投稿者「soshin」のアーカイブ

図書館から本の紹介 7月24日

夏休みまであとわずか。今回も生徒からの本の紹介です。
自粛中を思い起こしこんな本を紹介してくれました。
こちらも、昨年まで図書委員をしてくれていた生徒からです。

『世界文学全集43 三人姉妹/桜の園他より かけ』

             チェーホフ 集英社

ステイホーム。
この言葉はこの春から何度も聞いた言葉です。
「ずっと家にいる」「家で過ごす」という意味ですね。
ところで、人はずっと建物の中にいて、外の人と関わらずに過ごすいわば幽閉生活を何年も続けるといったいどうなってしまうのでしょう。

この本は年老いた実業家と若い法学者があるかけをして、負けた方が幽閉をされてしまうという物語です。かけに負けた法学者は幽閉されている15年の間、1年目は探偵小説、怪奇小説、喜劇などの軽い内容の本を読み、2年目になると古典作家のものばかりを読みました。そこから、だんだんと本の種類が増え、しまいには……。
この話は国語の問題集に紹介されていたもので、昔は教科書にも載っていたそうです。
人は本を読みすぎるとどうなっていくのか。思いがけない結末です。
後は読んでからのお楽しみ。

礼拝メッセージ 7月24日(金)

「calling〜愛には抑止力がある」

高一担任·宗教主任 藤本 忍

こちらから讃美歌195番「命の君にます主よ」を聞くことができます

【聖書】マルコによる福音書1章16節〜20節

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

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心無い誹謗·中傷を受けて、テラスハウスの木村花さんが自ら命を絶った事件は社会に大きな衝撃を与えました。以来、ずっと考えていることがあります。それは、命を絶つその寸前でなぜ留まることができなかったのかということです。そして、もう一つは、なぜあんなにも残酷な言葉を人に向けて発することができるのか、ということです。言い換えれば、言葉を発するその寸前で、これを言ったらどれほど人が傷つくか、考えることができなかったのか、ということです。そして言った後でも、悔いて謝る気持ちにはなれないものなのか、ということです。

コロナ禍で、学校が再開しました。二部制という未だかつて経験したことのない学校生活を送っています。でも、20人でなければ声を掛けなかった人がいたと思います。また20人でなければ友人になっていなかった人もいたはずです。我がクラスは席を出席番号順に縦ではなく横にしています。そのことで席が近くなって友人になっている人達がいます。そして、毎朝検温表を確認しながら移動していくと、やたら35°代が続く列があります。5人ほど続いていて、思わず「ここは低体温グループだね」と言ってしまいました。しかしそのくくりで偶然にも出会った生徒たちは、自分たちの体温の低さを共通点にして会話を楽しんでいることがあります。

そして、あまりにも呆気なく終わってしまう日々が残念で、「何かしたい」という思いから、ある生徒のアイディアで「クイズ大会」をすることになりました。奇数組の生徒が考えたクイズを偶数組が答え、偶数組の生徒が考えたクイズを奇数組の生徒が答えて、点数を競うというものです。20人を更に半分にして10人対10人の対決で、それぞれのチームから代表を一人出して解答をしていく形式です。ルールはただ一つ、自分のチームの代表解答者を下の名前で呼んでエールを送る、です。今回のクラスで初めて出会った生徒も、絶対に下の名前で呼ばなくてはいけません。生徒ならではのアイディアだなって思いました。互いの名前を覚えるだけでなく、一気に親しみが沸くという仕組みです。

そんな日々を送っていると、高入生に日直が回ってきて、HRでお祈りをすることになりました。私は無理をさせず、お祈りは飛ばそうと思っていました。しかし、近くの友人にお祈りの仕方を聞いたらしく、立派なお祈りをしてくれました。そして「前の晩、寝ずに考えました」と言う言葉を聞いて、急いでキリスト教のオリエンテーションをしました。そして、お祈りの仕方と献金の考え方などを伝えました。そして、何か困っていることはないかと聞くと、

「それがないんです。放っておかれないというか。戸惑っていたり、高入生で固まっていたりすると、必ず『どうしたの?』『大丈夫?』と必ず声をかけてくれる子がいるんです。」と。私はその話を聞いて思い出したことがありました。

入社試験の際に「あなたの夢はなんですか?」と聞かれて「世界平和です。」と答えた教え子がいるんですが、私はその子と会う度に「その後、世界平和実現は進んでいますか。」と聞いています。すると、先日会った時にはこう答えたんです。「それが全然です。日常に埋もれてしまっています。」と。私が「あなたの強味って何?」と聞くと暫く考えて、「技術とか、技能とか語学力とか、そういうものではないな~」と言いました。彼女は毎日と言って良いほど英語で、何億という単位の商談を取引していたので、今挙げたものを強味として答えもおかしくなかったのですが、また暫く考え込んでからこう言いました。「私がしていることは、仕事で失敗して、一人でそれを抱えて、落ち込んでいる人に気付いて、声を掛けることかな。それも、だいだいの人が高学歴のエリートで、失敗経験がなく順調に進んできた人たちなので、プライドも高いんです。だから私みたいな年下が声を掛けたのでは、プライドが傷ついてしまうから、その人と同期の、私にとっては先輩にあたる人に相談して、何気なく声を掛けても貰って三人でご飯に行くんですよ。強いて言うならそれかな、私の強味は。」それを聞いて私は、しっかり世界平和を実現してると思いました。

今日、お読みした聖句ですが、イエスという方も、この「人に声を掛けること」を生涯の使命としていました。主イエスに出会い、声を掛けられて人生が変わった人はたくさんいました。事実、ペトロもそうでした。大きな挫折をしたあと、彼は立ち直って、本当に主イエスの言葉通り「人間を取る漁師」になりました。人生に目的ができたのです。彼は大きな挫折をしましたが、だからと言ってそれで彼の人生は終わりませんでした。

正解はわかりませんが、名前を呼んで声をかける人がいたら、自ら命を絶つことも、酷い言葉を浴びせることもなかったのではないか、と思うのです。あなたが心配だ、あなたに関心がある、あなたと友達になりたい、そう思ったら声に出して名前を呼んで、素直に声を掛けていきたいと思います。なぜなら、愛には抑止力があるからです。神さまからの呼びかけ、callingは呼びかけられた人間の人格全体に響き渡ります。響き渡るその言葉を受け止めることで人生は大きく転換していきます。

 

図書館から本の紹介 7月22日

学校での授業が本格的に始まり、たくさんの生徒が本を借りに来てくれています。例年並みに貸出冊数も増えており、嬉しいかぎりです。

さて、今回は生徒からの本の紹介です。今年度はまだ図書委員会の活動が始めらませんが、昨年まで図書委員をしてくれていた生徒に声をかけたところ、快く引き受けてくれたので皆さんにも紹介します。生徒たちにも人気の本で、貸出の記録もいっぱいになっています。

 

『RDGレッドデータガール はじめてのお使い』荻原規子 角川書店

今回はいつも私を支えてくれている本を紹介しようと思います。

世界にはレッドデータブックというものがあります。簡単に説明すると絶滅の恐れのある野生生物の情報を取りまとめた本です。この本のタイトルはそこからきていて、絶滅危惧種の女の子という意味になります。

私がこの本に出合ったのは中学校に入学する前の春休みでした。図書館に隔週で通う生活をしていた時に母の薦めで読み始めました。私はこのシリーズを20回ほど繰り返して読んでいます。普段は一回しか読まないことが多い私ですが、この本は出かけるときによく携帯しています。そして、この本ほど繰り返し読んだ本は他にないと思います。その時の心情や、環境の違いでいつも新しい発見を与えてくれます。この本に出てくる登場人物の中でいつもハッとさせられるのは深行くんの言葉です。持てるものを武器にしようと思うところなど私と似ている点が多いからかもしれません。

他の荻原規子さんの本よりお話も短めで、舞台も現代の学校と読み始めやすい一冊なのでぜひ読んでみてください。図書館にも足を運んでいただけたら幸いです。

図書館はただ、本を借りるところではなく本をきっかけに新しい人と知り合えるチャンスのある場所です。新型コロナウイルスの影響でいつも通りとはいきませんが、本や図書館そして先生方はいつでも待っていて下さているので気が向いたらぜひいらしてください。外で思いっきり何かをすることは難しい状況が続いていますが、本を通じて外の世界を満喫してみてはいかがでしょうか。

 

 

 

礼拝メッセージ 7月22日(水)

「そのまま愛されている」

中1担任 新井 昂太

こちらから讃美歌453番「聞けや愛の言葉を」を聞くことができます

 

【聖書】ヨハネによる福音書 5章1節~9節
その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
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時折、女の子みたい、とか、女子っぽいと言われることがあります。先日は担任をしている中学1年生に、「D組担任の稲野先生は男の子っぽくて、新井先生は女の子っぽいですね。」と言われました。また、以前に藤本先生と食事をした時には「新井先生がいるけれど女子会コースで頼めないだろうか。」という私にはどうにもできない謎の相談を受けました。
女の子っぽいと言う(言われる)ことが良い悪いといった問題はここでは置いておきます。(少なくとも、私自身はそう言われることで不快な思いをすることは全くありません。それを含めて「私」です。)

さて、そう言われることについて、私にはいくつかの考えと背景があります。
私は兄弟について、「兄と私の二人兄弟です」と普段は説明しています。「普段は」というのは、私には実は姉がいます。そして、その姉は私が生まれる前に二歳で病気で亡くなってしまった、という事情があるからです。二歳というかわいい盛りで亡くなってしまいましたから、当然両親にはその姉への思いがあったはずです。「顔や性格がそっくりだね」とか「好きなものも似ているね」と言われた覚えがあります。そんな覚えから、「自分はどこかで姉と重ね合わせて育てられたところがあるのかもしれない。だから女の子っぽいところがあるのかな」と、中高生くらいまでは思っていました。

ところが、どんなに思い返してもはっきりそう(女の子として)育てられた覚えがないからか、ある時、別の考えが私に浮かびました。それは「自分が実際に姉と重ねられて育てられたわけではない。でも、自分自身がそう思おうとしている。」というものです。なぜそんな必要があるかというと「愛されている」確証を得たかったからだと思っています。私自身十分に大切に育ててもらったという自覚もありますが、一方でかわいい盛りで亡くなってしまった姉への両親の愛情には確固たるものがあります。「自分は愛されているはずだ。なぜなら姉みたいに大切に思われているからだ。」と思おうとしたのだ、ということです。

私達は誰もが皆「愛されたい」と願っていると思います。そして、愛されるためにたくさんの労力を払います。努力を重ねて、愛される自分になろうとします。でも、それにもかかわらず、愛されない時が私達にはあります。

先日、ある生徒から一枚のプリントをもらいました。その人のおすすめ本を紹介するものなのですが、そこにはこんなことが書いてありました。「人が本当に苦しいのは自分が一人なのだ、私は誰からも愛されていないのだ、と思う時です。」と。
誰からも愛されない。誰からも顧みられない。とても、辛く苦しい時です。

今回の聖書箇所に出てくる「病人」もまさにそのような時を過ごしていたはずです。38年もの長い間病に苦しみ続けた人。その病人はイエス様に声をかけられると、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」と答えます。病人は自分の問題は「池に連れて行ってくれる人がいないこと」だと思っていました。だからイエス様に対して池に連れて行ってくれるように頼んでいます。
ところがイエス様の応対はそれとは異なるものでした。その場で、そこにいるその人そのままに、「起き上がりなさい」と、「歩きなさい」と語りかけられたのです。

私たちは愛には理由が必要だと思っています。「姉と一緒だから愛されているのだ」「…だから愛される、好かれる、認められる」「…だから愛されない」また、「…ができない自分は愛せない」。聖書の病人で言えば「池に連れて行ってくれる人がいないから」などという風に。
でも、神様の愛には理由はありません。何かができるあなたを愛するわけではありません。何かに優れているあなただから愛しているわけではありません。あるいは、何かができないから愛されないのでもありません。
いまそこにいるあなたが、そのまま愛されている大切な存在なのです。あなたの存在そのものに価値があり、あなたの存在そのものが愛されているのです。
「…ができれば、…だったら」と私たちは思ってしまいがちです。でも、私達の存在そのものが愛されている、ということを信じて、歩む者でありたいと思います。

 

学校が再開してもできるSDGs 捜真SDGs実行会アピール第9弾

こんにちは!SDGs実行委員会です。
いよいよ一斉登校が始まりましたね!学校が再開してもできるSDGsは4回目、全体では第9弾となりました。これからも私たちにできるSDGsを続けていきましょう!

【第9弾】
①マイバッグを持とう!
7月1日からレジ袋が有料化されましたね。レジ袋は自然環境下では分解されにくく、海洋汚染や地球温暖化につながります。また、海や陸を問わず、野生動物がえさと間違えて食べてしまうのも深刻な問題です。
お気に入りのマイバッグを持ち歩き、レジ袋の削減に協力しましょう!どうしても必要でレジ袋を購入した時は、お家でゴミ袋として使うなど、再利用してみて下さいね!

②マイボトルを使おう!
蒸し暑い季節となってきましたね。熱中症にならないために、水分補給は大事です。ぜひ水筒を持ってくるようにしましょう!
ペットボトルを使わずマイボトルを使うことでプラスチックゴミを減らすことができます。日本のプラスチックゴミの多さは世界で2番目です。この状況を少しでも改善できるようみんなでマイボトルを使っていきましょう!
私たちの小さな取り組みが、SDGsの目標を達成させることに繋がります。

【第9弾のゴール目標】

礼拝メッセージ 7月20日(月)

「自分から進んですることの価値」

高等学部教頭 鳥居 敬一

こちらから讃美歌2編191番「主のまことはくしきかな」を聞くことができます

【聖書】 マタイによる福音書5章41節

だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。

********************************************先週、中山校長先生が礼拝で、この有志のチャペル礼拝が生徒たちの提案で始められ、今も続いていることに心を打たれるとおっしゃっていました。
私も毎日集まってくる皆さんの姿を見て感動を覚えます。
今朝は「自分から進んですることの価値」についてお話します。

今日の聖書の箇所の背景をお話しすると、当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあったため、ローマ兵たちはユダヤ人を徴用して強制労働をさせることができました。重い荷物を「あそこまで運べ」と言われれば、ユダヤ人は従わなければなりませんでした。
1ミリオンというのは約1.5㎞のことです。1ミリオン行くように強いられたら、更に強いられていない1ミリオン行きなさい、とイエス様は教えています。1ミリオンだけなら、ただ命令に従っただけですが、その先の1ミリオンは自らの意志によるものです。強制されて仕方なく行うことではなく、自分から進んで行うことにこそ価値があると言われているように思います。

ところで、休校期間中に運動不足で体力が低下するのを防ぐために、自宅でトレーニングに励んでいた人も多かったのではないでしょうか。
皆さんは「トレーニングの5つの原則」をご存じですか。高校の保健の教科書にも載っていますので、興味のある人は調べてみてください。
その原則の一つに「意識性の原則」というのがあります。
例えば、腹筋のトレーニングをする時には、どの辺りの腹筋を鍛えているのかを意識しながら行うと、ただ何となくトレーニングするよりも、効果がはるかに高いと言われています。ましてや誰かからやらされて意味もわからず嫌々やっていたら、高い効果が望めないのは当然です。

幼い時期から子供の意志に反して詰め込み型の英才教育をすることには、様々なデメリットがあると言われるようになりました。例えば、何をやっても心が波打たない子になるとも言われています。それだけでなく、伸ばそうとしていた能力も最初は高い伸びを示すけれど、殆どは英才教育を受けなかった子供たちに抜かれてしまうとも指摘されています。

私自身が気になるのは、能力を伸ばすメソッドとして何が優れているかということよりも、何のために子供の能力を高めようとしているのか、ということです。伸ばされた能力を何のために、どのように使うのかということにはあまり関心が払われていないように思われます。
「能力を伸ばすこと = 良いこと」という考えのもとに、大人顔負けの能力を身に着けさせることを目的に育てられた子供が、将来どういう大人になっていくのかが心配です。

そういう私もかつて数々の習い事をしていました。
例えばヴァイオリン、オルガン、ピアノ、エレクトーン、水泳、剣道、そろばん、などです。いかにも英才教育っぽいですよね。
どれも自分がやりたくて始めたのではなく、親にやらされていました。
人からあれこれ指図を受けるのが大嫌いな性格の私には、長続きするはずもなく、全て中途半端に終わってしまいました。

好き好んでではなくても、必要を感じて自分から取り組んだことにはそれなりの効果があると思います。皆さんの勉強もそうでしょう。苦手な教科でも「自分から」が大事なポイントです。

さて、話は変わりますが、このコロナ禍で様々な分野でオンライン化が一気に進みました。今までは学校や職場に行くのが当たり前でしたが、行かなくても多くのことが済ませられることに多くの人が気づきました。
しかし、こうなると学校に集まって授業をすることの意味が問われます。オンラインではできない様々な活動があることは確かですが、集まることの価値を考え直す必要があるように感じます。
私はその中の一つに「集団として前に進む力」があると思います。
一人ひとり自分が満たされることだけしか考えなければ、社会は前へ進みません。自分のことだけで精一杯であっても、周りの人の必要に応えようとすれば、自分も含めて社会が動き始めます。これが集団として前に進む力だと思います。
「情けは人の為ならす」ということわざの通りです。
周りの人を助けている余裕なんて自分にはない、と思っている人も、敢えて助けの手を差し伸べてみてください。それが結果的に自分を進めることになります。集まることで、助けを必要としている人が見えるようになります。
全ての力をそれに使う必要はありません。献金と同じように与えられている力のほんの一部を他の人のために使うことで、神様にお返しすることになります。
神様はその小さな力を祝福して何倍にもして用いてくださいます。
ここでも自分から進んで捧げることが大事なポイントです。

9/4学校説明会をお申込み制にさせていただきます

9月4日に予定している学校説明会を、お申込み制に変更させていただきます。また、各ご家庭2名様までとさせていただきます。お子様の年齢による制限、そして定員はございません。8月3日(月)〜9月3日(木)15時まで、本校ホームページにてお申込み受付をいたします。皆様のお申込み·ご来校を心よりお待ちしております。

お申込みはこちらより

内容

「授業公開」

「全校礼拝」

「説明会」(教育理念、教育内容、募集要項、入試、アフタースクール等)

礼拝メッセージ 7月17日(金)

「Don’t Worry, Be Happy」

中1担任 杉山 知子

こちらから讃美歌174番「起きよ、夜は明けぬ」を聞くことができます

【聖書】使徒言行録20章7節~12節
週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。エウティコという青年が窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。
「騒ぐな。まだ生きている。」
そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。

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7月3日(金)、久しぶりにチャペル礼拝を担当しました。
パイプオルガンの響きはやはり生(なま)がいいですね。
仁平先生が先月HP礼拝で紹介してくださったこの讃美歌174番は、十数年前に99歳で亡くなった祖父の愛唱讃美歌でしたから、懐かしく思い出していました。
「起きよ」「目覚めよ」という歌詞ですが、当たり前にチャペル礼拝を守っていた頃、チャペルといえば寝る時間だったという人も中にはいたのではないでしょうか。

私たちは、青年エウティコのように、寝るつもりがなくても眠りこけてしまうことがあります。がんばっていても、失敗して「下へ落ちて」しまい、「死んで」いるも同然と自ら思い込んでしまうこともあります。でも、神さまは、そんな私たちを抱きかかえ、「まだ生きている」と言ってくださるのです。
私たちが生きるかどうかは、創ってくださった神さまが決めます。朝、目が覚めたということは、その日、神さまが生きる意味を与えてくださっているということなのです。だから、SNS等の誹謗中傷によって自殺に追い込まれたなどというニュースを聞くたびに、腹が立って仕方がありません。なぜその人を創ってもいない人々にとやかく言われなくてはならないのかと。

ブレイディみかこさんの著書『THIS IS JAPAN』の中で、元アムネスティ日本事務局長の寺中誠さんは、人権について次のように述べています。
「私たちはみな資源に依存して生きている。ところが、その資源が消えることもある。お金もそうだし、体の機能が停止するとか、言葉がわからない国に行かなくてはならないとか。そのときに、資源が全部なくなっちゃったとしても、最後まであるのが人権です。(中略)お金があるならお金を使いなさい。友達がいるなら友達に頼りなさい。体力に自信があるならそれを駆使して頑張ればいい。でも、それが全部なくなって頼るものがなくなったとき、底にある蓋が人権です。」
みかこさんはこう続けます。
「人権というのは、アフォードする力[支払う能力](日本流「人間の尊厳」)もコミュニケーション力(相互扶助スキル)も、すべての力を人間が失ってしまった時にそこにあって、わたしたちを丸ごと受け止めてくれるものなのだ。そう思えば、人権は眉間に皺を寄せて思索するものでも、ましてや、そのために他者を傷つけてまで戦わねばならぬ正義のスローガンでもない。人権とは、わたしたち一人ひとりを楽にさせてくれるものなのだ。」
ここで「人権」を「神さま」に置き換えると、実にしっくりくると思いませんか?
人の悲しみ、苦しみをご自身で味わい尽くし、死に打ち勝ってくださった、この神さまが丸ごと受け止めてくださるから、私は不安に怯えることがありません。この神さまが丸ごと愛してくださるから、私たちも隣人を愛する小さな行いができるのです。

最後に、みかこさんの本に出てきたボビー·マクファーリンの「Don’t Worry, Be Happy」の歌詞の一部をご紹介します。

In every life we have some trouble
みんな人生色々あるさばってん
When you worry you make it double
そげん悩んだっちゃろくなことなかろーもん
Don’t worry, be happy
心配せんとハッピーでおらんね
(Translation by KEI YouTube より)

礼拝メッセージ 7月15日(水)

捜真では今日15日から全体での登校が始まり、学校でも放送という形ではありますが、全校そろって礼拝をおこなうことができるようになりました。今日から28日までは、分散登校中に行われた校内チャペルでの有志礼拝のお話を、毎週(月)(水)(金)にご紹介します。

有志礼拝は高3の生徒の申し出で始められました。中1から高3までの生徒が毎日30人~50人、そこに教職員も加わり、2週間にわたって共に聖書の言葉を聞くことができました。

 

「幸福な世界

中1学年主任 佐々木 広

こちらから讃美歌187番「主よいのちの言葉を」を聞くことができます

【聖書】ルカによる福音書12章16〜21節
それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」

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アメリカのヨセミテ国立公園にある断崖絶壁、エル·キャピタンの写真です。高さは900メートルで、東京タワーの約3倍、東京スカイツリーの1.5倍です。
3年前、この崖に命綱なしのフリーソロクライミングで挑んだクライマーがいます。その人の名はアレックス·オノルド。彼の挑戦を密着取材したドキュメンタリー映画を、先日テレビで観ました。番組の紹介に「衝撃の結末」とあったので、いつ彼が手や足を滑らせて落ちてしまうのかと、観ている途中で怖くてテレビを止めたくなる、緊張でやたらと手汗をかく、身体に悪い映画でした。
ただ、私にとっては結末よりも衝撃を受けたことがあります。
それは、彼の言葉と生き方です。
命綱なしのクライミングなんて、どれだけクレイジーな人なのかと思っていたら、淡々とした、物静かな、欲望とは全く縁がない、哲学者みたいな人でした。彼は、死にたいわけではなく、無謀な人でもありません。死なないために、厳しいトレーニングと緻密な予行演習を繰り返して、本番に挑みます。家は持たず、キャンピングカーのような車で移動しながら、生活のほとんどがクライミングのためというストイックな生活をしています。
世界的に有名なクライマーなのでファンがいて、なんと恋人ができます。クライマーではない一般の女性で、映画にも出てきます。アレックスとは対照的な明るく社交的な人で、その影響で彼にも変化が表れ、家を買うことになりました。彼女は当然、彼には死なないでほしいわけです。彼の怪我をきっかけにフリーソロクライミングをやめてほしいと持ちかけました。しかしアレックスは、彼女の気持ちを気遣いながらも、自分にとっては彼女の願いよりも挑戦が優先だと言いました。映画の中の言葉はこうです。
「彼女は人生に幸福を求めている。僕はすべて挑戦のためだ。誰でも幸福に安住できる。幸福な世界には何も起きない。そこにいても何も達成できない」。
「幸福な世界には何も起きない」という言葉が、私にとっては衝撃的でした。

私たちは、危険やリスクがない、幸せな安定した生活がいいと思っています。
例えば、我が家の子どもは今年受験生です。親の立場からすると、子どもたちには、将来の安定した生活をめざして少しでもランクが上の進学や就職を、と願います。ところがアレックスは、幸せに安住する人生、安定した人生には何も起きない、自分にとっては生きていないのと同じだ、というのです。私や妻が当然のように願う子どもの幸せな人生は、「何もない、何も起きない人生」なのか、と衝撃を受けたのです。また、自分自身の人生についても、同じように考えさせられました。

今日のイエス様のたとえ話に出てくる金持ちと、私たちの考え方は同じではないでしょうか。仕事である程度成功して、何年も安心して生活できるくらいお金や財産を蓄えて、あとは悠々自適で楽しく暮らしたい、というのがこの世の普通の価値観です。
ところが神様は金持ちに対して「愚かな者よ」と言います。
ある時、イエス様は教えを求めてきた金持ちの若者に、「持ち物を全部売り払って、私についてきなさい」と言いました。その若者は、財産を捨てることができずに去って行きました。安定した、幸せな生活を捨てるのは、どんなに真剣に人生のことを考えている人でも難しいのです。それは、私たちも同じです。しかし、そういうものを捨てないと、そこから離れないと見えないものが、人生にはあるのだと思います。

何年か前に高校のクラス会があり、その時に私は、かつてのクラスメートの1人からそういう話を聞きました。
クラス会では、集まった人全員が近況報告をしたのですが、その中で、裁判官をしていたA君が近況報告をしました。裁判官といえばエリート中のエリートです。しかし彼は、家庭の事情で裁判官を辞め、今は特技である音楽を生かして障害を持つ子どもたちの施設でボランティアをしながら、法律相談で生計を立てていると言っていました。そして彼はこう言いました。障害を持った子どもたちに関わるようになって、子どもたちの笑顔に触れてわかったことがある。価値のない人間なんていない。障害がある人も障害がない人も皆同じように、生きていることそのものに価値がある。自分はそれを発見しました、と。彼は、エリートコースから外れたときに、人生には仕事の成功や上のランクを目指すことよりも大切なことがあると気づいたのだと思います。アレックスの言葉を借りれば、人生に大きな出来事が起きたのです。クラス会の近況報告の話としては、やや場違いだったかもしれません。しかし私の心には、この話が最も強く残りました。なぜなら、私も含めて多くの人は、そういうことに気づかずに、あるいは気づいていても仕事が忙しいとか何とか言って、見ないようにして生きているからです。

今日の聖書の言葉でイエス様は、命を取り上げられる金持ちについて、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」と言っています。
神の前に豊かになるとはどういうことでしょう。今日の聖書箇所の少し後に、こういう言葉があります。
ルカによる福音書12章33~34節
「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなた方の富のあるところに、あなた方の心もあるのだ」
私たちの心が、持ち物やお金や安定した生活への執着から解放された時、神様は本当に価値のある「尽きることのない富」(少し前の箇所ではそれを「神の国」と言っています)を与え、私たちの人生を真の意味で豊かにしてくださるのだと思います。

祈り
神様、ともに礼拝の時をもつことができたことを感謝します。
私たちは自分の幸せや安定した生活からなかなか一歩踏み出すことができない弱さを持っています。人生にとって本当に大切なものを私たちが見つけることができるように、神様の導きをお与えください。
災害やウィルスの感染拡大により、多くの人が苦しみの中にあります。自分のことだけでなく、困っている人たち、苦しんでいる人たちのことを考えて行動することができるように、私たちにできることを教え、行動する力をお与えください。
イエス·キリストのお名前によってお祈りします。

 

日能研「おうちで自由研究フェスタ2020」に参加 捜真SDGs実行会

 

日能研の「おうちで自由研究フェスタ2020」のサイトで、捜真SDGs実行会の生徒が、Tシャツをエコバックとクッションにリメイクする方法を紹介しています。

インドのコットン畑で働く子どもたちの状況を伝えながら、私たちが商品を選ぶ時に考えたいことや、商品を最後まで使うことの大切さ伝えています。

作り方は動画でも説明しています。是非ご覧ください。

【日能研おうちでフェスタ2020サイト】

学校が再開してもできるSDGs 捜真SDGs実行会アピール第8弾

こんにちは、捜真SDGs実行会です!いよいよ合同授業が始まりますね。

今日は、そんな忙しい日々でも取り組めるSDGsを紹介していきます!

【第8弾】
①食品用ラップを再利用しよう!
一度使ったら捨ててしまいがちなラップですが、実は食器洗い用、ガラス磨き用のスポンジとして使うことが出来ます。
また、洗濯機の排水ホースに巻き付けたり、家具の底、部屋の角などホコリの溜まりがちなところに置くと、掃除が楽になります。
また、少し値段が高くなってしまいますが、繰り返し利用可能な、オーガニックラップ ”Bee Eco Wrap”やシリコンラップもネットで簡単に買うことができます。そういったラップを使うのもSDGsの取り組みになります。


②ティッシュを使わずにタオルや新聞紙を活用しよう!
みなさんは飲み物をこぼしてしまったときや何かを汚してしまったとき、何を使って拭いていますか?
ティッシュは一度使ったら捨ててしまいますが、使い古した布やタオル、Tシャツなどは何度でも洗って使うことができます。
他にも新聞紙の活用がおすすめです。読んだら捨ててしまう新聞紙も床や窓掃除をする際に使うと、インクに含まれている油分でピカピカになります。
紙製品も工夫を少しするだけでエコにつながることがたくさんあります。
ぜひ試してみてください!

【第8弾の目標ゴール】

受験生の皆様へ 7月「捜真クルーズ」のご案内です。

【ご予約はこちらへ→】https://nkmr8.sakura.ne.jp/wordpress/jogakko/entrance_sj/briefing_sj/

7月の捜真クルーズ(校内見学、授業見学)、個別相談情報を更新いたしました。いずれもオンラインでの開催となります。

6月25日(木)よりご予約いただけるようになります。

オンラインでの開催となりますが、校内のご案内を本校スタッフが個別で行います。分散登校で授業を受けている生徒たちの様子も一部ご覧いただけますので、ぜひご予約ください。

 

中学部学校説明会動画をご覧いただけます

5/16(土)の中学部オンライン説明会動画をいつでも視聴できるようにしました。
まだご覧になっていらっしゃらない方!必見です!
最初に第1部の校長挨拶、礼拝、学院長による教育方針をご覧ください。

次に、7つのテーマに沿って捜真のご紹介をします。ここでご覧いただけるのはショートバージョンです。本編をご覧いただくにはご予約をお願いしておりますので、以下の予約サイトにお進みください。

説明会予約はこちら

 

 

第1部には、校長挨拶·礼拝·捜真の歴史と教育理念が収録されています。

第2部は、テーマ別学校紹介です。
7つのテーマと内容の紹介はリンクからご覧いただけます。

1.捜真の学習指導と進路指導

2.最善のあなたになる力 ~もっと私を好きになる~

3.最善の社会をつくりだす力 ~中高生が世界を変えるには~

4.最善の自分をデザインする力 ~自分から机に向かう子になる~

5.最善の自分を育てる力 ~捜真Vプロジェクト~

6.最善の道を切り開く力 ~共に目指す一人ひとりの第1志望~

7.最善の自分に出会う力 ~世界に出会って世界を変える~

ご覧いただきましたら、ぜひアンケートにもご協力ください。

礼拝メッセージ 7月14日(火)

「一日一生

中3副担任 三宅 義人

こちらから讃美歌265番「世人の友となりて」を聞くことができます

【聖書】マタイ6章31から34節
だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言っても思い悩むな。それらはみな異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

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例年、夏休みに入る前や1月の受験シーズン前に高校三年生に向けて先生方の激励のメッセージを載せた捜真だよりが発行されます。また、卒業式直前に高校三年生が「手帳に何か一言書いてくれますか」と訪ねてくることがあります。
私は毎回、次の2つの言葉のどちらかを書くようにしています。一つ目は「未来を信じ、未来に生きる」という言葉です。これは私が卒業した大学の総長を長く務められ、法学の先生であった末川博という人の言葉で、今も母校の入口の石碑にこの言葉が刻まれています。
もう一つの言葉が「一日一生」という言葉です。最近比叡山の僧侶の方がこの題で本を出版されたそうですが、もともとは内村鑑三というキリスト者が使った言葉です。内村はこんな意味のことを言っています。

「一日は貴い一生である。これを空費(ムダづかい)してはならない。そして有効的にこれを使用するには神の言葉を聞いてはじめることにある。一日の成功失敗は朝の心構えで決まる。朝起きて、まず第一に神の言葉(聖書)を読んで神に祈る、これをしないではじめた一日の戦いに勝利はない。たとえ敗北のように見えても勝利となるに疑いはない。そしてこのような生涯を一生続けて、一生は成功に終わるのである。」

私たちは、生きていく上で一生懸命過去の自分の経験や知恵から、未来を展望して予測を立てて生活をします。けれども相手がある場合、その予測通りに進まなかったり、経験や知恵が通用しないということがあるということも知っています。先が見通せない、これほど人を不安にし、しばるものはないのだということを、この歳になって痛感しています。だから練習し、努力をするのだと思います。不安を自信に変えるために。

しかし視点を変えてみると、病や災害、戦争のように、経験や知恵、努力を総動員しても、先が読めないということがこの世にはあるということを私たちはこのコロナの混乱の中で嫌というほど味わっていると思います。そういう時だからこそ、この「一日一生」という言葉が響いてきます。一日を一生と思い、今自分に出来ることを一つひとつやっていくしかないのではないかと考えます。

今日取り上げた聖書の箇所は、とても有名な箇所です。「明日のことを思い悩むな」という言葉は、ともすれば、うまくいかないこと、先が読めないことに対して、「くよくよするな」という意味で捉えられがちです。それはそれで意味あることだとは思います。だけど「流れや運命に身を任せろ」という浅い意味でイエスは語ったのではないと思います。そんな受け身的な意味の言葉ではありません。くよくよして立ち止まるのではなく、「できることは何か」を問いかけ、それを実行に移していくという積極的な言葉です。もし先が読めない不安がぬぐえないなら、神の国と神の義を祈れと言っています。つまり自分が目指しているものが本当に神さまの御心に適っているかを問いつつ、今自分のできることを積極的に実行していけば、道は開かれるということを述べているのではないでしょうか。未来は誰にもわかりません。でも今日私たちがやるべき業の積み重ねが未来を開いていくのです。

「未来を信じ、未来に生きる」という言葉と「一日一生」という言葉は、根の部分ではつながっていると思います。例え小さいことであっても、今の自分のできる正しいことを実行していく、それが未来への道への第一歩だということをしみじみ感じるこの頃です。

≪お祈り≫
神さま、私たちの人生は先の見通せない不安と隣り合わせです。そのような怖れの中で私たちは立ち止まってしまう弱さを持っています。けれども、今日できることを積み重ねていく時に神さまによって未来が開かれるということに立ち帰っていくことが出来ますように私たちを支えてください。
この世界、この日本の混乱の中で弱い立場に置かれている人に思いを寄せ、イエスさまによって告げられた正義と平和が実現しますように。
この祈りを私たちの主であるイエス·キリストにみ名によって祈ります。
アーメン

 

礼拝メッセージ 7月13日(月)

「自分の天分のありたけを尽くそうと思うのである

高三担任 石黒 明子

こちらから讃美歌501番「命のみことば」を聞くことができます

 

【聖書】ヨハネによる福音書8章14節

イエスは答えて言われた。「たとえ私が自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。

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今、現代文の授業では、高三の皆さんと夏目漱石の「現代日本の開化」を読んでいます。休校の4月初めから、岩波文庫で「夢十夜」「文鳥」「永日小品」と読みすすめてきてもらっていて、いずれも小品ですが深い味わいがあります。

「現代日本の開化」は1911年の8月に行われた講演です。この年の前後には漱石の身辺ではさまざまのことが起こっています。前年、修善寺の大患といわれる吐血があり、漱石は生死をさまよいました。また講演と同じ年、幼い末娘の突然の死に直面しています。漱石は全集で換算すると800ページにおよぶ日記と断片を残していますが、1911年の日記には「生きて居るとき」は「ほかの子よりも大切だと思わなかった。死んで見るとあれが一番可愛い様に思う」「表をあるいて小い子供を見ると此子が健全に遊んでいるのに吾子は何故生きていられないのかという不審が起る」という悲痛な声が記されています。

漱石のこの年のメモには「Is it impossible for a Buddha or a Christ to exist in the 20th Cent.」という記述も見られます。漱石は英語の聖書もずいぶん読み込んできました。ちなみに、この聖書をくれたイギリス人女性は熊本時代の漱石に英語を教えてくれたノット夫人で、漱石はイギリス留学に向かう船の中で偶然にノット夫人と再会し、聖書をもらったのです。だから漱石が自分の聖書を手にした日はちょうど120年前の1900年のことだと判明しています。特に漱石の書き込みが多い箇所は「創世記」「ヨブ記」「マタイによる福音書」であるそうです。絶望と苦しみの中にあって神様に問い続けた「ヨブ記」を読み込んでいたということは、とても興味深いです。この聖書を漱石は生涯使い続け、現在は東北大学に所蔵されています。

明治は激動の時代です。日本は開国して地道に内部から発展をしていければ良かったのですが、外国から怒涛の変化の波が押し寄せた時代です。今回のコロナ·ウイルスによる自宅待機で止むに止まれぬ状況でオンライン授業になったことと重なります。新たな進路を切り拓かなければならない高三の皆さんのことを考えても、5年、10年かけて、じっくり自分のやりたいことを探していければそれに越したことはありませんが、実際はそういうわけにはいきません。「現代日本の開化」の中でも、漱石は日本の置かれた状況を皮相上滑りの開化になってしまっていて、どうやって急場を切り抜けるか名案が浮かばないと述べています。漱石はクリスチャンではありませんし、参禅した寺でも悟りを開けませんでした。一つ確実に言えるのは、自分の力ではどうしようもない状況に置かれながらも悩みに悩み抜いて努力をした人であるということです。「現代日本の開化」の翌年書かれた小説「行人」では、「自分に誠実でないものは、けっして他人に誠実であり得ない」と書かれていて、捜真で大切にしている「Trust in God. Be true to yourself. 」という言葉とも、何だかつながるように思えます。

漱石のタイトルの言葉は最晩年の漱石がエッセイ「点頭録」で述べたものです。漱石は生まれてきた以上は、何の理屈もなく生きなければならないとも書いています。葛藤を続けながらも、自らのタラントンを生かす大切さを私たちは漱石の作品から受け取ることができます。捜真の最高学年の人たちと漱石を再読できることは、私の喜びです。大いに悩んでください。きっと最善の道が備わっています。

礼拝メッセージ 7月10日(金)

「二度とない『今日』を精一杯生きる

中2副担任·広報委員長 醍醐 温子

こちらから讃美歌Ⅱ編186番「日ごと主イエスに」を聞くことができます

 

【聖書】マタイによる福音書6章34節
だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。

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「明日も元気でお会いしましょう!」帰りのHRでさようならの挨拶の前に必ずかける言葉です。6月から学校が再開され、副担の私が週に2回帰りのHRを担当して約1ヶ月。新型コロナが猛威を振るう前と後で、その心持ちに変化があったように思っています。
「明日も今日と同じ日常が続くとは限らない。だからその一瞬を大切に。朝、行ってらっしゃいと別れてそれっきりになってしまうんだから」東日本大震災の被害に遭われた方から聞いた言葉です。多くの方が同じようにおっしゃいます。この言葉を聞くたびに、いつも「そうだった。一瞬一瞬を大切にしよう」と強く思います。忘れることはないものの、その思いが少し薄れてしまうことは今までに何度もありました。今回、新型コロナのパンデミックによって、その思いをより一層強くすることになりました。

大きな災害があろうとなかろうと感染症が世界中を動揺させようとさせなかろうと、明日の保証はないのですが、つい明日もあさってもその次も今日と同じ一日があるように思ってしまいます。私は今まで、今日の聖句を「あれやこれやと思い悩むのはやめなさい。私達には分かりもしない先のことまで思い悩んでも仕方がない。必要なものは神様がすべて備えてくださるのだから、すべてを神様に委ねなさい」とだけ理解していました。しかし、特にコロナ休校の間に、この聖句の捉え方が変わってきました。「今日という日を、丁寧に誠実に全力投球して生きることが大切なことだ」と教えられているのだと今さらながら思うのです。私たちが生きられるのは「今日」という日の「今」という瞬間だけです。たとえ1秒でも過去や未来を生きることはできません。明日のことを思い悩むということは、神様が私たちのために必要と備えてくださった「今日」を大切にしていないということなのだと思うのです。私たちは明日に持ち越したことは、明日になればまたその翌日に簡単に先延ばししてしまいます。神様から与えられた「今日」という特別な一日を神様の御前に真剣に全力を傾けて生きることをしなければ、明日もあさってもどんどん先送りし、結局神様の御前に真剣に全力を傾けて生きるチャンスを失ってしまいます。

朝のHR(午後登校の人は昼ですが)で、毎日健康調査票を確認するのが私の担当です。必ず一人ひとりの顔を見て、どんなことでも一言は声をかけることにしています。一人ひとりとの「今日」の出会いを大切にしなければならないと思ったことと,健康調査を確認することは、神様がくださった大切な役割、使命なのだと思い、ただ機械的にチェックするような仕事にしてしまったら、せっかく神様がくださった一番良いものを無駄にすることになってしまうと思ったからです。以前ならここまで強く意識しなかっただろうなと思うとこれは私の中では大きな変化です。健康調査票を確認することがいつまで続くのか分かりませんが、確認することがなくなっても、神様を信頼し、すべてを神様に委ね、二度とない「今日」を精一杯生きようと思います。それが「今日」の延長線上にある「明日」への最善の備えになるのだと思います。その思いを胸にこれからも「さようなら」の前に「明日も元気でお会いしましょう」と心を込めて声をかけたいと思います。
皆さんにも、神様から与えられた「今日」という特別な一日を真剣に全力を傾けて生きて欲しいと思います。

学校が再開してもできるSDGs 捜真SDGs実行会アピール第7弾

こんにちは、捜真SDGs実行会です!

さて、学校も再開し、少しずつ忙しくなってきましたが 、今回はそんな中でも考えて行動できるSDGsを紹介します!

【第7弾】
①節電をしよう!
7月になり、だんだん気温が上がってきました。エアコンの温度を下げすぎていませんか?夏場は、室内の温度が約28℃になるように、温度調節をしましょう。
タイマー機能などを使って、エアコンをつけている時間を決めるのも良いかもしれません。
また、電気をこまめに消したり、コンセントを抜くことにも気をつけましょう。

②自然にやさしい商品を選択しよう!
世の中には、紙や木材を使った商品が多くありますが、その多くは使い捨てになってしまいます。もちろん、中には繰り返し使えるものや、リサイクルできるものもありますので、それらを買うことは自然環境を守るのにとても大切なことです。
しかし、衛生面や便利さを考えると、使い捨ての商品を全く買わないということは、少し難しいと思います。
そこで今回は、自然を大切にしながら商品を生産する、FSCマークを紹介します。
これは、適切に管理された資源を使用して生産することを示しています。紙パックのジュースなどについているので、商品を選ぶときに少し気にしてみるといいと思います。

みなさんでSDGsを意識して、健康でより良い生活をおくりましょう。

【第7弾の目標ゴール】

礼拝メッセージ 7月9日(木)

おおきな声で笑いあいたい」

高一副担任·生活指導委員長 森川 亮

こちらから讃美歌270番「信仰こそ」を聞くことができます

【聖書】ヨハネ第1章 1節

はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。言のうちに命があった。

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マスクを身に着けるのが当たり前の時代になりました。つい半年前は生徒に「黒いマスクはやめなさい」という指導をするかしないかで悩んでいたのが嘘みたいなほど、黒マスクは日常のものとなりました。マスクを取ることが出来ない人を奇異な目で見る時代から、マスクをしていない人に対して軽蔑のまなざしを送る時代に変わった。私はコロナによって時代が変わったことの象徴として「マスク」を一番にあげたいです。

娘の家庭科の宿題はマスク作りでした。学校から型紙と作り方が配信されました。手芸が得意な私の母に手伝ってもらいながら、着古したパジャマをマスクに再生しました。パジャマの生地は柔らかく、形を変えて時を越えて日常で活躍できるのを見るのはなんともうれしいことでした。母はこの型紙で作る布マスク制作にはまりました。自粛要請中だったこともあり、たくさんのマスクを作りました。屋根裏にしまってあった、私と妹が幼稚園のときに使ったハンカチはマスクに生まれ変わりました。山本先生にさし上げたサンリオのマスクは母の作った物です。山本先生が着けているのを見るたびに私は嬉しく感じます。

私のマスクも母に特注したものでした。バックトゥザフューチャーという映画を見て憧れたカルバンクラインのトランクス。20年以上前に買い、捨てられずにいたものをマスクにしました。ロゴは切り取り、きちんと付け直すよう徹底してデザインを作りこみました。2か月間愛用したマスクをついに先日落としてしましました。今は次に何を作ってもらおうか考えています。

総合の授業の中でインタビューの技術を学びました。会話をするときには、「相手の目を見る」「笑顔で」そして「言葉には含まれない何かが表情に浮かぶ、それを掴まえる」と。私はマスクをつけることが好きではありません。マスクは会話を一層難しいものにしている気がします。さらに話をしていることも今は悪いことをしているように感じるのです。人は会話する中で自らの考えを宣べ、整理し、人との違いを知り知識を深めます。そして人との関係を深め自分と他者と世界のあり方を深めていきます。おおきな声で笑いあいたい、相手のちょっとした表情の変化を読みながら会話したい。コロナ前には戻らないといいますが、せめてここだけはもとの世界に戻ってほしいと思います。