び、実習や体験を通しての学び……

知らなかった知識を自分のものとする「驚き」、なぜだろうという疑問の「驚き」、もっと調べてみたい意欲をもたらす「驚き」、理解していると思っていたはずの内容がひっくり返される「驚き」……

学びに向かう皆さんは、そのすべての出発点が「驚き」にあることを忘れずにいてください。

 

3.信仰も「驚き」から始まる

少しでも聖書に触れたことのある人なら、イエス·キリストが家畜小屋で誕生し、飼い葉桶に寝かされたことを当然のごとく把握しているに違いありません。

しかしながら、この場面は「当たり前」や「常識」としてあっさり素通りすることなど決して許されない、「驚き」以外の何物でもないはずです。

どうして神の御子が、きらびやかな宮殿ではなく、粗末で汚らしい家畜小屋の中などで誕生したのでしょうか。

どうして神の御子が、清潔に整えられたゆりかごではなく、家畜の唾液でベタベタし、悪臭を放つ不衛生な飼い葉桶の中などに寝かされたのでしょうか。

これほどまでにみじめでみすぼらしく、救い主の降誕の場面としてふさわしくない情景があるでしょうか。

けれども、聖書という書物は、最も高い所にいるべき方が最も低い所に誕生したという「驚き」を語ります(フィリピ2:6-8)。

神はもはや高い場所から我々を見下ろしているのではない!

この世のいちばん低い場所にまで神がくだって来られた!

この「驚き」に撃たれることが信仰の出発点に他なりません。

学びと全く同じで、信仰も「驚き」に撃たれることから始まっていくのです。

 

4.「驚き」から始まった2020年度

今年度の歩みは未だ本格的にスタートすることができていません。

この状況はまさに「驚き」そのものです。

もちろんこの場合の「驚き」は望ましくない意味合いですが、不本意な「驚き」の中に置かれた現在だからこそ、考えなければならない事柄や、するべき事柄が必ずあるはずです。

「驚き」の中にいる自分には今、一体何が求められているのか、心を静めてもう一度じっくり考えてみてください。

「驚き」のスタートにはなったものの、捜真生の皆さんが多くの事柄に対する「驚き」を失うことなく、勉強面でも信仰面でも収穫の豊かな2020年度を歩んで行ってほしいと願っています。

 

今後の学習について 中山校長より

生徒·保護者の皆様。4月中旬にスタートしたG Suiteを用いての学習活動は軌道に乗り、円滑に進むようになりました。皆様のご協力に心から感謝いたします。連休明けからはさらにG Suiteの利用度が高まり、文書課題の配信、動画配信、ライブ授業や質問対応など多様な活用が展開されています。

もし通信上のトラブルについて、あるいはその他のご相談があれば、電話で学校に直接お問い合わせください。☎ 045-491-3686(平日9~15時)

家庭学習は大変重要です。自ら学ぶ姿勢を身につけるチャンスです。6月の学校再開に向けて家庭学習の質と量を高めてください。

2020年5月12日

捜真女学校中学部高等学部

校長 中山謙一

 

 

礼拝メッセージ 5月12日(火)

「ありがとう」

中2担任  小澤 淑恵

こちらから讃美歌312番「いつくしみふかき」を聞くことができます

 

【聖書】ヨナ書 4章5節~11節

そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。

すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰を作ったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」

神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」

彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」

すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

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緊急事態宣言による休校が続いていますが、皆さんいかがお過ごしですか。担当学年の生徒さんたちからは、課題に取り組んでいる、身体を動かしている、家の手伝いをしている、趣味を楽しんでいるなど、前向きな返答をたくさんいただき、とても元気づけられています。

誰もが不自由な生活を強いられている状況で、今まで当たり前だったことが当たり前でなくなり、大きな戸惑いを覚えている人も多いでしょう。私自身、失ってはじめてその大切さを知る、ということが多いので、この期間は色々見つめなおして考える貴重な時となっています。

自然教室でのある講演で、「『ありがとう』の対語は『あたりまえ』だ」という言葉を聞き、目から鱗のようなものが落ちた経験をしたことを思い出しました。「ありがとう」とは「有り難い」こと、つまり「有って当たり前ではない」こと、というわけです。「ある」ことの奇跡に感謝、ということなんです。

今この時も、人々の「当たり前の」生活を守るために、命をかけて働いている方々がいらっしゃいますが、その働きは決して「当たり前」ではありません。本当に「有り難い」ことです。心から感謝します。

今日も(ヨナのように)「ない」こと、「できない」ことに不満を言うのでなく、「ある」こと、「できる」ことに注目して、「ありがとう」の気持ちを忘れずに過ごしたいと思います。

 

「自粛中でも取り組めるSDGs」プロジェクト

こんにちは、捜真SDGs実行会です。

「寿町支援プロジェクト」についで,新たに「自粛中でも取り組めるSDGs」というプロジェクトを立ち上げました。

これは、家にいながらも積極的にSDGsに取り組めるような、様々なアイデアを皆さんに発信していきたいという思いからできたプロジェクトです。

SDGsは、一人一人が少しずつ意識することで大きな結果に繋がっていきます。

毎週月曜日にGメールでアイデアを発信していきますので、自分ができることに取り組んでみて下さい。よろしくお願いします。

また、皆さんの“取り組んでみました“の報告もお待ちしています。

こちらのメールアドレスにお送り下さい。

stayhomeSDGs@gmail.com

(報告の例)

①電気を節約しよう

  • スマートフォンやタブレットなどの充電器は一回一回コンセントから抜いています!
  • 太陽の光が入る明るい部屋で本を読みました。

このように、どんな些細なことでも大丈夫です。

また、他に家で出来るSDGsで、良いアイデアが思いついたという場合も連絡して下さると嬉しいです。

【第一弾 5月11日】

①電気を節約しよう!

②ネットショッピングでは地球に良いものを選ぼう!

第一弾の目標ゴール

図書館だより 5月11日

『食事作りに手間暇かけないドイツ人、手料理神話にこだわり続ける日本人』

今村武 ダイヤモンド社

 三学期後半、高三の生徒がヨーロッパの国々を比較した本を読みたいと言ってきました。比較と一口に言っても、政治、歴史、芸術、生活、教育、宗教、産業、文学など、たくさんの分野があります。その生徒はまだこれといったものに絞ってはいなかったようなので、何冊か本を紹介しました。その後、新刊として購入したのがこの一冊です。

コロナウイルスの対応についても各国の対応は様々です。世界中に簡単に出かけていける今、国によって多様な考え方があることを皆さんも実感しているかもしれません。特に「食」については、各国の歴史や伝統に密接に関わっていますし、日本の食卓には和洋中が当たり前のように混在としていますから、今更知らないことはないと思うかもしれません。でも、レシピや味付けの違いだけではなく、その国民性(何を大事にしているか)が「食」に与える影響を著者は紹介しています。

ドイツでは、火を使わない夕食が当たり前。その分自然の中に出かけて行って、大切な家族や友人と過ごす時間を大切にする。食材はその安全性が重要。赤ちゃんの離乳食も市販品を使う人が60%。市販品への安心感はオーガニック製品や有機農業の製品をBIO商品として厳しく認定基準しているから。

「食」に関しては、手作りが愛情だと考えられている日本と、料理にかける時間より笑顔で子供たちの話に耳を傾けることを愛情だと考えるドイツとを比較した上で、著者は新しいライフスタイルの提案をしています。シンプルな「食」の姿を見て、肩の力が抜けたように感じました。

 

 

 

 

礼拝メッセージ 5月11日(月)

「神に問いかける」

中学部·高等学部校長  中山 謙一

 

こちらから讃美歌453番「聞けや愛の言葉を」を聞くことができます

 

【聖書】創世記32章23~31節(旧約聖書p.56)

その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。

みなさん、こんにちは! 校長の中山謙一です。

今日の聖書箇所は不思議なお話です。ヤコブという男が何者かと格闘して相手をギブアップさせたのだが、その相手はどうも神様であった、という話です。夢と現実が相半ばしている不思議な話。

休校がさらに延長され、まだ家に居なければいけない日々が続きますが、

「これ、いつまで続くの…?」とか、

「例年だったら今頃は…」とか、

「どうしてこんな目に遭わなければいけないの?」

と思うことがきっとあると思うのです。現に私自身がそう思ってしまいます。

(もっと深刻な命の危機にさらされている人だっているのに…)

そして私のつぶやきは、最終的には、神様に向かって問いかけたくなってしまいます。

「神様、どうしてなのですか?」と。

私は創世記のこの話を思い出しています。

神様に向かって取っ組み合いをし、ヤコブは「祝福してくださるまでは離しません」と神様を困らせるのです。

聖書の中の人物(特に旧約聖書)は、神様に向かっていきます。すごくストレートです。

私たちも、神様にまっすぐに問いかけることをしていいのではないか。たとえ答が与えられないとしても。

こんな時でも、いやこんな時だからこそ、私たちは神様に背を向けるのでなく、神様を忘れるのでもなく、「神様のみ心はどこにあるのですか?」と尋ね続けるべきだと思うのです。

聖書の中では、神様に背を向け逃げようとする人を神様はおゆるしになりませんが、

神様に向かっていく人は、ヤコブのように大いなる祝福が与えられます。

 

〈お祈り〉

すべてを支配したもう全能の神様。

多くの人たちが今日も命の危険にさらされています。

互いにいがみ合ったり、不安でたまらない人が大勢います。

神様のみ心が私たちにはわかりません。

それでも神様は私たちをお見捨てにならないことを信じます。

私たちを助けてください。大いなるみ手で私たちをお支えください。

救い主イエス·キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

課題を郵送しました 

中2の皆さんと、高二「世界史B」、高三「世界史研究Ⅰ」選択者の皆さんに課題が郵送されています。しばらくしても届かない場合、また、内容に不足などがある場合には、学校にご連絡ください。(月~金 9:00~15:00 ☎045-491-3686)

なお、Classroomでの課題配信は、他学年でも行われています。困ったことがあったらClassroom担当教員にお尋ねください。

引き続き、健康が守られますようお祈りしております。

図書館だより 5月8日

『神谷美恵子 島の診療記録から』神谷美恵子 

平凡社 STANDARD BOOKS

「感染症」「隔離」「差別」。今、日々の報道の中で珍しくないこの言葉。捜真生はどこかで聞いた覚えがありませんか。

5月2日の朝日新聞に「ハンセン病と40時間の移動」という記事がありました。昭和6年、現多麿全生園から瀬戸内海に開設された長島愛生園に患者を移送したときの顛末が書かれていました。

「ハンセン病の患者たちは貨物と同じ扱いで運ばれたのだ。それはあたかも、アウシュビッツに運ばれたユダヤ人たちを思い起こさせる。」

神谷美恵子さんは、昭和31年長島愛生園の精神科医として赴任されました。

この本では神谷さんが愛生園で患者と過ごす中での、迷いや思索がエッセイとして書かれています。自分を見つめる真摯な言葉は、私のすぐ隣で語られているように感じます。特に印象に残ったのは「使命感に生きる人の注意すべきことは、つねに謙虚な反省を忘れないこと。使命の内容を少し遠くへつきはなして眺めるゆとりとユーモアのセンスをもつこと。たえずあらたに道を求める祈りの姿勢であろう。」「与える側の謙虚な反省能力と思いやりと与えられる側の素直な受容がうまくかみあえば、互いが与え与えられる者となる。」「何より地球を平和な、美しいところにしたいものである。無力さに打ちひしがれるとき、山に向かって目をあげて、この願いと希望をあらたにしよう。」長い間もやもやとしていた感情がすっと整理されたように思えました。

コロナウイルスの報道の中に、医療従事者や配送業者の家族が排除されたという出来事がありました。自分は差別をしないと思っていても、当事者になれば「近寄りたくない」と思うかもしれません。日本赤十字のHPに「新型コロナウイルスの3つの顔を知ろう!」が紹介されています。ぜひ検索してみて下さい。

世界中の患者さんが、一日も早く完治し、当たり前の生活を取り戻すことができるよう心から祈ります。

 

 

5月8日(金)礼拝メッセージ

神から与えられる安らぎ

英語科 星川キャレン

こちらから 讃美歌第2編188番「きみのたまものと」を聞くことができます

【聖書】フィリピの信徒への手紙4章6節~7節

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト·イエスによって守るでしょう。

 

生徒の皆さん、英会話教師のミセス星川です。厳しいコロナ肺炎が蔓延している中で、生徒の皆さんは毎日どのように過ごしているのでしょうか?

ところで聖書の中で、神様は「なにも心配する必要はありません。ただ全てについてお祈りをしなさい」とあります。つまり私達は、本当の心の安らぎは神から手に入れられるということです。そのような安らぎを手に入れるということは、私達の心や考え方を守ってくれるということです。(フィリピ4:6-7)

さて個人的な話になりますが、私は絵を描くのが大好きです。また絵を描くことによってお祈りをしています。コロナウイルスは丸い形をしているようで、最近描いた絵は「コロナ·アンチ·ウイルス」という題の絵です。絵を描きながらお祈りをすると、神様は私の心に平安と安らぎを与えてくれます。

コロナ肺炎のために、皆さんは最近はずっと家族と一緒に家に引きこもっていると思いますが、ある生徒はこのような状態を「コロナ·バケーション」と呼んでいます。このような表現が出来るのは楽しくて素晴らしいと思います。皆さんもどうぞ心の安らぎが与えられるようにこの時期をお過ごし下さい。

神の名において皆様に安らぎが与えられますように、アーメン。

God’s Peace

by Karen Hoshikawa

Hello Everyone! This is Mrs. Hoshikawa.

How are you doing with the stress of staying home?

In the Bible, God says: “Don’t worry about anything, instead pray about everything! Then you will experience God’s peace. God’s peace will guard your hearts and your minds as you live in Jesus.” Philippians 4: 6-7  (New Living Translation)

I love to draw and paint. In my opinion, my hobby is a wonderful way to pray. Coronavirus is round and my recent art is a round “coronavirus-antivirus!” (see photo) When I draw and paint, I also pray. Jesus, then fills my heart with His Peace and His Joy!

One of my students calls this time of isolation with our families “corona-vacation.” This is a clever and joyful word!

Please enjoy your “corona-vacation!” May God bless you with His Peace.

 

5月7日(木)礼拝メッセージ

ひとりひとりの役割

 

高三担任 富樫恵実

【聖書】コリントの信徒への手紙(一)12章21節~22節、24節~27節

目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前達は要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。

神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

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神様は、私達には一人一人にかなった役割があるとおっしゃっています。そして、聖書に示されている「体の中でほかよりも弱く見える部分」という表現は、ある人がそう思っているだけで神様は、体の中の大切な一機能として必要があったから神様が配置したのだと示されているのです。その役割に、差はないのだ。どれがすごいとか、すごくないということではない。それぞれがその役割を自信持って発揮することが大事であるという事なのだと思います。

見劣りのする部分」これも人々から見て劣ると見えるだけであって、神様から見れば自らの作品として全て良い物なのです。そして、自分の苦しみは、「自分だけで感じるものではなく、共に苦しみを感じる仲間がいるのだ、良いことが起きれば、一緒に喜ぶ仲間がいるのだ」ともおっしゃっています。

今コロナウィルスにより、体だけでなく心までもが影響を受け、人々の争いも起こっています。私自身も、以前よりも、些細なことで、イライラしたりすることがあり「良くないなー」と、感じています。なるべく体を定期的に動かしたりして、気持ちをリフレッシュするようにしていますが、気持ちをコントロールするのは難しいものです。

私達は、自分に見えている、また、知っている世界の中で生きています。そして、体も心も大きく成長するにつれ、自分に見えている世界の外にも本当はもっと違う広い世界があるのだということに気付いていきます。学校生活を送るなかで、勉強をして知識を得て広い世界を知ることは大事なことですが、このこと以上に、様々な人と出会い、喜びや、悲しみ、辛さなどを実際に体験することに大きな意味があると私は感じています。

特に捜真女学校には、勉強だけでなく、行事、委員会、クラブ活動、キリスト教の行事、他様々な活動から、自分の可能性を広げるチャンスが散りばめられています。そして、この学校での経験を足がかりにして、世の中に出た時に、勇気のある一歩を踏み出し、やがては自分なりの大きな力が発揮できるようになるのではないかと思っています。でも、思いがけず、今現在、その機会が奪われてしまいました。この貴重な機会が奪われたことで、心に力が湧かない、なかなか元気になれないと感じている生徒の皆さんもいるのではないでしょうか。

特に高校三年生の中にはクラブ活動の最後の数カ月を迎えられず、最後の大会の機会さえも奪われてしまった生徒がいます。また、これからの進路について、どう進んでいくのか先行きがみえない状態です。運動部に携わってきた私自身、心の行き場を失い戸惑っている状況です。

しかし、このような中、風穴を開けるべく動き出した高三がいました。高三の人たちの中からインターネットを使っての礼拝をしたいという声があがったのです。オンラインで伴奏をし、別の人が司会をし、生徒や一部の教員がお話をしています。5月になっても続いています。不安な中で少しでも前に歩もうとする、その行動に私自身も力を得ました。この礼拝で、力を得た仲間、そして先生方もいらっしゃいます。

捜真女学校の皆さん、そして特に中学部1年生の皆さん、高校1年生の皆さんの中には、いよいよ捜真での生活が始まるという時にこのような事態となり、何が何だかわからないという状況の中、力が抜けてしまっている人、不安を覚えている人もいるかもしれません。

でも皆さん一人一人には、それぞれの役割が必ずあります。神様は必要があって私たちをこの世に送りました。小さなことでも良いから、何か人にエネルギーや元気を与えられることができたら良いなあと思っています。身近な人にでも良いですし、勿論捜真の仲間にでも良い。エネルギーを伝えられる何かがあるはずです。伝えれば、またそのエネルギーは自分にも力となって返ってきます。辛い時には一緒に苦しんでくれる仲間がいます。一緒に喜んでくれる仲間がいます。何かアクションを起こしてみてはいかがでしょうか。

5・6月の個別相談会は中止とさせていただきます

5月と6月に予定していました校長または教頭による個別相談会は、新型コロナウイルス感染拡大の現況を考慮し、中止とさせていただきます。お会いしてゆっくりとお話しさせていただけることを楽しみにしておりましたが、それが適わず残念な気持ちでいっぱいです。9月·10月の開催につきましては未定ですが、開催可能な場合にはお待ちしております。