この度、コロナ禍においても子どもたちの学びに向かう力を育むた
捜真女学校からは6組が出場し、1022組の応募の中から36組に絞られた第一次選考に、高一の3組が進みました。10組に絞られる第二次選考には1名が進み、12月19日に決勝が行われました。
当日のプレゼンテーションでは、「電車、バスの中で、学生でも、
この結果を受け、この生徒は京急電鉄にこの企画を提案しました。この座席の実現に向けて動き出しています。
この度、コロナ禍においても子どもたちの学びに向かう力を育むた
捜真女学校からは6組が出場し、1022組の応募の中から36組に絞られた第一次選考に、高一の3組が進みました。10組に絞られる第二次選考には1名が進み、12月19日に決勝が行われました。
当日のプレゼンテーションでは、「電車、バスの中で、学生でも、
この結果を受け、この生徒は京急電鉄にこの企画を提案しました。この座席の実現に向けて動き出しています。
この度、本校では今節の新型コロナウイルスのさらなる感染拡大を受け、2021年度中学部入試の面接をすべて中止とすることを決定いたしました。筆記試験及び対話学力試験につきましては、募集要項の通り行う予定です。
受験をお考えの皆様には、入試直前の決定となりましたことをお詫び申し上げます。
○詳しくはこちらをご覧ください。2021年度中学部入試 面接の中止について
○募集要項·出願ページはこちらです。
頭の中の小さな声
宗教主任 藤本 忍
【聖書】ルカによる福音書10章30節~37節
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
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ある日、何となくYouTubeを開いていたら、「あなたにおススメ」という表示が目に入りました。「私の何を知っていて、そんなことを言うのだろう」と思いながらも、少し気になってポチっと「おススメ」を押してしまいました。すると、MIT(マサテューセッツ工科大学)の卒業式でした。大成功を収めた卒業生が母校に招かれて、祝辞を述べていました。英語の勉強にもなると思って少し聞いてみました。
「幸な人と言うのは成功を収めた人のことを言うのではなく、自分の挑戦を攻略している人のことを言うのだと思う。果敢に未知のものに挑んでいる人のことだ。それはまるでテニスボールを追いかける犬のようだ。リードを外された犬は、なりふり構わず無我夢中でテニスボールを追いかける。しかし、人間にとって厄介なのは自分のテニスボールが何なのか、わかりにくいということだ。」とりあえず聞こうと思っていた私でしたが、スピーチ中盤には彼の言葉に引き込まれていました。「何かに挑んだ時、準備万端だったということは一度もなかった。いつも何かが不足していた。しかし、それでも前に進まなければならなかったし、始めなければならなかった。」「人生でたった一回、正しければそれでいいのではないか。本当に正しかったその一回は、頭の中の小さな声に従ったときだった。消そうと思っても消えない小さな声、消えたと思っても再び浮かび上がってくる声、これが一番正しかった。そしてそれが僕のテニスボールだった。」
素晴らしいスピーチでした。ポチって押して本当に良かったと思いました。かき消しても打ち消しても何度でも浮かび上がっている声、自分にとってのテニスボール、皆さんにはありますか。先日の修養会でお話してくださった高一の講師の先生も、同じことを仰っていたのを思い出しました。「気になって気になって仕方のないこと、それがあなたのやるべきこと、使命なのかもしれない」と。
10月に入ったある日の日曜日、礼拝を終えた教会にインターホンが響きました。出て行くと小学校中学年位の女の子が二人いました。一人は自転車にまたがり、もう一人は素足で靴も履かずにいました。10月だと言うのに二人とも半袖半ズボンで、顔や腕が少し汚れていました。私が「こんにちは」と言うと、「ね~、ね~、子ども食堂はいつからやるの?」と聞かれました。「まだやらないの?コロナだから?」2月に中止にしたまま再開の目処が立っていなかったので、「再開する時は必ずこの掲示板でお知らせをするから、必ずここを見てくれる?」と言いました。「わかった。でも漢字は使わないでね。読めないから。」と女の子。「うん、わかった。漢字は使わないね。」と私。「ね、靴はないの?」ともう一人の女の子に聞くと「あるよ」と自転車の籠の中にある大人のサンダルを指差しました。「これは靴じゃないじゃない」と私が言うと「これが好きなの。これがいいの。」と返事が返って来ました。その子達とさよならした後、なぜか涙が溢れて来て止まりませんでした。泣き顔になる自分を必死に誤魔化しました。教会の主任牧師やメンバー達が「誰だったの?」と聞くので、「子ども食堂に来ていた子ども達です。」と伝えました。以来、私の頭の中の小さな声はこの「ね~、ね~、子ども食堂はいつからやるの」になっていきました。
それから2週間後の日曜日、教会でメッセージを聞いていたら、ある声が頭の中で響いてきました。それは「子ども食堂を再開しなさい。」という声でした。もしかしたら神様の声なのかもしれないと思いました。私は子ども食堂の責任者でもなければ、スタッフでもないのに。不思議でしたが、教会で子ども食堂に関わっている2人のご婦人に、そのまま話をしました。彼女達は直ぐにスタッフミーティングを開いて、12月15日には子ども食堂を再開することを決定してくれました。しかし、それから1ヶ月後の12月6日の日曜日、コロナ第三波を懸念して、再開は難しいと判断。中止が決まりました。束の間の糠喜びになってしまいました。いつになったら掲示板に再開の日を掲示できるのか。子ども食堂のスタッフ達は、一緒にご飯は食べられなくても、せめて食べる物は届けたいと、教会の前で月一回、缶詰やペットボトルの飲み物、個包装のお菓子などを無償で配ってくれています。そして、そのような中、捜真のKDM(Kids Dream More)の生徒達が献金を募って、クリスマスプレゼントを届けてくれるという知らせが聞こえてきました。大きな喜びです。こういう時だからこそ、人の優しさが心に沁みます。
今日お読みした聖書箇所にはサマリア人を突き動かす動機として「憐れに思う」という言葉が使われています。原語では「五臓六腑が引きちぎられるほど痛い」という意味です。相手の痛みが瞬時に伝わってきて、思わず動いてしまう、そういう衝動的な行動の根拠を表す動詞です。私の頭の中の声、そして私のテニスボールは、私の五臓六腑を締めつけたあの女の子の一言です。「ね~、ね~、子ども食堂はいつやるの?」神様からのクリスマスプレゼントとだと思い、私はこの言葉を犬のように追い駈けていきます。
お祈りします。
神様、本当に助けが必要な人達の所に、あなたの救いが届きますように。
その為に私達を用いて下さいますように。
(12月9日(水)全校放送礼拝)
学校生活や入試についての気になることを、在校生保護者に聞いてみませんか?
20分間、在校生の保護者を独り占めで、直接お話しいただけます。
ぜひ、捜真の新たな一面を知ってください。
今週土曜日、12月19日(土)
① 10:00~10:20
② 10:30~10:50
③ 11:00~11:20 の全3枠
限定9組の企画です!
予約は toiawase@nkmr8.sakura.ne.jp へ
タイトル 保護者オンライン個別
本文 ① お嬢様のお名前
② 学年
③ 保護者氏名
④ 時間枠の希望を第1~第3まで
⑤ 電話番号
*toiawase@nkmr8.sakura.ne.jp からのメールを受信できるように設定をお願いいたします。
予約が確定した方には、メールでご連絡致します。
なお、当日はZoomを使用いたします。
目に見えない大切なもの
中1生徒 A·S
【聖書】ルカによる福音書6章28節~31節
悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ちものを奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
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私はクリスマスが大好きです。「私」というより家族みんなが大好きです。すでに私は10月中旬あたりからクリスマス気分でした。ハロウィンよりクリスマス、なんならお正月よりクリスマス。どの行事と比べても、だんとつでクリスマスが好きな気がします。というわけで先日、ツリーを買い替えて、私の家には華やかなクリスマスツリーが設置されています。でも、なぜそんなにクリスマスが好きなの?ともし聞かれても、すぐに答えられる自信はありません。どこに惹かれてそんなにクリスマスが好きなのか、自分でもさっぱり分からないけれど、なんでか小さいころからずっと好きでした。
さて、クリスマスといわれて皆さんが最初に思い浮かべるものは何でしょう。私だったらサンタクロースとかプレゼントとか、そんな言葉が真っ先に浮かんできます。そのサンタクロースのことで、私は思うことがあります。
よく「サンタクロース信じている?」と聞かれることがあります。私が好きな本の一つに、『サンタクロースっているんでしょうか?』というものがあります。その本は、アメリカのニューヨーク·サン新聞という新聞社が、ある8歳の少女の質問に答えたという社説です。今から100年ほど前の実話ですが、今でも世界中の人に愛読されています。新聞社に質問を出したバージニア·オハンロンさんは友だちに「サンタクロースなんていないんだ」と言われ、新聞社に聞いてみることにしたと言っています。そして新聞社は「その友だちはまちがっています。」と答えています。
この本の中に、「この世界でいちばんたしかなこと、それは子どもの目にもおとなの目にもみえないものなのですから。」という部分があります。私はそこを読んだ時に、すごく心にのこりました。この世界は目に見えるもの、手でさわれるものであふれています。でも、その逆に誰も見たことがなく、さわったことのないサンタクロースは、一見、「人が頭の中で作り出し、想像したもの」に見えます。しかし、本当はそうではなく、目に見えない世界を覆いかくしている幕を開けようとしていないだけなのです。そしてその幕をひきのけられるのは、信頼と想像力と詩と愛とロマンスだけなのだとサン新聞社の記者は言っています。多くの人は「目に見えない大切なもの」を見ようともせず退けています。でも、たとえ生活の中で苦しいこと、辛いことなどがあっても、少しの間、そのことを忘れ、目に見えないものを想像し、信じることで悲しい気持ちがうそだったかのように晴れ渡ります。それがほんの一瞬で、すぐにつらい現実を思い出してしまったとしても、ただの一秒であっても幕の向こうを垣間見ることができたなら、それは本当に素敵なことだな、と感じます。私は目に見えないものの大切さに気付ける人でありたいです。
(今日ご紹介したのは、11月の中1クラス礼拝でのお話です。)
保護者の皆様·卒業生の皆様
お変わりなくお過ごしのことと存じます。いつもお祈りとお支えを感謝申し上げます。
さて12月22日(火)に予定しておりました「PTA·同窓会クリスマス礼拝」は、新型コロナウイルス感染防止のため中止とさせていただきます。どうぞご了承くださいませ。
まだ冬とは言えない、温かい日差しを感じます。校内ではクリスマスの飾り付けが進んでいます。今年はこんなところにも!と思うような工夫がされていて、イエス様のお誕生をお祝いする生徒のみなさんの気持ちがじんわりと伝わってきます。
今日紹介する本もクリスマスにちなんだ一冊です。
アイルランドの妖精のおはなし『クリスマスの小屋』
ルース·ソーヤー再話 福音館書店
銀座にある教文館という書店のHPに原画展のお知らせがありました。(~1/4まで)クリスマスの時期になると、特に子ども向けの絵本がないかなと探すのですが、今回紹介する本は、イエス様が登場するわけではありませんが、アイルランドに伝わる昔話の中に、イエス様の御心が隠されているように思えます。
画は、まだ30代の岸野衣里子さん。懐かしいような、ぬくもりのある絵を皆さんにもぜひ見ていただきたいです。
「夢みる力と、思いやりとーひたむきにいきる女性のねがいが、ホワイト·クリスマスにかないます」帯より
webページ「リビング横浜Web」(サンケイリビング新聞社)に捜真祭での取り組みが紹介されました。聖歌隊の公演、美術部の展示の写真とともに委員長のコメントも掲載されています。
ぜひリンク先からページをご覧ください!
10月31日と11月3日に「3S祭」が行われました。これは6月に実施することのできなかった合唱コンクール、9月に例年通りの開催ができなかった捜真祭·10月の体育祭の合同企画として行われたものです。
「3S祭」とはSing、School festival、Sportsの頭文字を取っての名称です。
在校生とそのご家族の皆様へ向けての開催となりましたが、これまで努力してきた成果を発揮する場となりました。
合唱コンクール委員会はリモート合唱動画の発表·医療従事者の方々へのメッセージの展示で参加し、捜真祭では計11のクラブの公演に加え様々な催しや展示が、体育祭では密を避けてのクロスバレーなどが行われました。
ご来場いただいたご家族の皆様、誠に有難うございました。
空気の冷たさとともに、4階からの眺めも澄みわたり、遠くまで見渡せるようになりました。
校舎の窓から、富士山がくっきりと見えるようになると、いつも校歌の一節「富士の高嶺の門辺にま白く」と、富士山が模られた校章が思い浮かびます。長い間、捜真生は富士山に見守られながら学校生活を送って来たのだと改めて感じます。
『今日すべきことを精一杯!』日野原重明 ポプラ社
捜真の初代学院長 日野綾子先生が神様の元に旅立たれた年、捜真の卒業礼拝で日野原先生がお話をしてくださいました。当時、日野先生の主治医であった日野原先生は、105歳で亡くなるまでお医者さまとしての歩みを続けていらっしゃいました。
この本は、78歳の春に出版されたものですが、新書版へのあとがきには(当時105歳)聖路加国際病院の院長、ホスピスの開設、阪神·淡路大震災、サリン、東日本大震災、IT技術と医療の課題などを経験される中で、医師として長い間、先生が「核」とされてきた思いが書かれていました。
「生と死」。誰一人として逃れることのできないこの命題に、日野原先生はどのように向きあってすごされていたのでしょうか。次の世代に伝えたいもの、しっかり読み取りましょう。
看護·医療系を考えている人は勿論、そうでない方にもおすすめします。
『QОLって何だろう 医療とケアの生命倫理』小林亜津子 筑摩書房
昨日メモリアルホールで行った《進路選択のための参考図書》の中に入れればよかったと後から思いました。
「Quality of Life」生命、生活あるいは人生の質。
副題にある「生命倫理」は、難しい言葉のようですが、実は日々の生活の中で私たちがどう生きるかを意味します。
「大切なのは、ただ生きることではなく、よく生きること」と文中にありました。誠実にできるだけ妥協せずに、一日一日を大事に生きること。簡単そうでなかなか難しいかもしれません。
でも、心の中にその思いをしまっておくだけでもいいでは。
日野原先生の本とつながるところが見えてきます。
食事に招かれる
聖書科教育実習生 高橋海帆子
【聖書】ルカによる福音書15章11節~24節
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
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休校期間を終え、数ヶ月がたった学校は、少しづつ日常生活を取り戻しているように見えます。もちろん、行事や部活などまだまだ元どおりとはいかない部分も多くありますが、学校にきて生活できる事は嬉しい事です。しかし、そんな生活の中でも昼食の時間の風景は、実習生として1週間皆さんと過ごした今でもまだ慣れません。みんなが教室にいて一緒に食事をいているのに、なるべく喋らないようにと注意をして、前を向いて動画を見て食事をしています。仕方がないことですが、なんだか寂しいように感じるのは私だけでしょうか。
こうした食事シーンはこの学校に限ったことではありません。私が普段アルバイトをしている学童保育でも、昼食やおやつの時には座席を制限し、同じ方向を向かせて、話し始めたらすぐに静かにさせています。注意を受けた子どもたちは不満そうな顔をして、つまらない、楽しくないなどと文句を言います。そんな姿を見て、私たちは食事に対して「楽しさ」や「充実感」を求めていることに気がつきました。
さて、もう一つ食事の持つ別の姿を紹介します。私は年に数回、母と喧嘩をしてしまうことがあります。1ヶ月前も母を怒らせてしまい、しばらく口を聞かない日が続きました。正直それで何か困ることはなく、普段通りの生活を続けます。そのうち用事があって話したり、私の方から謝ったり、何かしらのきっかけで仲直りをします。そんな中で、我が家での仲直り定番パターンが、食事に呼ばれることです。家の中で誰か喧嘩をしている人がいると、その人だけ勝手に自炊を始めて、家族が集まって食事をしていても、そこには現れなくなります。そんな生活が続くと、母が痺れを切らしてご飯だから食べましょう。そう声をかけてくれます。
今日読んだ聖書にも宴会が開かれる様子が描かれています。皆さんも知っている人が多い「放蕩息子のたとえ」です。父からもらった財産を使い果たし、ボロボロの状態で帰ってきた息子を、父親は抱きしめて着替えさせ、食事の席へと招きます。この息子は家を出る前に、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言って、本来なら父親が亡くなってから貰うはずのお金を受け取ります。父親はまだ元気に生きているのに、です。家族とのつながりを自ら切って、お金を選んで旅へ出かけてしまいました。そして、旅先で飢えて帰ってくるときには「もう息子と呼ばれる資格はありません」という謝罪の言葉を用意して、雇い人として住まわせてもらおうと考えていました。あんなことをした自分もう家族として受け入れられるはずなどないと考えていたからです。そんな予想は裏切られて、彼のために宴会が開かれました。この食事の席についた時、彼は本当に赦されて、家族として受け入れられたことを感じたのではないかと思います。ほかの雇い人たちとは違う、同じ食卓につき、同じ食べ物を一緒に食べることができる。食事は親しい交わりのうちにいる象徴ともいえるかもしれません。
今日みなさんと一緒に読むことはできませんが、聖書の中には他にも食事のシーンがよく出てきます。「放蕩息子のたとえ」を通して、神様が家出した人を赦し招かれる方であることを伝えたイエスもまた、多くの人々を食事に招かれる方でした。中でも、罪人とされていたような人と共に食事をする姿は印象的です。マルコによる福音書では、徴税人や罪人とされていた人と共に食事をするイエスの姿が描かれています。当時、そうした人と同じ席につくのはありえないことだったので、周りの人は驚いたり、怒ったりしていました。そのような他の人からは除け者にされていたような人や今はまだ神様との交わりの中にいない人まで、「ついてきなさい」と言って食事に誘ってくださるのが聖書の語る神様の姿です。
コロナウイルスのために、これまで通り食事を楽しむことのできない今、私たちは改めてその大切さを知ることができます。冒頭でお話したように、食事は単に栄養をとるための時間だけではありません。友達や親しい人に食事に誘われた時のことや、美味しいご飯を食べながら楽しく話をしていた時のことを少し考えてみてください。そのような楽しい時に、神様はいつも私たちを招いてくださっています。食事に招かれる時、私たちは神様との親しい交わりの中に加えられます。その招きに応える者でありたいと思います。
(11月4日 中3·高一放送礼拝)
11月12日(木)放課後、メモリアルホールにて、移動図書館を開催しました。今までも、各学年の談話コーナーで小説や趣味の本などの貸出を行ってきましたが、今回は《進路選択のための参考図書》を準備しました。
2学期は毎週木曜日に4回、違うテーマで貸出をします。
今日のテーマは「看護·医療系」。捜真の生徒は看護系に進学する人が少なくないので、参考図書と大学案内、看護協会や大学講義のダイジェスト版動画などを紹介しました。
短い時間でしたが、中3から高二の生徒が興味のある本を借りたり、居合わせた教員に自分の将来についての夢を語ったり、普段の図書館ではお目にかかれないような、和やかな、そして有意義なおしゃべりの会となりました。
地域医療や小児医療、リハビリに特化した本も読んでみたいとリクエストもあり、積極的に自分の引き出しを増やしていってくれたらと思います。
今後は、心理系·国際系·情報系と予定していますが、経済·経営·金融·法律·栄養などの希望もあったので、3学期も引き続き、計画をしていきます。
貸出のあった図書
『話を聞かない医師』『医者をめざす君へ』『大学入試小論文の完全ネタ本医歯薬/看護·医療系』
『まるまる使える医療看護系小論文』『看護系で役立つ生物の基礎』『プチナース』『石巻赤十字病院の100日間』『わたしはいのちの守人』『はじめて学ぶ生命倫理』『国境なき助産師が行く』
『聖路加病院訪問看護科』『看護師という生き方』『14歳からわかる生命倫理』『安楽死と尊厳死』『いのちの選択』『どこからが心の病ですか?』『どこからが病気なの?』『病院というヘンテコな場所が教えてくれたコト』他
人生に開く穴
中1担任 新井昂太
【聖書】創世記37章18節~24節
兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、 相談した。「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から助け出そうとして、言った。「命まで取るのはよそう。」ルベンは続けて言った。「血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない。」ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである。ヨセフがやって来ると、兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった。
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今日の聖書箇所は、兄たちに裏切られ穴に投げ入れられたヨセフという人物の物語です。穴に投げ入れられたヨセフの物語にちなんで、「穴」をキーワードにお話をします。
皆さん、手でOKサインを、つまり親指と人差し指で穴を作ってみましょう。その穴を2㎜くらいまですぼめ、目にあててみてください。
私は皆さんと同じ中学生の時期、いや、小学校高学年から高校2年生の間くらいまで、しばしば教室でそのように手に小さな穴を作ってものを見ていました。と言うのも、このようにすると遠くのものが少しだけ、ほんの少しだけですがよく見えるのです。(目を細めるのと同じ原理です。)私は随分目が悪く、そして目が悪いにも関わらず特に意味のないこだわりで眼鏡もコンタクトも頑として拒否していました。視力検査をすれば、あのCのような記号の一番上も全く見えませんでした。一度は眼科医の方があのCを紙に写したものを持って近づいてきて、それでも1~2mくらいまで来てようやく見えたかどうか…というような私の様子をその眼科に来ていた方々に見つめられていたこともありました。
このようなお話をすると必ず、「私は目がいいのだけど、目が悪いってどういう感じ?」と聞かれます。目が悪い人の「世界」の説明は中々難しく、私も困ってしまうのですが、少なくとも目が悪い私だけが見えている(目が良い人には見えない)「世界」があるのだなと思ったりもしています。
話は変わります。私は学生の時、プールの時間、特に学年の始めのプールの時間をなんとなく憂鬱に感じていました。理由は2つあります。1つ目は単純に泳げないことです。私は全く泳げず、ましてや小学生の頃には水は恐怖の対象でした。怖いし、呼吸は苦しいし…プール嫌だなあ…ということです。理由はもう一つあります。それは私の病気です(病気、と言い切るほど重いものではないのですが)。私は「ろうと胸」と言って胸のあたりに大きなへこみ(穴)があります。だいたい3cmくらいの穴でしょうか。「デリカシー」という概念などまったくない小学生男子ですから、プール開きのたびに「ど、どうしたの!?それ!?」であるとか、「心臓どこいったの??」という言葉が飛んできました。真面目に答えるのも何だし、答えないのも何だし…ということで私は必殺技を編み出しました。それは、驚いて突っ込んでくる友人に対し、それ以上の勢いで「すごいだろ!!」と根拠のない自慢をすることでした。小学生男子とは面白いもので「すごいだろ!!」と言うと、だいたい皆「すげえ!かっこいい!」とか、「選ばれしものだ…!」とか不思議なリアクションをしてくれました。
さて、今日の「穴」をテーマにしたお話は先日中学1年生でPEPTALKを聞いていた時にきっかけを得たものです。そこでは先ほども出た視力検査の「C」のマーク(「ランドルト環」というそうです。)を見ました。PEPTALKの主旨としては、「穴を見るのではない、円ができていることを見ましょう。」という話だったかと思います。でもその時私は別のことを思い起こしていました。それは私が通っている教会の先生が言った次のような言葉です。「キリスト教は人生に開いた穴を埋めるものではない。開いてしまった穴から、人生を見るためのものだ。」
今日話している「穴」とは、「傷」とか「影」とか言い換えられるものだと思います。
さらに具体的にするならば、「上手くいかない人間関係」とか、「どうしても好きになれない自分のところ」とか、「与えられないもの」、「失われた大切なもの」、「苦しい病」などとなるでしょうか。
穴のない人生はありません。誰もが、皆さんのどのような人生においても、上手くいかないこと、悲しみに打ちひしがれてしまうことが起こるはずです。その時には、これから起こる全てのことが、苦しく悲しむべきもののように思えてしまうこともあります。人生の全てが悲しみであるように、人生は暗闇であるように見えることもあると思います。
そんな時、穴から見える世界に意味を見出してくれるのがキリスト教という存在、キリスト教の愛なのだと思います。
私の人生にも穴があります。欠点があり、手に入らなかったものがあり、失われたものがあります。でも、だからこそ見える世界があるのだと感じます。
真っ暗闇の穴の中で、一筋の光を見ようとする人間でいたいと思います。
(11月10日 中1、中2チャペル礼拝)
11月7日中学部学校説明会には127組のご家族にご来校いただくことができました。ご来校の皆様、ありがとうございました。今回はボランティアステューデントが企画·運営を担当し、捜真の学校生活についてお伝えいたしましたが、いかがでしたでしょうか。
お預かりしたアンケートに、募集要項、授業の様子についてのご質問がありました。説明会当日にお配りした資料に、募集要項説明動画、授業紹介動画をご覧いただくためのQRコードを掲載しておりますので、ぜひご活用ください。
当日の礼拝でのお話をご紹介します。
【聖書】サムエル記上16章7節
しかし主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によってみる。」
ペトロの手紙一4章10節
あなた方はそれぞれ賜物を授かっているのですから神の様々な恵みの善い管理者としてその賜物を生かしてたがいに仕えなさい。
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顔が白い。ぱっちりとした大きい目で、並行二重。鼻は高く、鼻先はツンとしている。貧弱に見えない程度の小顔とスタイル。髪の毛はつやつやしていてまとまりがある。
かわいい人の定義とはこのようなものでしょうか。
誰かが決めたわけでもなければ、そもそも「可愛い」に定義などないのに、いつの間にか自分が思う『可愛い人』はこのような定義になっていて、束縛するように自分を支配するようになっていました。自分に埋め込まれた可愛い人の定義が私を襲ってきます。この定義によって作り上げられた理想像を追い求めるあまり、本来の自分が壊されていると思うこともあります。
人は一日に何回鏡を見るのでしょうか。私は何回顔を分析するのでしょうか。
鏡を見るたび、顔の分析を始める私はこう思います。どうして、なぜ、もっとこうだったら良かったのに、と。
まるで壊れかけた携帯電話を見ているようです。あともう少し使えるかもしれないという希望と使えなくなるかもしれないとあきらめる失望。顔の分析でも同じことが起こります。
大人になり、メイクをすればコンプレックスは隠せるかもしれません、けれどもメイクをしたり、努力を重ねても隠せないコンプレックスだってあります。
右目は切れ長な目で奥二重、目頭側の上まぶたが重いことによって目つきが悪く見えます。それに比べ左目は丸く、目頭から目じりにかけて広くなっていく幅狭並行二重で右目よりも大きい。
よって、人から見た私の顔は目の大きさが異なって見えるという訳です。輪郭だって非対称、最大のコンプレックスは鼻で、低く、つぶれています。
ここで頭に浮かぶのはいつだって妹です。幼い頃からヨーロッパやロシア系のハーフと尋ねられるほど鼻は高く、全体的に見ても整っています。
こうして比べてしまう自分や、みんなが思う一般的なかわいい人を目指す自分が嫌いです。これもまたかわいい人の定義による支配であり、本来はこう生きるべきではないと思います。
昨年捜真で2週間ほど一緒に過ごしたオーストラリア人のお友達がいます。そのお友達に可愛い人の定義についていくつか質問してみました。
まず、かわいい人ってどんな人?と聞いてみるとオーストラリアの女の子は、背が高く、髪の毛が長く、日焼けをした肌、青い目をかわいいと思っている。と、返ってきました。
日本人は白い肌を目指すのに対し、オーストラリア人は日焼けをしている肌を好む。
オーストラリアはアジア系のオーストラリア人もいれば、ヨーロッパ系のオーストラリア人もいる多民族国家ですが、日本と同じように肌の色もかわいい人の定義に組み込まれてしまっていることを知りました。
続いて、体型ついて質問してみました。
日本の女の子はみんなダイエットをしている。それはかわいい人の定義に、瘦せている、という項目が入ってしまっているからだと思う。私はそう生きるべきではないと思うけれどオーストラリアではどういった考え方なのか教えてほしい。アドバイスがあればアドバイスもお願い。と送りました。すると彼女からきた文章にはこうありました。私もあなたと同じで、体型で決まるものではないと思う。しかし、日本のようにオーストラリアでも多くの女の子が体重を減らすためにダイエットをしているひとが多い。また、自分の見た目に自信が持てないために多くの精神的な問題を引き起こす可能性がある。そして、自分が誰であるのか、どのように見えるかを誇らしく思い、誰かにどう言われようと今の自分は美しいとおもうべきであると思う。大事なのは、自分に正直であること、他人に親切であることだと思うとアドバイスしてくれました。
〚この服可愛いけれど、私には似合わない。』という親友に対して、先程のオーストラリアのお友達のアドバイスを聞いてほしいと思います。
おそらく彼女はこの服は細い人が着るのであって私なんかが着ても見苦しいだけだ、なんて思ったのでしょう。それに彼女はよくこう言います。〚着ることができなかったときショックを受けるから』と。
オーストラリアのお友達が、自分が誰であるのか、どのように見えるかを誇らしく思い、今の自分は美しいと思うべきである。とアドバイスしてくれたように、
私は彼女に、あなたが好きと思った服を着てほしい。私にとってあなたは生きてくれているだけで愛おしく、かわいい存在であると毎日思っているから。と伝えたいです。
そして、私は彼女だけでなく、世界中の女の子一人一人が可愛い存在だと感じることができる世界を創りたいです。
アパレルショップのマネキンだって白く、細いマネキンである必要なんてないし、かわいい人が万人受けし、商売が成り立つ世界なんておかしいと思います。そう思うのは私だけなのでしょうか。こんなことを発信すれば自己中心的な考え方だ、とか、実現不可能だと批判されるかもしれません。でもそう思われたっていい、自分は自分らしく生きたい、そう思います。
今日お読みした聖書箇所のように、容姿や背の高さに目を向けるのではなく、神様から与えられた良い賜物を生かして、生きる。
目に映るものを見がちな私たちですが、主が心によって見るように、
自分の気持ちを大切にし、一つ一つ、真面目に、一生懸命生きる。
自分なりの美しいを見つけ、人にも、自分にも,うそをつかずにいたい。
押しつぶされてしまいそうな悩める人に寄り添って、そのような人のためにも。自分が生きやすい世界を創るためにも。〚可愛い人の定義』なんて壊したいと思います。
【お祈り】天にいらっしゃいます父なる神様。今日こうして学校説明会でお話をする機会を与えられ、礼拝を皆様とともにささげられたことに感謝しています。
わたしたちは容姿のことだけでなく、学力においても常に人と比べてしまいますが、存在そのものが大切であることを私たちが忘れずにいられますようにどうかお守りください。
今日この場に集められた受験生、一人一人の上に最善の道が備えられますように。大変な状況の中ですが惑わされず、神様のみこえを信じることができますように。このお祈りをイェス様のみなによってみまえにおささげ致します。
中庭の花壇の花が、ベコニアからパンジーに植え替えられています。
天気の良い日は、外の空気が心地よく散歩に出かけたくなりますが、朝は布団からでるのが少し億劫になってきました。
窓辺に椅子を持っていって、ゆっくり本を読んでみてはいかがですか。
『みつきの雪』 眞島めいり 講談社
とてもすてきな表紙の絵です。そして、裏表紙も。
雪の中、ダッフルコートにマフラーをぐるぐる巻きにして長靴でたたずんでいる女子と男子の高校生。帯には「終わるんだ、もう。春が来るから。」と意味深なせりふが。
きれいな言葉が読み手を温かく迎えてくれます。近くで、流行りのJ‐POPが静かに流れているような気がします。小学生から高校卒業にむけての時間を一緒に過ごし、お互いのありのままの姿を受け止めるそれぞれの軌跡が書かれています。
青春真っただ中?女子校育ちのみなさんに、ぜひ読んでいただきたい一冊です。
ポジティブかネガティブか
中1担任 杉山知子
【聖書】ローマの信徒への手紙2章16節
そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト·イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。
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あなたはどちらかといえばポジティヴな人ですか?それともネガティヴな人ですか?
プラス思考の持ち主ですか?それともマイナス思考の持ち主ですか?
ネガティヴとかマイナス思考とかいうと、どうしても良くないイメージをもつのではないでしょうか。少なくともほめ言葉としてはあまり使われませんよね。
今年の大相撲秋場所で優勝し、大関に昇進した正代という力士は、今年のはじめまで「ネガティヴ力士」と呼ばれていたそうです。きっかけは、5年前に新十両に昇進したとき、今後対戦してみたい関取は?と聞かれて「できればみんな当たりたくない」と答えたことらしいです。ネガティヴというより、正直な気持ちを口にしただけにも聞こえますけどね。その後、関脇にスピード出世したもののすぐに落ちて、3年ほど足踏みをし、このたび大関昇進を果たしたわけですが、マイナス思考だったけれども精神面で成長した、というような報道を目にしました。ネガティヴだったが変わった、プラス思考に変わったから成長した、というのは、きっとだれもが納得するストーリーなのでしょう。変わらないと成長できない、という思い込みもあるように感じます。
ところが、あるインタビュー記事を読むと、本人は別に何も変わっていないと答えています。自分についてまわっていたネガティヴという代名詞も、「あれでよかったと思います。知名度も上がりましたから。」とポジティヴに言ったという記事に、思わず笑ってしまいました。彼はたぶん、みんなを納得させたり成長物語で感動させたりすることには興味がなく、自然体で正直な人なのだろうなあと思いました。
もう一人、ネガティヴで有名な人を紹介します。ある朝、目覚めると巨大な芋虫になっていた男を描いた『変身』などで有名な作家、フランツ·カフカです。たとえばこんな言葉があります。
「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
将来にむかってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。」
あまりにもネガティヴで、かえって笑えませんか?ふざけているのかと思ってしまうほどですよね。でも、本人は本気らしいです。
こんなのもあります。
「すべておしまいのように見えるときでも、まだまだ新しい力が湧き出てくる。
それこそ、おまえが生きている証しなのだ。」
ここまでは前向きですね。DREAMS COME TRUEの『何度でも』に出てくる、「1万回ダメでも1万1回目は何か変わるかもしれない」と似ていますよね。しかし、カフカには続きがあるのです。
「もし、そういう力が湧いてこないなら、そのときはすべておしまいだ。もうこれまで。」
私は、このようなカフカのネガティヴな言葉がつまった本、その名も「絶望名人カフカの人生論」という本を読んであまりにおもしろかったので、さっそく図書館でカフカの作品集を借りました。『変身』はもちろんのこと、どれもこれもとんでもなく悲惨なお話なのですが、悲惨すぎて笑える描写もあり、読み終わると深く心が揺さぶられるのです。さすが、20世紀最大の作家と言われているだけあります。
さて、文学作品はそれぞれご自身で味わってほしいので、先ほどの「絶望名人カフカの人生論」からもう少し引用します。この本の編訳者である頭木弘樹さんは、次のようにカフカを紹介しています。
「彼は何事にも成功しません。失敗から何も学ばず、常に失敗し続けます。
彼は生きている間、作家としては認められず、普通のサラリーマンでした。
そのサラリーマンとしての仕事がイヤで仕方ありませんでした。でも、生活のために
辞められませんでした。
結婚したいと強く願いながら、生涯独身でした。
身体が虚弱で、胃が弱く、不眠症でした。
家族と仲が悪く、とくに父親のせいで、自分が歪んでしまったと感じていました。
彼の書いた長編小説はすべて途中で行き詰まり、未完です。
死ぬまで、ついに満足できる作品を書くことができず、すべて焼却するようにという
遺言を残しました。」
なんだかミもフタもない感じですよね。実際には、カフカの遺言を守ったのは最後の恋人だけで、それ以外の周囲の人々のおかげで作品が残り、日常生活の愚痴でいっぱいのノートや日記や手紙がたくさん残りました。恨んでいた父へ36歳のときに書いた手紙は、タイプ原稿で45ページもあったそうです。「いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」とは、なんと、結婚を申し込んでいた当時の恋人への手紙なのです。何しろ結婚したいと強く願っていたのですから。熱烈に愛し、毎日手紙を書きました。のちに婚約しますが、カフカは不安のあまり自分から婚約破棄し、また婚約し、またまた破棄したそうです。さらに、婚約者の父親あての手紙には、なぜ勤めを辞めて文学で身を立てようとしないのか、その説明として、「ぼくにはそういう能力がありません。おそらく、ぼくはこの勤めでダメになっていくでしょう。それも急速にダメになっていくでしょう。」と書いたそうです。婚約者は結局父親に渡さなかったらしいです。そんな手紙、渡せないですよね。
こんなに自分に対して否定的で、身の回りの愚痴ばかり言っている人間が、なぜ偉大な作家になれたのか。カフカはノートにこのような言葉を書きつけています。
「ぼくは自分の弱さによって、ぼくの時代のネガティヴな面を掘り起こしてきた。
現代はぼくに非常に近い。だから、ぼくは時代を代表する権利を持っている。
ポジティヴなものは、ほんのわずかでさえ身につけなかった。
ネガティヴなものも、ポジティヴと紙一重の、底の浅いものは身につけなかった。
どんな宗教によっても救われることはなかった。」
私はこの言葉を読んで、本人はどんな宗教によっても救われなかったと言っているけれど、徹底的に自分がマイナスになることで、神さまの恵みが注ぎ込んでいるように感じました。自分の力だけでなんとかしようと思ったり、自分が自分がと出っ張って、それをプラス思考だとカン違いしていると、神さまの恵みが注ぎ込みにくくなることって、あると思いませんか?カフカはこうも書いています。
「ぼくの弱さ···もっともこういう観点からすれば、じつは巨大な力なのだが···」
カフカ本人は意識していなかったかもしれませんが、これって聖書のみことばそのものです。コリントの信徒への手紙二 12章9, 10節にこうあります。
「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
まさに、カフカの弱さの中で力が発揮されて、その作品や言葉が私たちに働きかけているのだと思います。
最後に、神さまの恵みがたっぷり注ぎ込んだネガティヴな人として、マザーテレサをあげておきます。インドで貧しい人々に寄り添った、あのマザーテレサです。ユーモアがあって明るい人だったと言われています。どうしてそこまで人々に尽くせるのかと聞かれて「私は何もしていません。イエスさまがすべてなさっているのです」と答えたことは有名です。やさしく、愛にあふれた、このうえもなくポジティヴなイメージですよね。
ところが、バチカンの指導者や親しい神父様に送った手紙の中で、マザーテレサは「私の中に信仰はない」「私の心の底にはむなしさと闇しか見当たらない」「私はたった一人」と、数十年にわたって繰り返し書いているのです。「来て、わたしの光となりなさい」との召しを受け、何年も熱意をもって願い続けたのちに始めた活動でしたが、インドのスラムの想像を絶する悲惨な現実に、神さまの存在さえ疑ってしまうくらい、信仰をはぎ取られるような日々だったようです。「私は何もしていません。イエスさまがすべてなさっているのです」というのは謙遜でもなんでもなくて、苦しみの中から出た切実な本音だったのかもしれません。空っぽになったマザーテレサの中に聖霊がたっぷり注ぎ込んで、彼女を最大限に用いたのでしょう。
結局、人間から見てポジティヴかネガティヴかは関係ない気がします。はじめにお読みした聖書にあったとおり、神さまは人々の隠れた事柄をすべてご存じです。神さまが創られたそのままの姿で、ネガティヴに落ち込みたいときは落ち込み、ポジティヴにがんばりたいときはがんばる、それでよいのではないでしょうか。悲しみを知っている人は泣いている人に寄り添えるし、元気な人は喜んでいる人と共に喜ぶことができます。讃美歌第Ⅱ編1番4節の歌詞にあった「わが力の限り」とは、強い人もひ弱な人も、その人その人の力に応じて精一杯生きるということではないでしょうか。そのままの私たちを、神さまは用いてくださるのです。
どんなに元気に見えても、悩みや苦しみが全くない人はいないと思います。
神の御子であるイエスさまでさえ、「この杯を取りのけてください」と祈り、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と苦しみもだえました。それでも神の御心にしたがって十字架で死なれ、神さまが私たちをどんなに愛していてくださるかを示してくださいました。あらゆる苦しみをわかってくださる方、私たちを決して見捨てない方と共に歩む人生について、礼拝において、また来週の全校修養会において、一人一人が考えられますように。祈祷会を担当する生徒たちが力を与えられ、たくさんの生徒が祈りを共にして備えることができるよう、心から願います。
(11月5日中1中2放送礼拝)