投稿者「soshin」のアーカイブ

受験生の皆様へ「オンライン合同説明会」ご覧ください

私立中学校「オンライン合同説明会」(中受ラジオ)に捜真女学校も参加しています。

合同説明会や各学校での説明会が行えない中、多くの学校の情報をご覧いただけるサイトです。サイトに登録していただくことで、捜真の教育や生活、部活動などを詳しくお読みいただけます。ぜひご覧ください。

こちらから「中受ラジオ」のサイトをご覧になれます

礼拝メッセージ 9月3日

「生きている言葉」

                         高二副担任 山村杏菜

 

こちらから讃美歌461番「主われを愛す」を聞くことができます

 

John 15:1-8
‘ I am the true vine, and my father is the gardener. He cuts off every branch in me that bears no fruit, while every branch that does bare fruit he prunes so that it will even more fruitful. You are already clean because of the word I have spoken to you. Remain in me, as I also remain in you. No branch can bear fruit itself; it must remain in the vine. Neither can you bear fruits unless you remain in me.
‘I am the vine; you are the branches. If you remain in me and I in you, you will bear much fruit; apart from me you can do nothing. If you do not remain in me, you are like a branch that is thrown away and withers; such branches are picked up, thrown into the fire and burned. If you remain in me and my words remain in you, ask whatever you wish, and it will be done for you. This is to my father’s glory, that you bear much fruit, showing yourselves to be my disciples.

(【聖書】ヨハネによる福音書15章1節~8節)

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先日、家族で久しぶりに集まる機会がありました。私には姉がいるのですが、この秋から姉夫婦は仕事で海外に行くというので、急遽みんなで集まることにしました。今までであれば、家族で集まるということは、そんなに珍しいことではなかったのですが、このコロナ禍では離れて暮らしている家族が一度に集まることは、とても特別なことのように感じました。

そこで、せっかくみんなで集まったのだから、家に置いてあったワインを開けて飲もうという話になりました。(みなさんは未成年なのに、こんなお話をしてごめんなさいね。)
さて、いざ飲もうと思ったら、ワインのラベルにこんな言葉が書いてありました。

‘I am the vine, you are the branches. John 15:5

夫と私はこのラベルを見てはっと顔を見合わせ、「聖書の言葉だ!」とびっくりすると同時にとても嬉しい気持ちになりました。なぜなら、この聖句は私がとても大切にしている聖句の一つだったからです。私の家族はほとんどクリスチャンではないのですが、この大切な家族の集いの時にイエス様の言葉を見ることによって、「そうか、神様はこんな時にも私たちのことを見守ってくださるのだな。」と嬉しく思いました。

では、なぜ私がこの聖句を大切にしているかというと、「私はイエス様と繋がっているんだ!」という経験があるからなのです。私は20代後半になってから、イギリスの大学院に留学をしていたのですが、留学中に現地の教会に通い、神様に救われました。イギリスに行くまでは、日本語でしか聖書を読んだことがなかったのですが、現地では英語の聖書、英語による礼拝、そして賛美歌も英語でした。私は日本語の聖書を片手に、英語の聖書を開きながら礼拝を捧げていました。不思議なことに、日本語と英語の聖書では、同じ箇所の聖句を読んでいても、目に留まる言葉が違ったり、感じ方が違ったりしました。

私が一番最初にイギリスの教会で参加した礼拝では、イザヤ書の5章を読みました。聖書には「ぶどう畑の歌」と書いてあるように、何度も’vineyard’(ぶどう畑)という言葉が繰り返しでてきました。

Isaiah 5 The song of the vineyard

I will sing for the one I love a song about his vineyard:
My loved one had a vineyard on a fertile hillside.
He dug it up and cleared it of stones and planted it with the choicest vines.
He built a watchtower in it and cut out a winepress as well.
Then he looked for a crop of good grapes, but it yielded only bad fruit.

‘Now you dwellers in Jerusalem and people of Judah, Judge between me and my vineyard.
What more could I have been done for my vineyard than I have done for it?
When I looked for good grapes, why did it yield only bad?
Now I will tell you what I am going to do in my vineyard:
I will away its hedge, and it will be destroyed;
I will break down its wall, and it will be trampled.
I will make it a waste land, neither pruned nor cultivated,
and briers and thorns will grow there.
I will command the clouds not to rain on it’

The vineyard of the Lord Almighty is the nation of Israel,
And the people of Judah are the vines he delighted in.
And he looked for justice, but saw bloodshed;
for righteousness, but heard cries of distress.

(【聖書】イザヤ書5章1節~7節)

これを最初に読んだ時は、本当に何も分からず、ただ一言 ‘ vineyard’ (ぶどう畑)という言葉だけがずっと残りました。そして何故かそれがどうしても気になってしまい、「何でぶどう畑なのだろう?」という疑問がずっと私の頭と心から離れませんでした。結局、私はこのことをきっかけに毎週教会に通うことにしました。「英語で礼拝したい」とか「教会で友達を作りたい」というような理由ではなく、「ぶどう畑の本当の意味が知りたい!神様の言葉が理解できるようになりたい!」という動機から毎週教会に通うようになり、聖書を読むうちにイエス様との繋がりを感じ、気づいたらクリスチャンになっていました。その頃に出会った聖句がまさに今日読んだ箇所です。

‘I am the vine, you are the branches.’
「わたしはぶどうの木。あなたがたはその枝である。」

聖書の言葉に書かれたたった一言の言葉で人生が動き始めるのですから、聖書の言葉は生きているんだなと改めて感じます。

私の経験のように、「今」は分からなくても、きっとどこかで振り返った時に「なるほど、そういうことだったのね!」と思うことがたくさんあると思います。それなので、みなさんも人生において、「何でなんだろう」と疑問に思ったことをそのままにしないで、とことん追及してほしいなと思います。しっかりと向き合うことによって、真実が見えてくるということを神様は私たちに教えてくれているのだと私は思います。きっと神様は私たちの人生の中にいろいろな生きるヒントを与えてくれているのだと感じます。これからもイエス様にしっかりつかまって、豊かな人生にしていきたいなと思います。

お祈りします。

愛する天の父なる神様、今日も私たちを学校に集わせてくださり、そして礼拝を捧げることができたことに感謝します。私たちは自分の目の前にあることに気をとられ、あなたの存在を考えずに自分勝手に行動してしまいます。ですが、このように礼拝を捧げることによって、私たちは「イエス様につながっているんだ!」ということをしっかりと思い出させてくださり、ありがとうございます。ここに集う一人ひとりがあなたの愛を感じ、これからもしっかりと歩んでいくことができますよう、あなたが力を与えてください。このお祈りを主イエス·キリストのお名前によって、御前にお捧げ致します。アーメン。

 

 

 

 

図書館から本の紹介  9月3日

『少年と犬』馳星周  文藝春秋
直木賞受賞作として、書店に平積みされていました。
受賞したことよりも、タイトルに「犬」とついていることが気になって読んでみました。6つの章に分かれていて、いずれも主人公の「多聞」が先々で出会う人との場面が描かれています。
犬と関わりを持ったことのない方には、ぴんとこないところもあるかもしれませんが、犬と生活をしたことのある人は涙が止まらないかもしれません。
犬と人との関わりから、人間の生き様が際立って読み取れる一冊です。
人は何を求めて生きているのでしょうか。著者の馳さんの思いがつまった作品です。

礼拝メッセージ 8月31日

「本当に大切なこと」

                        高二担任 内山仰太郎

 

こちらから讃美歌291番「主にまかせよ汝が身を」を聞くことができます

【聖書】マルコによる福音書12章28節~31節

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

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古い話ですが、「ベストキッド」という映画があります。1984年のアメリカ映画です。気弱なひとりの少年が空手を通じて大人として成長するという王道の青春映画です。コロナ禍で礼拝の話をしなければと考えて、ここ最近、なぜか私が高校生の時に見たその映画の1シーンを私は思い出していました。
主人公の少年はミヤギという空手の達人に弟子入りします。しかし、ミヤギはカラテを全く彼に教えません。彼が少年に命じたのは、クルマのワックスがけと塀のペンキぬりを正しい形でていねいに手を抜くことなく毎日行え、ということでした。
少年がミヤギに命じられたことの意味が分からず、仕事をいい加減にし始めると、ミヤギは怒り、与えられている仕事にちゃんと向き合ってやれ、手を抜くなと怒ります。少年は意味は分からなくても、ミヤギに空手を教わりたい一心で、目の前のことに集中し、命じられた仕事を最後までやり抜きます。そして、彼は後に人生をかけた試合に臨んだときに気づくのです。ワックスがけとペンキ塗りでたたき込まれた動きが空手の防御の型として、彼の身体操作の完全な一部になっていたということを。

私たちは新型コロナの流行という予期せぬ出来事に、今、翻弄される日々を生きています。当たり前のように出来ていたことが出来ない日常、「新しい日常」とは何なのかを考える日々を送っています。
コロナが明らかにしたことは、これまで私たちが当たり前だと思っていたこと、普通に出来ると思っていたことは、当たり前でも普通でもなかった、ということです。
将来、何になりたいのか、どんな職業につきたいのか、そいうことを考える前提となってきた社会のありようは、コロナウイルス一つで変えられてしまうような不確実なものであった、ということです。皆さんが将来、生きていく社会のシステムは、間違いなく今とは大きく変わっていることでしょう。そんな時代にあって、将来のことが決まらない、決められない、そう思い悩むのは当たり前のことです。
混乱の中で、何が「最も大切なこと」なのか「正しいこと」なのか、その大切なことを得るために、今、私は何をすればいいのか、それを真剣に考えれば考えるほど、むしろ迷いは大きくなるのかもしれません。
しかし、きっと一生続くであろう、その問いを若い時から答えがわからなくとも問い続けることが、実は私たちが生きていくために最も大切なことなのではないだろうか。そのことを今回のコロナの問題は思い出させてくれたと私は今、思っています。

古代ギリシア世界が、それまでの秩序が壊れ混乱の中にあった時に登場した哲学者ソクラテスは、「無知の知」という言葉を私たちに残しました。「私はまだ何も知らないということを知っている。だからこそ、混乱の中にあってもよく生きるために本当の事を知ろうとするのだ」という意味のことばです。「美しい」とは何であるか、「正しい」とは何であるか。それを知らない、わからないからこそ、人生を通してそれを追い求める、そのために生きる、そこに人生の意味がある、ということです。
捜真女学校という校名は、このソクラテスのことばに通ずるものがあると思います。真を捜す、それこそが生きること、その精神を校名として掲げる学校に、今、皆さんは学んでいる。そのことを、この困難な時にこそ今一度思い出したいと私は心から思います。
聖書に示された言葉を変わらぬ真理であると信じ「神を信じ、隣人を自分のように愛せ」という言葉が意味すること、自らの具体的な人生の中で追い求めること、今、私が目の前にしているなさねばならぬ務めは、その真理を知る道につながっていると信じ、その務めに忠実であること。迷いの中にある時、混乱の中にある時こそ、そのことを思い出してほしいと私は思います。

だから、今は意味がわからずとも、迷いの中にあったとしても、私自身に与えられているなすべきことにしっかり向き合いましょう。うつろいやすいこの世で何が損なのか、得なのかではなく、それを超える真理を見つけるためにも、なすべきことに全身全霊を尽くしてみましょう。それが「本当に大切なこと」を教えられる最善の道だと信じて。

その先で、私たちはきっと「ベストキッド」の少年のように、真理が私の一部になっているということを知らされる日を与えられるのだと私は思うのです。
今、赦されている目の前の学校生活を、学びの日々を、それが真理に至る道なのだと信じて、共に歩んでいきましょう。

礼拝メッセージ 8月28日

「おさなごのように」      

高二担任 廣川敦子

こちらから讃美歌2編26番「小さなかごに」を聞くことができます

【聖書】マタイによる福音書18章3節
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」

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先日、朝出勤しようとした夫が、家の駐車場から私に電話をしてきました。
子どもを連れてとにかくすぐに来てというので、何事かと飛んで行きました。駐車場に着くと夫が指をさす先には、小さなクワガタが歩いていました。一緒に来た息子は大喜びで「わー、クワガタだ!ねぇ、ウチで飼ってもいいよね?」と私に言ってきました。必ず自分で世話をすることを約束して家へ連れて帰りました。

大喜びの息子は、興奮気味に話をしてきます。「クワガタって夜行性なのに、なんでこんな朝に歩いてたんだろう。しかも駐車場にいるなんて、ラッキーだったね。見て見て、木にしがみつくために足がこうなってるんだよ。」と嬉しそうです。息子に虫の知識が割と豊富にあることに少々驚きました。

しかしながら虫を触ったりするのがあまり得意ではない私にとっては、正直ラッキーとアンラッキーな気持ちが入り混じっていました。

息子は早速プラスチックの入れ物にクワガタを入れ、入れ物の周りに黒い画用紙を貼って、夜を再現しているようです。そして小さなライトを横に置きました。なんでライトを置くの、とたずねると、「これはお月さまの代わり」と言っていました。

10時に近所のホームセンターが開いたら、クワガタの飼育セットを買いに行くことになりました。まだ2時間あります。息子は気が気ではない様子で、じっとクワガタを見ては「もうすぐお布団とごはんを買ってくるから、待っててね。」と話しかけています。
クワガタ一匹でこんなにも嬉しそうにする息子の姿が、かわいいなぁと感じました。

無事に飼育セットを手に入れ、クワガタを中に入れました。すぐに土の中へもぐっていき、見えなくなってしまいました。すると息子は「夜になればきっと出てくるよ。だから今日の夜中は1時間ごとに起きてチェックしたいから、起こしてくれる?」というのです。内心うわーと思いつつも、「わかった。1時間ごとにまずは私が見て、もし出てきたらその時は必ず起こす。」と約束しました。

10時の就寝後、私は夜中の2時から1時間ごとにチェックをしました。結局初めてクワガタが姿を見せたのは朝の7時でした。息子に「クワガタ出てきたよ。」と声をかけると、とび起きて見に行きました。そして「よかったー、生きてるね。」と安心した様子でした。
その後1週間ほどたった今も、クワガタは無事に生きています。

幼い子どもは、虫など目の前の命あるものを怖がることもなく、ごく自然に愛することができます。しかし大きくなるにつれ、虫はいやなもの、怖いもの、できれば触りたくないもの、という認識にかわってゆくのです。逆に幼い頃あれほど怖かったお化けの存在は、いつのまにか怖くなくなっています。年齢に伴う感覚的な変化とは、あらためて不思議なものだと思わされます。

私の中で神様の存在とは、幼い頃は疑うことなく純粋に怖れ信じるものでした。中学生の頃にはいやなもの、となりました。でもまた高校生の頃に、やっぱり自分の中で大切で信じるものに変わりました。

私が神様を信じて生きると決めた時から、20年以上が経ちました。
時には大きな困難にぶつかることもありました。でもあとから振り返ってみたとき、結局は神様に守られている、愛されているという感覚的なものに救われているような気がします。
これからも神様を信じ、与えられる恵みに感謝して生きてゆきたいと思います。

 

礼拝メッセージ 8月26日

「正義中毒とイエスの教え」      宗教主任 藤本 忍

 

こちらから讃美歌234番A「昔主イエスのまきたまいし」を聞くことができます

 

【聖書】ヨハネによる福音書8章1節~11節

イエスはオリーブ山へ行かれた。 2朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 4イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 6イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

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数か月前、毎週土曜日に放映されているTV番組「世界一受けたい授業」をたまたま見ていました。すると脳科学者の中野信子さんが出演されていて、「今、日本では、正義中毒が流行っている!」というタイトルで授業をしていました。大変興味深い内容でした。彼女が言うには、今、日本では、自分と異なる意見を持つ人を赦せない人が増えている、特にインターネット社会になり、SNSが普及したことによって、そこに拍車がかかっていると言っていました。とっても納得しました。
なぜなら、芸能人や著名人の言動だけでなく、自分の隣に座っている人の仕事上のミスや気に入らないことまでも、ツイッターやインスタなどのSNSによって簡単に拡散され、どこの誰かわからない人から誹謗中傷を受けたり、どこの誰かわからなくても、誹謗中傷をしたりする人が事実、存在しますし、その誹謗中傷で傷ついた人が命を落とすという社会問題にすらなっているからです。

では、なぜSNSNの普及が「正義中毒者増殖」の拍車をかけているのでしょうか。それは、匿名性とその世界だけの共感性が原因のようです。何を言っても顔や名前がバレないという安心感。一緒になって攻撃しているという連帯感。更に、人は人を裁く時、快楽物質であるドーパミンが脳内で大量に出ていて、「人への攻撃」は楽しくて止められない中毒性があると言うのです。ターゲットを決めては攻撃をして、感情が収まればまた次へと相手を変えて再炎する。怖い話だと思いながら、インスタで自身の投稿をたくさん揚げて「いいね」をたくさん欲しがる人の心情とも似ているのではないかとも思いました。「正義中毒」も「いいね」もどうすれば終わるのか。それは、多分、自分にとっての絶対的他者からの「たった一つの『いいね』」を貰えれば、不特定多数からの「いいね」なんていらなくなるのではないか、と思ったりもします。でも、このたった一つの「いいね」が得られないがために、多くの人は彷徨っているのかもしれません。

また、授業の中で中野さんは、日本人は人に対して寛容に接するのに必要なセロトニンという前頭葉の物質が世界で最も少ない民族である、とも言っていました。日本人同様に少ないのは北欧の人たちです。要は日照時間に比例するということです。日本は気候帯として北欧とは違うわけですから、とどのつまり、屋内で過ごす時間が非常に多い内向きの国民性と言えるのだと思います。
最後に私が最も関心を持ったのは、正義中毒症の解決方法です。

一つ目は相手にも自分にも一貫性を求めないということです。人間というものはどこまで行っても不完全なもので、永遠に完成しないということを弁えておくことです。私は将来夫となる人と24~5歳のころに付き合い始めました。長くお付き合いすると、昨日言っていたことと今日言っていることと違う、この人、なんなの?と思うこともよくありました。当時の私は、なぜあんなに普段優しい人が、時々頑固になるのか。果たして優しさと頑固さは同じ人間の中に成立するのか、考えました。そして、彼に質問しました。すると彼はこう言いました。「君もまだまだ未熟な人間だな。人間とはそういう矛盾した存在なんだよ。一人の人間の中に相反するものが共存する、そういう矛盾した存在が人間なんだよ。」と。

もう一つの解決方法、それは、対立でなく並列で考えることです。対立軸から抜け出して、何事も並列で処理する、つまり全てを相対化することです。互いに互いを包み込んでいく、これが正義中毒から解放される秘訣だそうです。

本日の聖書箇所ですが、姦淫の現場を押さえたと意気揚々と律法学者やファリサイ派が主イエスの所にやってきます。姦淫の現場であれば、男性もいたはずです。しかし、女性しか彼らは連れてきません。公平に裁こうという気はなく、あくまでも主イエスを試そうというわけです。しかし、主イエスは何も言わずかがみ込み、指で何かを書いています。私達はついつい主イエスが何を書いたかが気になってしまいがちですが、地中海世界の人間であれば、この行為が何を意味するのかすぐにわかるようです。それは、あなたのやり方に従って、この話を進める気はもうとうないという、ハッキリとした拒否、拒絶、不参加の意志表示なのです。彼らはイエスが参加してこない、不参加の意志を示しているのがわかったからこそ、執拗に問い続けました。しかし、主イエスはやはり同じ土俵には乗ってきませんでした。と思った次の瞬間、主イエスはこの状況を一変させます。それがこの言葉です。「罪のない者がまずこの女に石を投げよ。」訴えられた女性も、訴えようとやってきた律法学者もファリサイ派も共に同等な人間として、一貫性のない一罪人として並列に置かれたのです。そして主ご自身でさえ、その身を低くかがめて、同じ地平に立たれて「私もあなたを罪に定めない」と言われるのです。彼女を裁こうとする者には過去の罪を思い起こさせ、今、まさに罪を犯した女性には、赦しと解放を与えて未来へと押し出されたのです。聖書には、年長者から始まって、一人、また一人と立ち去って行ったとあります。これは事実だと思います。中1の生徒に「罪人だと思う人?」と聞いても、誰一人手を挙げません。しかし、高三の生徒に「自分には罪があると思う人?」と聞くとほぼ全員手を挙げます。

主イエスが生きられた紀元1世紀は、心理学も脳科学も全く存在していない時代です。しかし、現代、それらが解明されればされるほど、主イエスがなさったことがどれほどのものなのかがわかります。漸く時代が主イエスについて来た、と言えるのかもしれません。当時の人々が主イエスの教えの新しさに感嘆し、魅せられ、救われたように、現代の私も主イエスの教えの新しさに魅了され、そして救われています。姦淫の女性を一緒になって裁くのではなく、一貫性のない罪人として並列に立ち、互いに互いの罪を包み込んでいく、そのような交わりをしていきたいと思います。なぜなら、姦淫の女性は私達自身だからです。キリストに出会うことによって変えられるのは、人間観であり、世界観であり、そして人生観なのだと思います。

🎵一人だにも、滅ぶるは、み旨ならじ、助けよ🎵 讃美歌493番より

図書館から本の紹介 8月21日

今回は「父子家庭」と、「父親が考える仕事と子どもとのかかわり方」についての本を紹介します。一つ一つの家庭や家族は千差万別ですが、自分の知っているもの以外にも、世の中にはこんな生き方暮らし方があるんだと、この二冊から教えてもらいましょう。

『君たちにサンタは来ない』朝日寅介 ヨシモトブックス
このタイトルを見て、ずいぶんストレートだなと思いました。
きっと経済的に恵まれていない家族のお話なんだろうな。
「君たち」ってことは、パパと子どもたちのお話?
ページを開いてみると、なんだなんだどうした!
父が子ども二人と暮らすときに決めたルールは一つ。「どんなに忙しくても、どんなに大変でも、食事は手作り」珍しくないそのルールを父が守ることは困難を極めていく。
実話をもとにしたお話だそうですが、現実がここまで苦しいものだとは想像していませんでした。テレビのドキュメンタリーや新聞記事よりずっとずっと痛みを感じる一冊でした。社会は、私は、何に目を向けていけばいいのか。この記録から教えてもらいましょう。

『ぼくと仕事、ぼくと子ども』影山大祐 トランスビュー
私は母親なので父親の気持ちをうまく想像できません。
まして、40代50代の若いお父さんたちとかかわることも少ないのでさてどんな様子なのか覗いてみることにいたしましょう。いやいや、世の中は随分と変化?進化?してきていました。
この本の10人の語り手たちの思いは、私にもよく理解できました。でもそれは、一昔前までは女のひとの役割とされていたものが多い。
最近の若者は探究心や発想力が乏しいだなんて言われていますが、とんでもない。やるべきことをやっている人はいるんです。ましてや男、女の区別なく、自分が選んだものを行動に移している人は、眩しい。
そのそばで育つ子どもたちは、どんな大人になっていくのだろう

図書館から本の紹介 8月20日

試験も始まり、暑さとともに息が詰まる思いをしていませんか。そんな時に、一息つける2冊の本を紹介します。
どちらも「そう来たか!」と肩の重荷がすっと下りるような読後感を味わえます。でもまあ、試験が終わってから読んでくださいね。

『二枚腰のすすめ 鷲田清一の人生相談』鷲田清一 世界思想社
帯には次のように書かれています。「哲学者が答える71の悩み」。鷲田さんの著書で一番のお気に入りは『普通をだれも教えてくれない』。いつでも手にとれるように我が家の定番の場所に置かれています。ちょっと辛口でその鋭い観察眼が背筋をしゃき~んとさせてくれます。
この本は、読売新聞の「人生相談」欄に掲載されていたものをまとめたものです。
相談内容 →「もやもや」
その答え →「比較して感じる幸福はそんなに長く続きません。もっと幸福そうな人に出会えば、ぺしゃんこになってしまうのですから。」
そうだよな~。

 『駐在日記』小路幸也 中公文庫
小路さんの作品には、「いい奴」が必ず登場します。
この一冊もはずしません。簑島周平は山に囲まれた駐在所 に勤務する元刑事のお巡りさん。
妻の花は元外科医。そんな二人の周りに巻き起こる大きな小さな事件を、期待を裏切らず周平さんが解決していきます。
人と人ってあったかいよなぁと、思わせてくれる一冊です。続きも読みたくなりますよ。

礼拝メッセージ 8月24日

先週8月18日から学校生活が再開され、1学期の期末試験が行われました。

毎日行われている礼拝のメッセージをご紹介していきます。今日は先日の中1、中2放送礼拝のメッセージです。

「いのちのみことば」   中2担任 小澤淑恵

こちらから讃美歌501番「いのちのみことば」を聞くことができます

【聖書】ヨハネによる福音書 第1章1節~3節

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

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英語科中2担当の小澤です。中1の皆さん、初めまして。中1と中2の英語のテストが昨日ありましたが、いかがでしたか。これからどう勉強していけばいいのかが分かったのではないでしょうか。とにかく聞いて聞いて聞いて、音読して、暗唱して、正しい英語を体に覚えさせましょう。
私たちが日本語を話せるようになったのも、何度も何度も日本語を聞いて、真似をするうちに、いつの間にかできるようになったのです。英語でも同じです。ただし、英語をあえて使わなくても生活できる環境にいるので、英語を覚えるためには、意識してたくさん聞かなければいけません。
ずいぶん前に、ラジオのインタビューで、ある大物実力派歌手が話していたエピソードが大変印象に残っています。その方は著名な作曲家の先生に弟子入りして歌を学んだのですが、手本となる音源(レコードの1曲)を100回聞きなさい、という指示を受けたそうです。途中で歌ってはいけない、聞き流してはいけない、注意して100回聞いた後で、初めて自分で歌う、という教えだったそうです。その結果、息づかいから発声、リズム等、歌の全てにおいて、大きな学びとなったそうです。

初めて捜真で中1を担任したとき、「捜真生はいつから捜真生らしくなるのだろう」と、興味を持って観察したことがあります。それぞれ別々の小学校から入学してきた新入生たちですが、5月の半ば過ぎてくらいから捜真の雰囲気が出てきました。どうしてだろう、とずっと考えているのですが、きっと、100回まではいかなくとも、それくらい多く、毎日の礼拝や授業やホームルームで、聖書の御言葉を聞き続けていたからではないか、と思いました。

人は言葉でできています。あなたの言葉があなたの考え方をつくります。正しい英語をたくさん聞きましょう。美しい日本語を使いましょう。新しい言葉をたくさん学びましょう。そして何よりも、聖書の「いのちのみことば」を毎日心に入れましょう。

図書館から本の紹介 8月19日

短い夏休みでしたが、メリハリをつけて、過ごせたでしょうか。
暑さや感染症対策で、外出もままならなかったので、再び読書三昧の日々を過ごしました。その中から何冊か紹介します。

『いのちの停車場』南杏子 幻冬舎
救命救急センターの副センター長、白石咲和子。ある日、許容範囲を超えた救急外来を受け入れたことの責任を問われ、その職を引くこととなった。
実家のある金沢に戻り、救急医とは全く違う在宅医療に携わる幼馴染、仙川に乞われその仕事に臨むが…。
若い人にはまだピンとこないかもしれませんが、肉親を見送ったり、残された時間を意識するようになると、自分の生き方を考えることが多くなります。私も母の最期を緩和ホスピスで看取った経験があったため、この本を手にとりました。
「命」の価値は人それぞれだと思いますが、自分の命の終わりを娘の手に託すことを望んだ咲和子の父に、胸をギュッとつかまれる思いがしました。
今この一瞬を生きることを大切にしたいです。

 

『生き物の死にざま』稲垣栄洋 草思社 
著者の稲垣氏は52歳(まだお若い!)。専門は雑草生態学。
たくさんの著書があり、最近図書館でも何冊かを購入しています。
私たちの身の回りにいる、生き物たち。そこには人と同じ命があります。この本ではその命の終い方が紹介されています。
「ハサミムシ」その卵はかえるまでに40日以上。長ければ80日 かかることもある。母親はその間ずっと卵を守り続ける。しかし、幼虫は母の体を食べ尽くし、母は命を終える。さて、母親はそれを幸せと感じるのだろうか。
「ベニクラゲ」クラゲが地球に出現したのは5億年前。大昔から命をつないできたクラゲだが、中には不老不死といわれるクラゲもいる。それがベニクラゲだ。寿命はないが、死は突然やってくる。ウミガメに捕食されてしまうのだ。5億年生き続けたかもしれない命はあっけなく終わる。自然の中の命は潔く、そして私たち人間の目には、なかなか届かない。
稲垣氏の著書には、普段私たち人間の目には届かないものがたくさん紹介されています。そこには人間と同等な命に対する敬意が感じられます。
「命」があるのは私だけではありません。

8月29日 ミニ説明会はご予約満席となりました

残暑お見舞い申し上げます。

8月29日(土)ミニ説明会「卒業生に聞いてみよう」は、おかげさまで満席となりました。次回の説明会は9月19日(土)「在校生に聞いてみよう」の予定です。8月31日よりご予約いただけますので、もう少々お待ち下さい。

厳しい暑さが続きます。皆様どうぞご自愛くださいませ。

図書館での学び

【中3総合“仕事!”】
捜真総合学習の目玉でもあります、中3の“仕事!”が始動しました。今年は休校期間が2ヵ月ありましたので、例年通りのプログラムではありませんが、classroomを使って動画の視聴をしたり、formsのアンケートに答えたり、新しい取り組みにも生徒たちは積極的に参加しています。自分の選んだ職業を一つに絞るために、図書館で請求番号や本の配置の確認をして職業の本を選書しました。請求記号は高校を卒業しても知っていれば文献の検索に便利ですのでいい機会になったと思います。2学期には、レポート作成やインタビューに挑戦します。

 

【中3国語ブックトーク】
中3は総合と並行して、国語「ブックトーク」のための選書に図書館にやって来ました。その後、5人一組となって、それぞれが選んだ3冊の本をブックトークしました。発表をする生徒も聞く生徒も程よい緊張感の中、沢山の本に囲まれて本の世界を味わっていました。グループの代表に選ばれた生徒は、この後クラス全員の前で発表に臨みます。

 

【中2短歌】
中2国語の授業では、短歌の鑑賞を行いました。教科書に載っている歌人の作品を図書館の書籍の中から探し出し、レポートにまとめます。一つ一つの作品を丁寧に吟味する練習ができたようで、黙々とペンを走らせる音があちこちから聞こえていました。

図書館の活動 その1

【サマープレゼント】
捜真の図書館「エーカック記念図書館」では、一年に2回、夏と冬の長期休みに先生方から生徒に向けて、本の紹介をしています。
今年も「サマープレゼント」の季節となり、先日、中学生には冊子の配布を、高校生にはclass roomで配信をしました。

先生へのお礼のコメント
*A先生へ 『故事成句でたどる楽しい中国史』 慣用句やことわざや故事成句が好きで、「故事成句」という言葉にひかれ、コメントを読んでみたらおもしろそうなので、今度借りてみたいです。(中1)
*S先生へ 『歴史に「何を」学ぶのか』 本の紹介を読んだだけで、歴史が今より好きになれそうな本だと思いました。私は少し「暗記」が苦手なので、一回読んでみたいと思いました。(中1)

前回ホームページで本の紹介をしてくれた中3の元図書委員に続いて「何かお手伝いすることはありませんか?」と声をかけてくれた中2の生徒に本の展示をお願いしました。今はPOPを作って先輩後輩が手に取りやすいように工夫をしてくれています。

感想
*並べている間、みんなで「これはここじゃない?」と話し合っているうちに、「はっ」と気が付くと一時間たっていました!『はにわの世界』の置き場所に困りましたが、ドシドシ借りていってくれたら嬉しいです。
*初めて本の展示をしたので、何回も何回も試行錯誤をしながら頑張りました。並べながら「この本知ってる!」「この本面白そう…」など、どんどん本への興味が深まりました。棚がぐちゃぐちゃになるくらい皆さんに読んでほしいです。図書館で待っています。
*今回の本の展示は「この本をどう展示すれば目に留まるだろうか」などを3人で考えて並べました。途中、新しい本との出会いもあり、実際に借りたものもあります。特に『死体が教えてくれたこと』という本が心に残っています。

中1国語表現 スピーチ「私のお気に入り」

「聞く·話す」を中心に学ぶ中1「国語表現」で、「私のお気に入り」についてのスピーチを行いました。学習のポイントは「説明の順序の工夫」「聞き手にわかりやすい言葉を選ぶ」「スピーチをするときの視線の動かし方」でした。幼いころから大切にしている本やぬいぐるみ、家族との思い出など題材はさまざまでした。また本番では聴衆のほうを見ながら熱心に語ることができました。2学期以降もさらに発展的に学習を進め、後期から始まるクラス礼拝のお話を担当するときにも生かしてほしいと思います。

礼拝メッセージ 7月28日(火) 

「キリストの香り」

音楽科 河原真実

今日は7月17日(金)中1、中2の放送礼拝でのお話をご紹介します。

こちらから讃美歌452番「正しく清くあらまし」を聞くことができます

エフェソの信徒への手紙 5章1節~2節
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。
キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
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先日、と言っても早くも2か月ほど経っていますが、コロナ休校中にSNSで、ニューヨーク州のクオ
モ知事の定例会見の動画が流れてきました。

その話の内容は次のようなものです。
定例会議の終盤、クオモ知事が彼の所に送られてきた一通の手紙を読み始めます。
「“親愛なるクオモ様。この国を襲った災害により、あなたが信じられないほどご多忙であることを知っているので、あなたがこの手紙を読むことはないだろうと真剣に思っています。
現在私たちは国家的危機に瀕していることは間違いありません。(中略)私は元農家で、カンザス州
北東部の田舎で妻と二人で暮らしています。妻には肺が一つしかなく、残された肺は度々問題を起こします。彼女は糖尿病も患っています。私たちは70歳を超え、正直言って私は彼女の事を心配しています。私が農業をしていた時からの残り物ですが、N95のマスクを1つ同封します。未使用です。もし可能ならこのマスクをあなたの州の医者か看護師に渡してあげてください。私は家族の為に4つ保管しておきます。これからもどうぞ頑張って下さい。 デニスとシャロンより”」

クオモ知事は続けてこう語りました。
「ここにこの人の人間性を垣間見ることが出来ます。マスクが5つある。あなたならどうしますか?
5つとも自分のためにキープする?それとも隠しておきますか?この人は、この貴重な1つのマスクをニューヨークに送った。見知らぬ医師と看護師の為に。なんて美しい話でしょう。なんて寛大な心でしょう。それは愛。そして勇気、そして寛大な気持ち。それがこの国を美しくする理由で、アメリカ人を美しくしてくれる。そしてこの寛容な精神が現在目にする酷い光景を隠してくれる。」

少し話が変わりますが、学校が再開して間もなく、私が音楽室で一人消毒作業をしている所に中学生が訪ねてきてくれました。彼女は私の顔を見るなり「席上献金」と書いてある、1600円が入っている封筒を渡してくれました。私は一瞬意味が分からずに、「え?何の献金?」と聞いてしまいました。

中1の皆さんはまだご存知ないかと思いますが、捜真女学校では里親委員会の行う里親献金の他に、
奉仕委員会が毎週クラスで献金を集めて、年度末には1年で集まった100万円を超す献金を、東北の方々への支援や貧しい国の医療活動、アジアの国々でのキリスト教活動の支援の為にお捧げしています。

本当は今年度も毎週献金を集めるはずなのですが、ご存知の通り今年はまだ実現していません。
奉仕委員会もまだ立ち上がっていないし、献金の呼びかけもしていないのになぜ?と私は不思議に思って彼女の渡してくれた献金に対して「何の献金?」と聞いたのでした。すると彼女は、「HPで礼拝を受けているのに、献金をできていなかったので」と答えてくれました。確かに、封筒に書かれた“席上献金”とは、単なる募金や支援金ではなく、礼拝で語られる神様の“み言葉”に対する感謝のしるしとして行われるものです。

彼女はもともとクラスで行われる毎週の献金は1回100円と決めていて、1か月4週間、3月から6月までの4か月分として1600円を持って来てくれたのでした。自分のお小遣いの中からその金額を出すと決めてそれを実行することがどんなに難しい事か、皆さんもわかるのではないでしょうか。

コロナ休校が始まってすぐに、高校生が皆の生活のリズムを整える為にもと、独自に毎日決まった時間にオンライン礼拝を始め、休校中のHP礼拝も、分散登校中のチャペル礼拝も、全て生徒の皆さんからの要望によって始められたものでした。
チャペルでの有志礼拝には、計画当初の予想に反して毎日たくさんの人が集い、なんとも言えない良い雰囲気の中で、皆で一緒に礼拝を守りました。

今週の水曜日の朝には、ずっと出来ていなかった生徒有志の祈祷会が再開しましたが、きっと少人数だから祈祷室で大丈夫だと先生達が思っていたら、こちらもまた予想外に人が集まり、コーリング祈祷室では密になってしまうということで、来週は千葉ホールで行うことになりました。

私は今、そんな捜真生の皆さんの姿を見ながら、よく捜真女学校の校歌を思い出します。
1.神の心現れて 清き園となりにけり まことの道問いこよと 教えの家建ちにけり
2.世に混じりて世に落ちず 世を救いの君のごと 永遠に香れ園の花 清く歩め家の子よ
3.山秀でて水清し ここ御霊の住む所 気は結びて人となり 人は国の花となる
(おりかえし)富士の高嶺の門辺に真白く 八洲の海の軒端に青みて
さながら幣(にぎて)の色や 神の宿りのしるしなるらん

1番の歌詞にあるように、神様のご計画によって多くの人の決心と働きが起こされて、創立から134年経った2020年も捜真女学校はここ中丸の丘に存在しています。
2番の歌詞の中で願われている通り、捜真生の皆さんは世に混じりながらも世に落ちず、コロナ禍にありながらも予想外に先生たちが感動するような、良い香りを放ってくれている人がいます。

私の知っている外部の方で、何人もの捜真生や卒業生のことをご存知の方が、「世の中には、頭がいいとか悪いとか、才能があるとか無いとか、人のレベルを図る尺度が色々あるけれど、捜真の子は、そういう尺度を超えて一番社会に愛される、世の中で必要とされる要素を持った人が多いよね。」と度々言ってくださる方がいます。
それはつまり、校歌の3番にあるように、捜真の先輩たちがこの社会の中で様々な形で良い香りを放ち、美しい花を咲かせている証拠ではないでしょうか。

中学部1年生、2年生の皆さん。
先を進んでいる捜真の先輩たちは、確かに美しく咲いてくれています。
皆さんはこの捜真で何を学び、何を考え、どんな人になっていくのでしょうか。
今週は九州豪雨のための緊急献金の呼びかけがされていました。今日がその最終日です。既にたくさんの献金が集まってきています。ご協力いただいた皆さん、本当にありがとうございました。

お祈りします。
天の父なる神様、神様の御名を讃美致します。今日このようにして、捜真女学校が礼拝の時間を無事に守れることを感謝いたします。今世の中では多くの方が病気や自然災害で苦しんだり、悲しい思いをしていらっしゃいます。私達一人一人は無力な者ですが、どうか私たちに人を思いやる気持ちを、人の為に動く強さを、人を愛する心をどうかお与えください。願わくは、大変な思いをしている方々に少しでも早く癒しが与えられますように。
私たちの今日一日の営みを、どうぞ共にいてお守りください。この願いばかりの小さき祈りを、捜真に集まる全ての人のお祈りと合わせて、主イエスキリストの御名によって御前にお捧げ致します。 アーメン

中1数学 円柱・円錐レポート 優秀作品展示中

生徒たちは、休校中に作った立体のうち、円柱と円錐の作り方と考察をレポートとして提出しました。

円が絡むので、どうしても円周率の近似値を使わなくてはなりません。定規がミリメートルまでしか測れないことを考慮して、値を工夫した人たちも多くいました。
学年ベスト10 を中1廊下に展示しましたので、保護者の皆様もぜひ面談中にご覧ください。

高校一年生 総合学習「進路1」

高校一年の総合学習のテーマは「進路1」です。25歳の自分が社会でどのように活躍しているかを具体的にイメージ化するのが目標です。今の自分の「好きなこと」「興味あること」「問題に感じること」に気付き、それを深く掘り下げるための訓練をしていきます。

「捜真女学校のどこをリノベーションをしたら学校生活がもっと豊かになるか」という宿題を元に第2回目授業を行いました。㈱エナジード小石川さんを講師にお迎えし、4クラスそれぞれに授業をしていただきました。いかに思考を変えるか、ものの見方をかえるかということについて刺激の多い授業でした。(森川)

礼拝メッセージ 7月27日(月)

「まことの礼拝」

中学部高等学部校長 中山 謙一

本日のメッセージは7月10日(金)に行われたチャペル有志礼拝のメッセージです。

こちらから讃美歌6番「われら主をたたえまし」を聞くことができます

【聖書】ヨハネによる福音書4章23節

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝するときが来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。

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私はこのチャペル礼拝が楽しみです。素晴らしいと思っています。
生徒からの発案で始まったもので、始まっただけでも素晴らしいし、それが維持され、こうして大勢の生徒·先生方が毎日集まってくることも素晴らしいと思います。
有名人に会えるからでもなく、義務でもなく、利益があるわけでもありません。
そんな催しにこれだけ集まることは、神様の祝福だと私は思います。
休校期間中に高校三年生の方々の提案で始まり、続いてきたオンラインによる礼拝についても私は同じ感想を持ちました。始めたことも素晴らしいし、それが続いていたことも素晴らしいです。

今日お読みした聖書の箇所には、「イエスとサマリアの女」という見出しがつけられています。

「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」

誰かに命令されてではなく自らの意志で集まったこのチャペル礼拝は、この「まことの礼拝」に近いものだと思います。教会とは、建物のことではなく、神様を求める人たちの集まりです。同じように礼拝とは、チャペルがあってもなくても、パイプオルガンがあってもなくても、神様を慕い求める人たちが「霊と真理をもって」つどう集まりのことです。
どうかこのことを心に刻んでおいてください。