投稿者「soshin」のアーカイブ

自粛中でも取り組めるSDGs第5弾

こんにちは、捜真SDGs実行会です。
本日は、「自粛中に取り組めるSDGs」の第5弾の配信です!
先週から学校が始まり、笑顔の溢れる日常が少しずつ戻ってきているのではないでしょうか
学校が再開されたので、この活動は次回から、昇降口や正面玄関に掲示していく形に変更したいと思います。今後もぜひチェックして下さいね!
報告を送って下さったみなさん、ありがとうございました。
みなさんが取り組みを報告して下さって、とても嬉しいです!
今週もたくさんの報告をお待ちしています。こちらのメールアドレスにお送り下さい。
【第5弾】
①「Ecosia」を使ってみよう!
パソコンやスマートフォンから検索する時、GoogleやSafariを使っている人が多いのではないでしょうか。「Ecosia」という検索エンジンを使って検索すると、なんと木が植えられる仕組みになっています。こちらをクリックすると開けるので、ぜひ使ってみて下さい!
②挨拶をしよう!
学校へ行けるようになって、学校の先生や近所の方など、人に会う機会が増えたと思います。ソーシャルディスタンスは保ちながらでも挨拶はできます。体の距離は離れていても、心の距離を縮めてお互い気持ちよく過ごしましょう!
【第5弾の目標ゴール】
【目標ゴールに関する豆知識】
「15 陸の豊かさも守ろう」
·毎年1,300万ヘクタール、なんと東京都約60個分の森林が世界で失われています。
·森林破壊は生物多様性の崩壊の原因で、年間4万種もの生物が絶滅しています。これは13分に1種の生物が絶滅していることになります。
「11 住み続けられるまちづくりを」
·安全なまちをつくるためには、まず近所の方との連携が必要です。日頃から挨拶をして関係を築いておくことで、非常時には助け合うことができます。

 

 

 

 

礼拝メッセージ 6月12日(金)

「しなやかな強さ」

事務職員  山田 園子

こちらから讃美歌536番「むくいをのぞまで」を聞くことができます

 

【聖書】ローマの信徒への手紙 5章 3-4節
わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

コリントの信徒への手紙二 4章 16節
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

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最近のひそかな楽しみ、それは毎週日曜日の新聞の「短歌」「俳句」欄を眺めることです。
読者から寄せられた中から、歌人·俳人である選者が、よりすぐりの十首を取り上げ、一面には60~70ほどの句や歌が載っています。わずか17文字ないし31文字の中から読み上げられる世界は端的に仕上げられとても魅了されます。
日常の発見を詠う人、世情を問うような歌など、読み上げる目線の先を思い返したり、くっきり彩られたものを、顔も知らぬ紙面の向こうにいる読み手から教えていただく。
先日、“戦争もしらないわたしは、きっとこのコロナ禍のできごとを語ってゆくのだろう、(かつて祖父母らが戦争を語ったように)大事な局面で、これからも”との思いを綴った歌が詠まれていました。世界が一変したことを、心に刻み忘れてはいけないのだ、そんな決意を感じました。

ふっと十数年前の記憶が呼び覚まされました。大学の授業の一環、家の建築活動ボランティアとして訪れたフィリピン。初めての海外旅行、20数名の仲間との共同生活、慣れない暑さ、突然襲ってきて作業を中断させるスコール、煙と匂いがたちこめるごみや瓦礫の山であるスモーキーマウンテンの有り様と、対照的な首都マニラの喧騒。2週間の旅程中、大きなショッピングモールで買い物を楽しむ時間がありました。
午後、鐘の音がモール全体に鳴り響き、タガログ語の放送が入りました。人々は足を止め、少し頭を傾け手を組み、祈りを捧げる姿勢へと変わっていきました。「アメリカ合衆国で起きた同時多発テロ事件の犠牲者を追悼するためよ」と、NGOスタッフの方が後から教えてくれました。事件から3年目を迎えた2004年9月11日の出来事です。

8月6日、9日以外で大勢の人が黙祷を捧げるのを見た瞬間でした。日常が、変わった日。

事件当時、私は高校生で、夜ニュース番組を見ていると画面が切り替わり、世界貿易センタービルに飛行機が衝突していく様が流れ込んできたのをよく覚えています。映像の衝撃はとても大きくその夜は中々寝付けず、この先どうなってしまうのだろうと不安な気持ちが芽生えました。

世界情勢は大きく変わりましたが、寝付けなかった夜から日々が過ぎてゆくにつれ、私の生活は、目の前のことに取り組むことで精いっぱいでした。

フィリピンで見た光景が強く心に残ったのは、当時の混乱した状態、わからなさを埋めていく作業や大きくうねる世界情勢とそれらの報道の先に、振り返る時間をひとりひとりがもつことの大切さを祈る姿から教えてもらったからです。

本日の聖書箇所は私のすきな御言葉の一部です。
年を重ねるごとに、困難さ·複雑さが増すような出来事が起きるたび、この二つの御言葉がもつしなやかな強さを思い、立ち返り、少し冷静になることができます。
困難な状況にあっても、また少し先の未来から今を振り返った時、実るものがあるように働きたい、そのように思います。

 

 

 

 

礼拝メッセージ 6月11日(木)

「他の誰かのために」

社会科  上野麻彩子

こちらから讃美歌Ⅱ編1番「心を高くあげよ」を聞くことができます

【聖書】ヨハネによる福音書3章16節17節

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

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4月の半ば、新聞でこんな記事を読みました。
「1665年、イギリス中部のイーム(Eyam)という村の洋服店に、ペスト菌を持ったノミまみれの布地が持ち込まれた。すぐに、ノミを介してイーム村でペストが広がった。ペストは高熱で苦しみ、最後は全身が黒くなって死ぬため黒死病と呼ばれ、世界中で恐れられた病気である。しかし、このイーム村の牧師はこう決断し、村人を説得した。『ペストをこの村で食い止めなければいけない。村から出てはいけない。他の村にうつしてはならない。』イーム村の人びとは牧師の決断に従い、村をロックダウンした。最終的に700人いた村人のうち260人が死亡したが、まわりの村や大都市へのペストの拡大を食い止められたのである。」

こんにちは、社会科の上野麻彩子です。主に日本史の授業を担当しています。なぜ歴史が好きになったのかというと、最初は、算数の計算とちがって覚えたものを正しく書くだけで点数がとれて、嬉しかったから。もう少し成長すると、自分とは何か、人とは何かを歴史という事実の積み重ねを通して知ることができると思ったからです。

私は大学でも歴史を学ぼうと思い、文学部の史学科に自ら望んで所属しました。しかし、その頃からすでに文学部で学んだことはお金にならないと言われ、他の法·政経·商·理工·教育などの私の在籍した大学にある他の学部より価値がないように扱われることが多くありました。お金にならない文学部の、趣味の学問といわれるような歴史学の存在意義などなおさらない、という感じでした。

そんな私が大学二年生の時にとった授業で、西洋史の教授がこう言いました。「歴史というのは、過去に学び、過去をせおって未来を見通すことができる学問なのだ」と。その時は、教授かっこいい!と思い、これを心にとめておこうと思いましたが、なかなかこれを他の分野の人にわかってもらうことはできませんでした。

さて、歴史を勉強していると、かならずどこかで同じようなことが何度も起きることに気がつきます。「歴史はくりかえす」というものです。たとえば、戦争。今でも戦争はなくなりません。なぜか。それは、人間というのは自分だけが豊かになりたい、そのためには相手を出しぬいて支配して言うことをきかせたい、そういう本能に近いものを持っているのだと私は思っています。しかしその一方で人間は捨てたものではない、と思わせるような場面に出会うこともあります。それは、人間でも「他の誰かのために動けるのだ」と感じたときです。

この2020年のはじまりから、新型コロナウィルスの危機に直面した私たちは、極限状態の時にどうあるべきか、多くのことを試されました。この21世紀に生きる私たちが、350年前のペストの恐怖にさらされたイギリスのイーム村と同じような決断を迫られることがあるのだと思い知らされました。イーム村の人のように、村の全滅までかけて、誰か知らない人を守るためにロックダウンできる勇気があるか…といわれると、全部はさすがに無理かも…と思ってしまいますが、イーム村の人たちの、文字通り命をかけた行動には間違いなく心が動かされますし、その行動が価値あるものであったことは歴史が証明しました。そして、歴史を学ぶことは、過去に学び結果を予想し、私たちが未来を決断する手がかりを持つことなのだ…とあの時の大学教授の言葉を今年の春、私もようやく確信できました。

人間の本性は、極限状態で試されます。自分の弱さに負けた時の行動は、他の誰かを傷つけます。しかし、イエス·キリストは、弱さゆえに人を裏切り、社会で何の役に立っていないと思っている人間に、それでもあなたには存在価値があるということを命をかけて示され、共にいてくださること選んでくださいました。イエス·キリストが共にいてくださる事に励まされ、自らの弱さに負ける道を選ぶのではなく、少しでも他の誰かのために行動できるようにありたいと願い祈ります。

 

図書館から本の紹介 6月9日

『文房具56話』串田孫一 ちくま文庫

串田孫一さんのプロフィールには、随筆家·詩人·哲学者。登山、文芸誌『アルプ』創刊、大学教授、FMラジオ『音楽の絵本』のパーソナリティなど、多彩な活躍をされた。1915年生まれ、89歳で死去。とある。

私がお名前を知ったのは、大学時代に山登りをしていた時、本屋でみかけた『山のパンセ』。哲学的だが、スマートな文章を書く方だという印象だった。

最近、この本を店頭でみかけ、懐かしく思い手に取った。表紙や挿画に使われている木版画の雰囲気もよく、私も好きな文房具がテーマの短編集あったので期待が膨らんだ。期待通り、くすっと笑えるお話や、コロナ禍のいまだから余計に胸にささる一言なども登場し、明快な文章に「知性と教養」とはこういうものか、とほっとするやらがっかりするやら。

ともかく、文章を書こうと思っているがどのように書いてみたらいいのかと、考えあぐんでいる人は、読んでみることをお勧めする。お手絵本にするにはとても良い文章だ。
「お喋りの人の口にでも貼ったら効果があるかも知れない。」(「糊」より)
「これを使って、順に直角の線を引いて行くと必ず喰違いができる。」(「定規」より)
「洋服の埃とりは、まさか真の用途ではあるまい。」(「セロハンテープ」より)
など、辛口のところも魅力的である。
「物ではあっても付き合いが深くなると単なる物とは言い難い。」(「七つ道具」より)
「みんな落ちるところまで落ちると、却ってさっぱりしたような錯覚を抱いてしまう。」
たかが文房具、されど文房具。串田さんはこんな深い思いをもって、文房具を使っていらしたんだ、と最後の「文化を守る力」でとどめを刺される。

ラジオパーソナリティをされた『音楽の絵本』のYouTubeもお勧め。眠れない夜にいかが。

礼拝メッセージ 6月10日(水)

「主の声はささやくように」

国語科  照下千恵

こちらから讃美歌187番「主よいのちの言葉を」を聞くことができます

 

【聖書】列王記(上) 19章11~13節

主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。
「エリヤよ、ここで何をしているのか。」

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中学1年生国語の教科書に掲載されている「知識の樹木」に、次のような文章があります。
「周囲の音を聞いて自分がどんな地点にいるかを聞くには、まずしゃがんで、できるだけ低い姿勢をとりながら耳を澄ます。」―休校中の4月5月、私は実にそのような心持ちで過ごしていました。

今年は、いつもの年よりも、鳥の囀りがよく聞こえたような気がします。自宅は山と海とに近いので、この季節、ウグイスやホトトギスの声はよく山にこだまします。鳶が窓の外を横切っていくのも、よく目にします。が、今年は、今まで聞いたこともないような、朗らかな小鳥の囀りをよく耳にしました。
気持ちの上では、枯れ井戸の底にうずくまって、囀りを耳にしていた、といってもよいでしょう。生徒に会えない、声を聞くことができない、授業ができない…それは私にとっては、手足をもがれてうずくまっているような状態だったのだろうと思います。

そんな中、Gsuiteの導入が決まりました。無論、専任の先生方が念入りな議論をされた上での導入なのですが、講師の自分にとっては心の準備が伴わず、新聞で読んだおぼろげな知識を頼りに「Gsuiteとは」と検索することから始めました。
目の前に、使えるはずの手段があるのに、思うようにいかなくて、必死に資料を読み、説明動画を視聴し、ノートに書き込み、質問をし、心優しい同僚の手を煩わせ、試行錯誤を繰り返す日々。うまくいかないことが悔しくて、泣きながら勉強したのは何十年ぶりでしょうか。しかし今、井戸の底でうずくまった2ヶ月を経て、新しい生徒との繋がり方を手に入れた、と感じています。

主の声は、ささやくように小さい。しかし、洞穴のように暗い場所にこもっている時は、不思議とそのささやきが、はっきりとした力を持って聞こえてきます。
すべての予定がキャンセルされ、すべてのつながりが絶たれると、自分が本当は何をしたかったのかがよく分かります。
私の場合、生徒と出会いたい、言葉を通じて授業をしたい、という欲求だけが、純粋に残りました。
生徒と言葉と―その最も大切なものが、二つながらに自分の仕事であったことは、本当に幸いなことでした。
コロナ禍…「禍」(わざわい)と呼ぶにふさわしい今回の事態ですが、禍の中でこそ、神様のささやきに耳を澄ますことで、得られる力があります。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」

「あなたは何を求めているのか。この事態の中であなたができる、もっとも善い働きとは何なのか。」そのささやきに従って、今日も努力しようと思います。

礼拝メッセージ 6月9日(火)

「互いを思いやる心」

高三副担任  笠原裕子

こちらから讃美歌Ⅱ編26番「小さなかごに」を聞くことができます

【聖書】ヨシュア記1章9節

「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」

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3か月の自宅学習の後の登校で半日とはいえ、みなさん疲れたことでしょう。私もオンライン授業の準備など、休校期間も決してのんびり過ごしていたわけではないけれど、分刻みの日常に体が慣れず、毎日夕方になると疲れを感じていました。しかし、みなさんの笑顔は、周りの人にエネルギーを注いでいますね。ありがとう。

この日曜日に教会の帰り、3か月ぶりに美容院で髪の毛を切りました。さっぱりして気分がよくなり、店を出たら元町商店街は歩行者天国になっていて、多くの人でにぎわっていて驚いてしまいました。世の中と私には、ずれがあるのでしょう。油断は禁物と、自分に言い聞かせながら、食料品だけの買い物をし、自宅に向かいました。

この休校中、みなさんはどんなことを考え行動したのでしょう。私も多くの人の言葉を聞いたり、本を読んだりして、自分はこの後どのように生きていったらよいのかを考えていました。結論は出ていません。しかし、神様は私たちに大きな宝物をくださっていると思いました。それは、「互いを思いやる心」です。政治家のような偉い人でも幼い子供でも、強い人でも弱い人でも、お金持ちでもお金に困っている人でも、そのようなことに関係なくお日様が昇るように、誰もが感染症にかかるリスクを持っているのです。そのウィルスに対して、最前線で立ち向かう医療従事者の方々は、苦しんでいる人々を助けようと自分を用い、同じようにはできないですが、私たちも苦しむ人を広げないような生活を送っています。「自分が自分が」という利己的な考えでは、ウィルスに勝てないのです。これは、日本を含めた医療が進んでいる先進国だけではなく、私たちから遠く離れた南アメリカやアフリカ大陸の人たちに対しても、地球という家の中のすべての人が命を落とさないように思いやる心が必要なのでしょう。言い方はよくありませんが、コロナ19というウィルスがそれを教えてくれたのかもしれません。そして、私たちが神様から預かった宝物である「互いを思いやる心」(これを愛とよぶのだと思うのですが)を持つことによって、私たちは強められ、未来に進んでいけるのでしょう。

5月22日、あるラジオ番組で村上春樹という作家さんが、話をしていました。

「『コロナとの戦いは戦争のようなものだ』、そういう言い方をする政治家がいます。でも僕はそういうたとえは正しくないと思う。ウイルスとの戦いは、善と悪、敵と味方の対立じゃなくて、ぼくらがどれだけ知恵を絞って、協力し合い、助け合い、それぞれをうまく保っていけるかという試練の場です。殺し合うための力の戦いではなく、生かし合うための知恵の戦いです。敵意や憎しみは、そこでは不要なものです。簡単に戦争にはたとえてほしくない。そうですよね?」

さすが作家さん。的確な言葉で表現されていました。心の中にすとんと落ちるような言葉でした。

私たちは、まだまだ不自由な生活を強いられています。しかし、未来に向かって、全世界の人たちが笑顔になるために今自分に何ができるかを考えて行動していきたいと思います。みなさんも共に思いやり、助け合いましょう。

お祈り

お祈りします。ご在天の父なる神様、今朝も朝を迎えることができ、感謝します。私たちは、毎日の忙しさで心を亡くしてしまうこともありますが、今回のコロナウィルスの蔓延によって、何が一番大切なのかを考えることができました。どうぞ、自分のことばかりだけでなく隣人を愛せる人として役に立てるよう、これからも用いてください。体調の悪い人、心が弱っている人がいましたら、どうぞあなたが癒してください。これから続く授業をもあなたがそばで見守ってくださいますように。この小さき祈り、主イエスキリストの御名によってお引上げください。アーメン

卒業生の皆様へ

卒業生の皆様

お変わりなくお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。日頃、母校のためにお祈りお支えをいただき、ありがとうございます。

緊急事態宣言が解除され、6月1日から分散登校という形ではありますが、3か月ぶりに在校生の登校をスタートさせることができ、今日は2週目のスタートを無事に迎えられましたことを感謝しております。

ただ、依然として感染の収束が見えない状態が続いておりますので、今しばらく、証明書取得などの場合を除いて、卒業生の皆様の母校訪問はご遠慮いただきたいと思います。また、証明書申請もお電話やHP上からお申込みいただけますのでご活用ください。皆様にお訪ねいただけるようになりましたら、改めてお知らせいたしますので、それまでお待ちいただければと思います。

一日も早く皆さんにお会いできる日が来ますこと、また、卒業生皆様とご家族皆様のご健康が守られますことをお祈りしております。

礼拝メッセージ 6月8日(月)

「めぐみを受ける」

司書教諭  高橋 香

 

こちらから讃美歌234番A「昔主イエスのまきたまいし」を聞くことができます

 

【聖書】 マタイによる福音書 13章3節~9節
イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のあるものは聞きなさい。」

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1977年に発行された「捜真小学校20周年グラビア」に次のような文章があります。

「めぐみを受ける

『種を蒔いて置いたら みんな生えて出て来た 僕は感謝した 一粒のまちがひなく からを破って飛んで出た』 室生犀星

捜真小学校も今年で20周年を迎えられるそうで、おめでとうございます。私はもはや、捜真での12年間の生活を終え、この春から新しい土に根を植え替えました。でも、私の種は捜真で蒔かれ、水を与えられました。そして、いつの日か咲く花は、やはり捜真の花でありましょう。よい地に蒔かれた種は、よい実を結ぶと言います。その言葉を大切にして、私の種が、そして皆様の種がよい実を結ぶよう、祈っております。」

これは、43年前、グラビアに寄せた私の文章です。当時、私は高校を卒業したての大学生でした。長い中丸の丘での生活から、都会のど真ん中の共学に通い始め、学食にはなんとなく入れずに、中庭の欅の下のベンチでお昼ご飯を食べていました。特別母校が懐かしかったわけでもなく、ぼんやりと少し目線を遠くにして、身の回りの新しい環境を眺めていた時期だったと思います。多分、聖書の箇所がふと浮かんで、文章を書いたのでしょう。後日、小学校の担任の先生から「寄稿してくれて嬉しかった。」という葉書をいただき、ひどく恐縮したことを今でもよく覚えています。

聖書がずっとそばにありました。母校への愛着よりも、聖書への愛着のほうがずっと強いと今でも思っています。聖書の言葉が、その後の私の人生のピンチや喜びの時に、すっとやってきました。

この種蒔きのたとえもその一つです。この後の18節からは、親切にも「たとえの説明」というものが書かれています。23節には「よい土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
とあります。

在校生だった時は、「私はどんな土地に蒔いてもらえるんだろうか。何十倍の実を結ぶのだろうか。」と思いながら礼拝に参加していました。
でも今、この聖句を読んでみると「御言葉を聞いて悟る人」をすっかり読み落としていたことに気づきます。もしかしたら、よい土地は待っていれば神様から与えられるものではなく、自分で良い土地を見つけようとする人に与えられるのではないかしら。もしかしたら、「百倍、六十倍、三十倍」と大きな数字でなくてもいい。一倍でも二倍でも実を結べたならいいのではないかしら。と思えます。

「私たちが自分の耳を傾けて聞く」ことを待っていてくださる方が、私たちのそばにいてくださる。「一粒のまちがひなく」神様から私たちに蒔かれた種が、実を結ぶよう、今日一日を過ごしていきたいと思っています。

中学部・高等学部入学式、そして登校再開

6月1日から登校が再開され、初日には中学部、高等学部それぞれの入学式も行われました。

中学部入学式は2回に分けて行われ、高等学部入学式の中では高校からの入学生12名が紹介されました。あいにくの雨模様のお天気でしたが、新入生全員が参列できたことはとても喜ばしいことでした。

同じ日、上級生は、昨年度のクラスに置いたままになっていた荷物を新しい教室に移動させ、授業開始に備えました。

3日からはクラスを半分にしての授業もスタート。ようやく学校での2020年度を始めることができました。いつもと違う学校生活に少し緊張した表情の生徒たちですが、中2以上の生徒たちは約3か月ぶりの友達との再会に笑顔があふれました。中1も授業がスタートしました。これからは学校での授業と家庭でのClassroomを使っての学習を組み合わせて学習が進みます。

 

 

礼拝メッセージ 6月5日(金)

「希望の歌」

音楽科  仁平のぞみ

讃美歌174番「起きよ、夜は明けぬ」を聞くことができます

讃美歌346番「たえに麗しや」を聞くことができます

 

 

【聖書】詩編 84編6節〜10節

いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気をだし/心に広い道を見ている人は。

嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。/雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。

彼らはいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。

万軍の神、主よ、わたしの祈りを聞いてください。/ヤコブの神よ、耳を傾けてください。

神よ、わたしたちが盾とする人をご覧になり/あなたが油注がれた人を顧みて下さい。

ヨハネによる黙示録22章16節

わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。

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新型コロナウイルスが蔓延して、社会全体が落ち着かなくなってきた3月末頃、なんとなく気持ちが沈むような時に、私は2つの讃美歌をふと思い出し口ずさみました。それは讃美歌174番「起きよ夜は明けぬ」と346番「たえにうるわしや」です。学校の礼拝ではほとんど歌うことがないので、知らない人が多いと思います。

この2曲は16世紀後半にドイツで活躍したルター派の牧師フィリップ·ニコライ(1556~1608)が作詞作曲した曲です。このニコライが北ドイツ、ヴェストファーレン州のウンナという町の教会で牧師をしていた1597年の夏から1598年の初めにかけて、恐ろしい感染症ペストが大流行しました。この期間、牧師であるニコライは毎日毎日、亡くなった人々の埋葬に立ち会いました。多い時は1日に30人もの人を埋葬したと伝えられています。町の通りには埋葬が間に合わない棺が並べられ、嘆きの声が溢れていました。彼自身も大切な家族を亡くしています。

ペストの惨禍が過ぎた後には、生きることに絶望した人々や、神などいるものかと自暴自棄に陥って荒れた生活に身を落としていく人々が取り残されました。このような中でニコライは聖書のことばに集中し、人々の救いのために祈り続けます。そしてこの讃美歌の詞にたどり着くのです。

174番はマタイによる福音書25:1~13「10人のおとめ」のたとえから、346番は上記の聖書箇所から言葉が取られています。文語体の詞はみなさんには判りにくいかもしれませんが、どちらの詞も“キラキラ”していて希望に溢れ、ひたすら神様を讃美しほめたたえています。そしてイエス·キリストの救いのみわざを喜び歌い、その歌声は途切れることはないといっています。まるで遠くにいる恋人に宛てたラブレターのようです。人々が嘆き悲しみ、心を震わせ、暗闇をさまよっているような時に不謹慎ではないのかと思うほど、この詞のことばは“キラキラ”と光っています。

ニコライは苦難の時こそ心を荒げるのではなく、静かに主の救いに希望を持つようにと町の人々を慰め励ましたのです。生も死も人の想いをはるかに超えた主のご計画の中にあるのだから、恐れず、主に全幅の信頼をおいて歩むこと、主の声に耳を傾け、花婿を心待ちにしているおとめたちのように、心の目を覚まして救いにあずかるようにと声を上げ続けました。心の平安を得るにはそれが一番良いことだと確信を持ってこの讃美歌を作り歌ったのです。その歌は町から町へ希望の歌として歌い継がれ、後世の多くの作曲家たちによって合唱曲やオルガン曲にアレンジされて、今や世界中で歌われています。

「感染症」というキーワードでこの歌が私の心によみがえりました。心を騒がせることなく、静かに主のみことばに耳を傾けて平安であれと神様が呼びかけてくださっているように感じます。自主的にSNSを通して毎日礼拝を守るグループが起こされて、静かに祈る生徒たちがたくさんいるこの学校で、私自身もそのようでありたいと思います。

お祈り

毎日暗い重苦しいニュースばかりが社会を覆っている今この時も、神様が共にいて慰め励ましてくださることに感謝いたします。私たちが自分のことばかりでなく、広く社会に目をむけてたくさんの人々のために祈ることができるよう力をお与えください。命を救うために日々働く医療従事者、私たちの生活を守るために働くたくさんの仕事従事者、その他私たちの目に触れないところで苦労を重ねていらっしゃる多くの方々のうちに主よりの励ましと慰めが豊かにありますようお祈りいたします。主の聖名によって アーメン

 

 

自粛中でも取り組めるSDGs第4弾

こんにちは、捜真SDGs実行会です。
本日は「自粛中でも取り組めるSDGs」の第四弾の配信です!
先週も報告を送って下さった皆さん、ありがとうございました。
皆さんが協力してくださっていること、そして報告を頂けることがとっても嬉しいです!
これからも配信をしていきますので、引き続きよろしくお願いします。
今週もたくさんの報告をお待ちしています。こちらのメールアドレスにお送り下さい。
【第四弾】
①差別について考えてみよう! 世界では、コロナヘイトと呼ばれるコロナウイルス感染者や、アジア人に対して、暴言を吐くなどの差別が起きています。今だからこそ、このような差別について考えてみませんか?
②家事の役割分担をしよう!
 家族で過ごすことが多くなった今、お互いが気持ちよく生活できるように家事を任せきりにするのではなく、率先して関わりましょう!
【第四弾の目標ゴール】
【目標ゴールに関する豆知識】
「10  人や国の不平等をなくそう」
•不平等は、人種や民族·宗教などから起こり、豊かな人と貧しい人の格差を広げること
 につながります。
•国の経済格差もあり、発展途上国の商品は安く売られてしまいがちです。
  捜真で行っているフェアトレードの活動は、10のゴールを解決する方法の1つです。
「16  平和と公正をすべての人に」
•現在、武力紛争の地域に住んでいる人は2億人以上いると言われています
•住んでいる地域や人種·性別が理由で公正さが保たれていないのが現状です。
「5  ジェンダー平等を実現しよう」
·ジェンダーとは、生物学的な性別ではなく、社会的·文化的につくられる性別のこと
 を言います。
·2019年ジェンダー·ギャップ指数で、日本は153カ国中121位。日本のジェンダー格
 差は深刻です。
·ジェンダー平等が実現されるためには、私たちの意思と行動力も必要です。
 ※この3つのゴールは、とても密接な関係にあります。どれも大きな問題ですが、身
  の回りのことから考えることで、少しづつ解決させていきましょう。

 

 

 

捜真といえば…… 先生たち、走りました【動画】 

在校生のみなさん、この土日が明けたらいよいよ登校です!
久しぶりの学校、ワクワクしてますか? 少し緊張しているかもしれませんね。
3カ月ぶりに友達に会うなんていう経験、今までにありませんでしたから!

学校からのお知らせにあったように、バスは混雑が予想されるので
反町駅や三ッ沢下町駅から徒歩での通学をお願いします。
と言うことは···。
そうです!久しぶりにあの〇〇坂を上るということですね!

さあ、みなさん、頑張って!!
動画はこちら

礼拝メッセージ 6月4日(木)

「『自分の居場所』のない救い主」

中2担任·聖書科  藤巻 正悟

こちらから讃美歌Ⅱ編196番「救い主は待っておられる」を聞くことができます

 

【聖書】ルカによる福音書2:1-7

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

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1.誰にでも必要な『自分の居場所』

『自分の居場所』がない、それほどつらいことはありません。

子どもであれ大人であれ、人間が人間として生きていくには『自分の居場所』が必要です。捜真生の皆さんは『自分の居場所』と聞くとどこを思い浮かべますか? 家でしょうか? 自分の部屋? リビング? ダイニング? 学校でしょうか? 教室? 部室? カフェテリア? チャペル?

もちろん家や学校以外に『自分の居場所』がある人も大勢いるはずです。

 

2.目には見えない『自分の居場所』

『自分の居場所』というのは、目に見える物理的な空間のことだけではありません。『心の居場所』という言葉を聞いたことがありますか? 『心の居場所』とは、何かをしている時や誰かと一緒にいる時などに「飾らない自分でいられる」「リラックスした自分でいられる」、そういった「時間」や「つながり」を意味しています。

それが存在することによって、安心感や自己肯定感を持って自分らしく過ごせる『心の居場所』、これも『自分の居場所』に含まれます。 物理的にも精神的にも、人間は誰もが『自分の居場所』を不可欠としているのです。

 

3.生まれた時からイエスには『自分の居場所』がなかった

イエスの誕生、それは非常にみじめなものでした。

「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」、これがイエスが家畜小屋で生まれた理由です。ヨセフとマリアは、ローマ帝国の指示で住民登録をするためにベツレヘムを訪れ、そこで予定より早く出産をすることになりました。しかもどこの宿屋も満室で、2人は泊まる場所を確保できませんでした。『自分の居場所』のない夫婦のもとに生まれた『自分の居場所』のない赤子、それがイエスだったのです。

そのようにして生まれたイエスは、敵対する権力者たちに捕らえられ、十字架で処刑されて死んでいく最期を遂げることになりますが、その意味でイエスは最初から最期まで『自分の居場所』のない生涯を歩んだと言えます。

 

4.『自分の居場所』のない救い主が共におられる

家畜小屋に生まれたイエスは、高い所から人間を見下ろしているのではなく、この世のいちばん低い所に身を置くことで、徹底的に人間と共に生きようとする救い主です。私たちと共にいてくださるイエスは、悲しみや悩みなど全く知らないという方ではありません。痛みやうめきをどこまでも知り抜いています。

みじめな誕生から十字架の死に至るまで、『自分の居場所』がないという最大の苦しみを味わい尽くした救い主だからこそ、私たちが経験するあらゆる苦しみに寄り添ってくださいます。

「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ2:18)

共におられるイエスが『自分の居場所』のない方であったことを深く悟る時に、私たちには「苦難から立ち上がる力」と「もう一度新しく生きようとする力」が与えられるのではないでしょうか。

 

 

礼拝メッセージ 6月3日(水)

「先生、どうして恋愛の楽しい部分はすっぽり抜けてしまうのですか?」

中1担任 新井 昂太

こちらから讃美歌453番「聞けや愛の言葉を」を聞くことができます

【聖書箇所】列王記上 19章6節~8節
主の御使いは戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ。」と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。

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「先生、どうして恋愛の楽しい部分はすっぽりと抜けてしまうのですか?楽しい部分がいいところなのに、出会ったと思ったらすぐにお別れなのですね」。というような質問だったと思います。大学生の私は、その時習っていた教授に聞いてみました。

大学で私は和歌を勉強していました。(和歌とは、五·七·五·七·七のあれ、百人一首などのあれ、ですよ。)和歌によく詠まれる二大テーマは「季節」と「恋愛」です。そうして、その時のクラスでは「恋愛の和歌」が教材になっていました。私たちのクラスは思いついたらすぐ質問、どんなにくだらないことでもすぐ質問、というクラスで、その時の私も深く考えずに先ほどの質問を教授にぶつけた、というわけです。
というのも、和歌集の「恋」のテーマを見ると、「恋心が芽生える→会いたいなあと思う気持ち→お別れした後のさみしさ→また会いたいと思うさみしさ→すっかり会えなくなってしまった悲しみ」と続いていくのです。要するに「会いたい」と思ったらすぐに「さみしい」。だから私は、どんな質問にも完璧な答えを返してくれるその先生に、「そこには日本文化の考え方がね…」とか「そこには歌人の思いが込められていてね…」といった解答を期待して、質問をしたのでした。
先生の答えはこうでした。
「そりゃあさー、デート中はデートが大事ですから。そんな大事に時に和歌なんか詠んでちゃダメでしょー。」
「和歌なんか」と言い切った先生のコメントに、そりゃそうだわー!とクラスで笑ったのをよく覚えています。(先生はその後ちゃんとした解説もしてくれました。)
続けてクラスメートがこんなことを言いました。
「確かにさ、『楽しい』っていうのは皆同じように『楽しい!』って感じだけど、『悲しい』っていうのは人とか場面でそれぞれじゃない?だから歌にできるのかもよ。」と。

その言葉に私は確かな説得力を感じたのでした。もちろん、「悲しみを共にする」ということはあり、それはとても大切なことです。でも、悲しみの色合いというのは私達一人ひとりが持っているもののような気がします。

新型コロナウイルスがあろうとなかろうと、私たちには日々悲しいことや辛いことがやってきます。楽しいことはたくさん起こってほしいけれど、悲しいことや辛いことにはなるべく起こってほしくありません。そして悲しいことは早く忘れたいものです。
でも、今。まさに今、あなたが悲しんでいることは、あなたという人間の大切な、中心的な「何か」を表しているのではないか、と思ったりもするのです。あなたという人間だけが、そのことにそんな風に悲しめる。そこにあなたの大切な何かがある。
その大切な何かこそ、私たちが神様によって与えられたもの。それに基づいて「生きよ。」と言われたもの。そんな風に思って歩んでゆければよいな、と思っています。

 

ご入学おめでとうございます!

6月2日、2020年度入学式が行われ、一年生のみなさんをお迎えいたしました。

ほっとした顔、ちょっとドキドキしている顔、にこにこ笑顔···新しいランドセルを背負う姿は、どこか誇らしそうでした。

ご入学おめでとうございます!

 

 

礼拝メッセージ 6月2日(火)

「前に向かって進もう!」

体育科 小澤 優子

こちらから讃美歌448番「み恵みを身に受くれば」を聞くことができます

【聖書】 フィリピの信徒への手紙 3章13-14節

兄弟たち、わたし自身は既に捉えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト·イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

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4月26日、今年の水泳部の一番大きな目標だったインターハイの中止が決定しました。その次の日、水泳部の高三の生徒が水泳部のclassroomに後輩たちに向けてメッセージを送りました。そこにはその生徒のインターハイ出場にかけてきた強い思いや『私達高三の夏は始まらないうちに終わってしまった。でも、みんなにはまだ来年があるということを忘れないで自分の目標に向かって真っすぐでいて欲しい』と後輩たちに託す願いが書かれていました。そのメッセージをきっかけに他の生徒からも、自分も大きな目標を失ってつらい、悔しい、悲しいといった高三の生徒に共感するメッセージがたくさん寄せられました。

そんな中、ある生徒が「自分は先輩たちとは違う思いです」という書き出しでメッセージを載せました。「今自分の中にある1番大きな感情は安心です。」と。その生徒はタイムが順調に伸びている先輩たちとは違って自分は調子が不安定で自分のせいでインターハイに行けなくなったら一緒に泳ぐ先輩たちはもちろん、応援してくれる沢山の人たちをがっかりさせてしまうと思っていたというのです。だからインターハイが中止になってこの思いから解放されて安心してしまっている自分がいる。そしてその時初めて抱えてきた思いを言葉にして、わけもわからず泣いているというものでした。

私はそれを読んで彼女がここで正直な気持ちを吐き出せて良かったと心からそう思いました。もしこのもやもやした思いをかかえたままで練習してもその成果は出にくくなったでしょうし、部活にいても後ろめたい気持ちでいづらさを感じながら過ごすことになってしまうと思ったからです。また、自分の気持ちを誰かに伝えたくても相手の反応が怖くて出来ないということは誰にでもよくある事だと思います。ましてや今回は自分だけが違う思いだとわかっていましたからその状況での告白はものすごく勇気のいることだったにちがいありません。それでも彼女が自分の気持ちを素直に伝えられたのは先輩たちを信頼していたからではないでしょうか。みんなとは違う思いの自分を受け入れてくれると信じられる関係が先輩と後輩のあいだに築かれていたことを実感でき教員の私にとってこれはとてもうれしいことでした。そしてうちあけられた上級生の方としても彼女は中学生の時から大会で華々しく活躍していて水泳には自信を持っていると思い込んでいたと思うので、強いと思っていた後輩が不安な気持ちを素直に自分たちに伝えてくれてうれしかっただろうと思います。そして先輩である自分がこの後輩の支えになりたいと思った上級生は多かったのではないかと私は思っています。

実際、彼女の正直な気持ちに対して高三の生徒からは『とってもわかるよ』『怖いとか不安とか誰でもあることだから安心したことは悪いことではないよ』『あなたのこと嫌いにならないよ』『あなたの気持ちがわかってよかった、ありがとう』などという言葉が返ってきました。そのことで彼女は先輩たちに気持ちを伝えて良かったと言っていました。そして私はこれで彼女がすっきりした気持ちで前へ進む事が出来ることになって本当によかったと思いましたし、この暗い状況の中、光が見えた気がしました。弱い自分をさらけだすことは結果、自分を強めることになりました。そしてチームの絆も一層強くなったと私は確信しています。

新型コロナウイルスの流行により、当たり前だった日常が当たり前でなくなりました。そして目標も夢も奪われる経験はできればしたくなかったのが本音です。でも後ろをふり返って嘆いてもそこからは何も生まれません。前を向いて進んでいきたいと思います。昨日から学校が始まりました。生徒の皆さんの声が校舎内に響き静まり返っていた学校に活気が戻ってきました。ここからまた皆さんと共に新しい気持ちで新しい目標に向かって希望を持って日々過ごしていきたいと思います。

新しい学校生活が始まりました!

6月1日、待ちに待った学校再開です。みなさんあらためまして、進級おめでとうございます。

これまでオンラインで学習したり、お友達と顔を合わせたりしてきましたが、やはり実際に会えるのは嬉しいもの。こどもたちの笑顔がはじけていました。

とはいえ、しばらくは半日ずつの2部登校制のため、全員で顔を合わせるのはまだ少し先になります。また、マスクの着用はもちろん、登校時や授業後の手洗い、間隔を開けた座席、特別な時間割など、これまでとはちがう学校での過ごし方になります。不自由さを感じることもあるかもしれませんが、私たちだけでなく、家族、お友達、日本や世界の人たちのいのちを守るため一つひとつ大切なことになります。どうかともに助けあい、支え合いながら、新しい生活を歩んでいきましょう。

礼拝メッセージ 6月1日(月)

「磨き合い」

高三副担任 関 一樹

こちらから讃美歌Ⅱ編26番「小さなかごに」を聞くことができます

【聖書】箴言27章17節

鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。

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皆さんこんにちは。

いよいよ今日から学校への分散登校が始まりますね。「久しぶりに友達に会える!」と気持ちが高まっている方や、どのような学校生活になるのかと不安に思っている方もいらっしゃるかと思います。特に中学1年生の方や高校から入学された方はなどは、「友達できるかな…」と不安に思っている方も多いかもしれません。冒頭で御言葉を紹介させて頂きましたが、これは私が友人と会ったり、ぶつかったりする際にいつも思い出す御言葉です。じきに学校が始まり、クラスメートや友だちと会うことができるようになるということで、ここを選びました。

私はこの御言葉の意味は「二本の鉄の刃をこすり合わせるとお互いが磨かれてより鋭く、より輝きを増すのと同じように、人は人との関わりでお互いが磨かれて成長する」という風に解釈しています。人とお互いに成長するという意味では、切磋琢磨という言葉にも似ているでしょうか。

この御言葉では友という字が使われていますが、友と一口に言っても一緒にいて居心地が良い人や、好きだけど嫌な部分もある人、心の中で苦手だなと思ってしまう人など、色々な友がいると思います。また、必ずしも 友=友だち ということでは無く、普段自分が関わりのある人の事を指すかもしれません。

「友によって研磨される」という言葉は一見「友と関わることで研磨されるのだから、仲良しの友と沢山関わりなさい」という意味のようにも感じられますが、苦手と感じる友との関わりも含んでいるのではと思います。私の経験談ですが、「こいつ自己中だな~」と感じたり、友人の態度にムカついてしまったりする際に自分を省みてみると、自分もそういうところがあるなと思わされることが意外とあるものです。友人と話して刺激を受けた時などにこの御言葉を思い出し、素晴らしい友人を与えて下さった神様に感謝するのはもちろんのこと、私は友人とぶつかった時にもこの御言葉を思い出し、神様はその友を通して私に何を教えて下さろうとしているのかと考えます。

今までの日々は、ある意味、居心地が良い友とテキストや電話を通して関わり合うものだったかもしれません。これからはそういった友と直接会うことができるようになっていき、苦手と感じる友と関わる機会も増えるかもしれません。新しい友との出会いもあるでしょう。この期間に新しいことを始めたという人も多いでしょうし(私も人生初の料理に挑戦してみたりしました。)

前から知っていた友人と学校で会っても、話してみたら「え?休校中にそんなことやってたの⁉すご!」という驚きがあったり、変化があったりするかもしれません。そういった友との関わり合いで私たちは刺激を受け、磨かれていくのではないでしょうか。COVID-19による影響で密集を避けるという動きの中、捜真生同士の対面での関わり合いが始まって行きますが、刺激を与え合い、磨き合っていく姿を見られることを楽しみに思います。

6月1日 入学式が行われます

政府による緊急事態宣言が解除され、在校生の準備登校が6月1日からスタート。同じ日に新入生の入学式が行われる予定です。
「捜真版『新しい生活様式』」にのっとってのいつもと違う入学式ではありますが、式の中でオルガンによって校歌が演奏されます。新入生の皆さんも在校生の皆さんも、校歌を聞いてテンションアップ!しましょう。

 

図書館だより 5月30日(土)

杉山先生から是非皆さんにと、本の紹介が届きました。

『アルジェリア、シャラ通りの小さな書店』カウテル·アディミ 作品社

「1960年4月9日
ここは恐ろしい場所だ。外出しないよう言われるが、もちろん働かなくてはならない。外出を控えるよう新聞で書く連中は、僕らがどうやって生活費を稼ぐと思っているのだろう。」

エドモン·シャルロの手帳のこの1節を読んだとき、ぎょっとしました。
ちょうど60年後の今、新型ウイルスで命を落とさなくても経済で亡くなる人がいるかもしれない状況だからです。

60年前の外出禁止令は、アルジェリアの独立戦争のさなか、フランスに住むアルジェリア人に対して出され、パリ警察による虐殺も起きたそうです。
エドモン·シャルロはアルジェリア生まれのフランス人で、21歳のときアルジェに書店兼出版社を開き、今話題の『ペスト』を書いたアルベール·カミュを世に送り出した実在の人物です。

〈真の富〉と名付けられた店には「若者の、若者による、若者のための」という看板を掲げ、激動の時代に命をかけて本を愛しぬきました。

著者はアルジェ生まれの女性作家。この作品は現代の大学生(読書嫌い!)のエピソードが挟み込まれている巧みな構成で、「高校生のルノドー賞」をはじめ、いくつもの文学賞を受賞しました。フランスの高校生に選ばれた作品なので、ぜひ捜真生にも読んでほしいです。