投稿者「soshin」のアーカイブ

礼拝メッセージ 7月17日(金)

「Don’t Worry, Be Happy」

中1担任 杉山 知子

こちらから讃美歌174番「起きよ、夜は明けぬ」を聞くことができます

【聖書】使徒言行録20章7節~12節
週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。エウティコという青年が窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。
「騒ぐな。まだ生きている。」
そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。

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7月3日(金)、久しぶりにチャペル礼拝を担当しました。
パイプオルガンの響きはやはり生(なま)がいいですね。
仁平先生が先月HP礼拝で紹介してくださったこの讃美歌174番は、十数年前に99歳で亡くなった祖父の愛唱讃美歌でしたから、懐かしく思い出していました。
「起きよ」「目覚めよ」という歌詞ですが、当たり前にチャペル礼拝を守っていた頃、チャペルといえば寝る時間だったという人も中にはいたのではないでしょうか。

私たちは、青年エウティコのように、寝るつもりがなくても眠りこけてしまうことがあります。がんばっていても、失敗して「下へ落ちて」しまい、「死んで」いるも同然と自ら思い込んでしまうこともあります。でも、神さまは、そんな私たちを抱きかかえ、「まだ生きている」と言ってくださるのです。
私たちが生きるかどうかは、創ってくださった神さまが決めます。朝、目が覚めたということは、その日、神さまが生きる意味を与えてくださっているということなのです。だから、SNS等の誹謗中傷によって自殺に追い込まれたなどというニュースを聞くたびに、腹が立って仕方がありません。なぜその人を創ってもいない人々にとやかく言われなくてはならないのかと。

ブレイディみかこさんの著書『THIS IS JAPAN』の中で、元アムネスティ日本事務局長の寺中誠さんは、人権について次のように述べています。
「私たちはみな資源に依存して生きている。ところが、その資源が消えることもある。お金もそうだし、体の機能が停止するとか、言葉がわからない国に行かなくてはならないとか。そのときに、資源が全部なくなっちゃったとしても、最後まであるのが人権です。(中略)お金があるならお金を使いなさい。友達がいるなら友達に頼りなさい。体力に自信があるならそれを駆使して頑張ればいい。でも、それが全部なくなって頼るものがなくなったとき、底にある蓋が人権です。」
みかこさんはこう続けます。
「人権というのは、アフォードする力[支払う能力](日本流「人間の尊厳」)もコミュニケーション力(相互扶助スキル)も、すべての力を人間が失ってしまった時にそこにあって、わたしたちを丸ごと受け止めてくれるものなのだ。そう思えば、人権は眉間に皺を寄せて思索するものでも、ましてや、そのために他者を傷つけてまで戦わねばならぬ正義のスローガンでもない。人権とは、わたしたち一人ひとりを楽にさせてくれるものなのだ。」
ここで「人権」を「神さま」に置き換えると、実にしっくりくると思いませんか?
人の悲しみ、苦しみをご自身で味わい尽くし、死に打ち勝ってくださった、この神さまが丸ごと受け止めてくださるから、私は不安に怯えることがありません。この神さまが丸ごと愛してくださるから、私たちも隣人を愛する小さな行いができるのです。

最後に、みかこさんの本に出てきたボビー·マクファーリンの「Don’t Worry, Be Happy」の歌詞の一部をご紹介します。

In every life we have some trouble
みんな人生色々あるさばってん
When you worry you make it double
そげん悩んだっちゃろくなことなかろーもん
Don’t worry, be happy
心配せんとハッピーでおらんね
(Translation by KEI YouTube より)

礼拝メッセージ 7月15日(水)

捜真では今日15日から全体での登校が始まり、学校でも放送という形ではありますが、全校そろって礼拝をおこなうことができるようになりました。今日から28日までは、分散登校中に行われた校内チャペルでの有志礼拝のお話を、毎週(月)(水)(金)にご紹介します。

有志礼拝は高3の生徒の申し出で始められました。中1から高3までの生徒が毎日30人~50人、そこに教職員も加わり、2週間にわたって共に聖書の言葉を聞くことができました。

 

「幸福な世界

中1学年主任 佐々木 広

こちらから讃美歌187番「主よいのちの言葉を」を聞くことができます

【聖書】ルカによる福音書12章16〜21節
それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」

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アメリカのヨセミテ国立公園にある断崖絶壁、エル·キャピタンの写真です。高さは900メートルで、東京タワーの約3倍、東京スカイツリーの1.5倍です。
3年前、この崖に命綱なしのフリーソロクライミングで挑んだクライマーがいます。その人の名はアレックス·オノルド。彼の挑戦を密着取材したドキュメンタリー映画を、先日テレビで観ました。番組の紹介に「衝撃の結末」とあったので、いつ彼が手や足を滑らせて落ちてしまうのかと、観ている途中で怖くてテレビを止めたくなる、緊張でやたらと手汗をかく、身体に悪い映画でした。
ただ、私にとっては結末よりも衝撃を受けたことがあります。
それは、彼の言葉と生き方です。
命綱なしのクライミングなんて、どれだけクレイジーな人なのかと思っていたら、淡々とした、物静かな、欲望とは全く縁がない、哲学者みたいな人でした。彼は、死にたいわけではなく、無謀な人でもありません。死なないために、厳しいトレーニングと緻密な予行演習を繰り返して、本番に挑みます。家は持たず、キャンピングカーのような車で移動しながら、生活のほとんどがクライミングのためというストイックな生活をしています。
世界的に有名なクライマーなのでファンがいて、なんと恋人ができます。クライマーではない一般の女性で、映画にも出てきます。アレックスとは対照的な明るく社交的な人で、その影響で彼にも変化が表れ、家を買うことになりました。彼女は当然、彼には死なないでほしいわけです。彼の怪我をきっかけにフリーソロクライミングをやめてほしいと持ちかけました。しかしアレックスは、彼女の気持ちを気遣いながらも、自分にとっては彼女の願いよりも挑戦が優先だと言いました。映画の中の言葉はこうです。
「彼女は人生に幸福を求めている。僕はすべて挑戦のためだ。誰でも幸福に安住できる。幸福な世界には何も起きない。そこにいても何も達成できない」。
「幸福な世界には何も起きない」という言葉が、私にとっては衝撃的でした。

私たちは、危険やリスクがない、幸せな安定した生活がいいと思っています。
例えば、我が家の子どもは今年受験生です。親の立場からすると、子どもたちには、将来の安定した生活をめざして少しでもランクが上の進学や就職を、と願います。ところがアレックスは、幸せに安住する人生、安定した人生には何も起きない、自分にとっては生きていないのと同じだ、というのです。私や妻が当然のように願う子どもの幸せな人生は、「何もない、何も起きない人生」なのか、と衝撃を受けたのです。また、自分自身の人生についても、同じように考えさせられました。

今日のイエス様のたとえ話に出てくる金持ちと、私たちの考え方は同じではないでしょうか。仕事である程度成功して、何年も安心して生活できるくらいお金や財産を蓄えて、あとは悠々自適で楽しく暮らしたい、というのがこの世の普通の価値観です。
ところが神様は金持ちに対して「愚かな者よ」と言います。
ある時、イエス様は教えを求めてきた金持ちの若者に、「持ち物を全部売り払って、私についてきなさい」と言いました。その若者は、財産を捨てることができずに去って行きました。安定した、幸せな生活を捨てるのは、どんなに真剣に人生のことを考えている人でも難しいのです。それは、私たちも同じです。しかし、そういうものを捨てないと、そこから離れないと見えないものが、人生にはあるのだと思います。

何年か前に高校のクラス会があり、その時に私は、かつてのクラスメートの1人からそういう話を聞きました。
クラス会では、集まった人全員が近況報告をしたのですが、その中で、裁判官をしていたA君が近況報告をしました。裁判官といえばエリート中のエリートです。しかし彼は、家庭の事情で裁判官を辞め、今は特技である音楽を生かして障害を持つ子どもたちの施設でボランティアをしながら、法律相談で生計を立てていると言っていました。そして彼はこう言いました。障害を持った子どもたちに関わるようになって、子どもたちの笑顔に触れてわかったことがある。価値のない人間なんていない。障害がある人も障害がない人も皆同じように、生きていることそのものに価値がある。自分はそれを発見しました、と。彼は、エリートコースから外れたときに、人生には仕事の成功や上のランクを目指すことよりも大切なことがあると気づいたのだと思います。アレックスの言葉を借りれば、人生に大きな出来事が起きたのです。クラス会の近況報告の話としては、やや場違いだったかもしれません。しかし私の心には、この話が最も強く残りました。なぜなら、私も含めて多くの人は、そういうことに気づかずに、あるいは気づいていても仕事が忙しいとか何とか言って、見ないようにして生きているからです。

今日の聖書の言葉でイエス様は、命を取り上げられる金持ちについて、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」と言っています。
神の前に豊かになるとはどういうことでしょう。今日の聖書箇所の少し後に、こういう言葉があります。
ルカによる福音書12章33~34節
「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなた方の富のあるところに、あなた方の心もあるのだ」
私たちの心が、持ち物やお金や安定した生活への執着から解放された時、神様は本当に価値のある「尽きることのない富」(少し前の箇所ではそれを「神の国」と言っています)を与え、私たちの人生を真の意味で豊かにしてくださるのだと思います。

祈り
神様、ともに礼拝の時をもつことができたことを感謝します。
私たちは自分の幸せや安定した生活からなかなか一歩踏み出すことができない弱さを持っています。人生にとって本当に大切なものを私たちが見つけることができるように、神様の導きをお与えください。
災害やウィルスの感染拡大により、多くの人が苦しみの中にあります。自分のことだけでなく、困っている人たち、苦しんでいる人たちのことを考えて行動することができるように、私たちにできることを教え、行動する力をお与えください。
イエス·キリストのお名前によってお祈りします。

 

日能研「おうちで自由研究フェスタ2020」に参加 捜真SDGs実行会

 

日能研の「おうちで自由研究フェスタ2020」のサイトで、捜真SDGs実行会の生徒が、Tシャツをエコバックとクッションにリメイクする方法を紹介しています。

インドのコットン畑で働く子どもたちの状況を伝えながら、私たちが商品を選ぶ時に考えたいことや、商品を最後まで使うことの大切さ伝えています。

作り方は動画でも説明しています。是非ご覧ください。

【日能研おうちでフェスタ2020サイト】

学校が再開してもできるSDGs 捜真SDGs実行会アピール第8弾

こんにちは、捜真SDGs実行会です!いよいよ合同授業が始まりますね。

今日は、そんな忙しい日々でも取り組めるSDGsを紹介していきます!

【第8弾】
①食品用ラップを再利用しよう!
一度使ったら捨ててしまいがちなラップですが、実は食器洗い用、ガラス磨き用のスポンジとして使うことが出来ます。
また、洗濯機の排水ホースに巻き付けたり、家具の底、部屋の角などホコリの溜まりがちなところに置くと、掃除が楽になります。
また、少し値段が高くなってしまいますが、繰り返し利用可能な、オーガニックラップ ”Bee Eco Wrap”やシリコンラップもネットで簡単に買うことができます。そういったラップを使うのもSDGsの取り組みになります。


②ティッシュを使わずにタオルや新聞紙を活用しよう!
みなさんは飲み物をこぼしてしまったときや何かを汚してしまったとき、何を使って拭いていますか?
ティッシュは一度使ったら捨ててしまいますが、使い古した布やタオル、Tシャツなどは何度でも洗って使うことができます。
他にも新聞紙の活用がおすすめです。読んだら捨ててしまう新聞紙も床や窓掃除をする際に使うと、インクに含まれている油分でピカピカになります。
紙製品も工夫を少しするだけでエコにつながることがたくさんあります。
ぜひ試してみてください!

【第8弾の目標ゴール】

受験生の皆様へ 7月「捜真クルーズ」のご案内です。

【ご予約はこちらへ→】https://nkmr8.sakura.ne.jp/wordpress/jogakko/entrance_sj/briefing_sj/

7月の捜真クルーズ(校内見学、授業見学)、個別相談情報を更新いたしました。いずれもオンラインでの開催となります。

6月25日(木)よりご予約いただけるようになります。

オンラインでの開催となりますが、校内のご案内を本校スタッフが個別で行います。分散登校で授業を受けている生徒たちの様子も一部ご覧いただけますので、ぜひご予約ください。

 

中学部学校説明会動画をご覧いただけます

5/16(土)の中学部オンライン説明会動画をいつでも視聴できるようにしました。
まだご覧になっていらっしゃらない方!必見です!
最初に第1部の校長挨拶、礼拝、学院長による教育方針をご覧ください。

次に、7つのテーマに沿って捜真のご紹介をします。ここでご覧いただけるのはショートバージョンです。本編をご覧いただくにはご予約をお願いしておりますので、以下の予約サイトにお進みください。

説明会予約はこちら

 

 

第1部には、校長挨拶·礼拝·捜真の歴史と教育理念が収録されています。

第2部は、テーマ別学校紹介です。
7つのテーマと内容の紹介はリンクからご覧いただけます。

1.捜真の学習指導と進路指導

2.最善のあなたになる力 ~もっと私を好きになる~

3.最善の社会をつくりだす力 ~中高生が世界を変えるには~

4.最善の自分をデザインする力 ~自分から机に向かう子になる~

5.最善の自分を育てる力 ~捜真Vプロジェクト~

6.最善の道を切り開く力 ~共に目指す一人ひとりの第1志望~

7.最善の自分に出会う力 ~世界に出会って世界を変える~

ご覧いただきましたら、ぜひアンケートにもご協力ください。

礼拝メッセージ 7月14日(火)

「一日一生

中3副担任 三宅 義人

こちらから讃美歌265番「世人の友となりて」を聞くことができます

【聖書】マタイ6章31から34節
だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言っても思い悩むな。それらはみな異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

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例年、夏休みに入る前や1月の受験シーズン前に高校三年生に向けて先生方の激励のメッセージを載せた捜真だよりが発行されます。また、卒業式直前に高校三年生が「手帳に何か一言書いてくれますか」と訪ねてくることがあります。
私は毎回、次の2つの言葉のどちらかを書くようにしています。一つ目は「未来を信じ、未来に生きる」という言葉です。これは私が卒業した大学の総長を長く務められ、法学の先生であった末川博という人の言葉で、今も母校の入口の石碑にこの言葉が刻まれています。
もう一つの言葉が「一日一生」という言葉です。最近比叡山の僧侶の方がこの題で本を出版されたそうですが、もともとは内村鑑三というキリスト者が使った言葉です。内村はこんな意味のことを言っています。

「一日は貴い一生である。これを空費(ムダづかい)してはならない。そして有効的にこれを使用するには神の言葉を聞いてはじめることにある。一日の成功失敗は朝の心構えで決まる。朝起きて、まず第一に神の言葉(聖書)を読んで神に祈る、これをしないではじめた一日の戦いに勝利はない。たとえ敗北のように見えても勝利となるに疑いはない。そしてこのような生涯を一生続けて、一生は成功に終わるのである。」

私たちは、生きていく上で一生懸命過去の自分の経験や知恵から、未来を展望して予測を立てて生活をします。けれども相手がある場合、その予測通りに進まなかったり、経験や知恵が通用しないということがあるということも知っています。先が見通せない、これほど人を不安にし、しばるものはないのだということを、この歳になって痛感しています。だから練習し、努力をするのだと思います。不安を自信に変えるために。

しかし視点を変えてみると、病や災害、戦争のように、経験や知恵、努力を総動員しても、先が読めないということがこの世にはあるということを私たちはこのコロナの混乱の中で嫌というほど味わっていると思います。そういう時だからこそ、この「一日一生」という言葉が響いてきます。一日を一生と思い、今自分に出来ることを一つひとつやっていくしかないのではないかと考えます。

今日取り上げた聖書の箇所は、とても有名な箇所です。「明日のことを思い悩むな」という言葉は、ともすれば、うまくいかないこと、先が読めないことに対して、「くよくよするな」という意味で捉えられがちです。それはそれで意味あることだとは思います。だけど「流れや運命に身を任せろ」という浅い意味でイエスは語ったのではないと思います。そんな受け身的な意味の言葉ではありません。くよくよして立ち止まるのではなく、「できることは何か」を問いかけ、それを実行に移していくという積極的な言葉です。もし先が読めない不安がぬぐえないなら、神の国と神の義を祈れと言っています。つまり自分が目指しているものが本当に神さまの御心に適っているかを問いつつ、今自分のできることを積極的に実行していけば、道は開かれるということを述べているのではないでしょうか。未来は誰にもわかりません。でも今日私たちがやるべき業の積み重ねが未来を開いていくのです。

「未来を信じ、未来に生きる」という言葉と「一日一生」という言葉は、根の部分ではつながっていると思います。例え小さいことであっても、今の自分のできる正しいことを実行していく、それが未来への道への第一歩だということをしみじみ感じるこの頃です。

≪お祈り≫
神さま、私たちの人生は先の見通せない不安と隣り合わせです。そのような怖れの中で私たちは立ち止まってしまう弱さを持っています。けれども、今日できることを積み重ねていく時に神さまによって未来が開かれるということに立ち帰っていくことが出来ますように私たちを支えてください。
この世界、この日本の混乱の中で弱い立場に置かれている人に思いを寄せ、イエスさまによって告げられた正義と平和が実現しますように。
この祈りを私たちの主であるイエス·キリストにみ名によって祈ります。
アーメン

 

礼拝メッセージ 7月13日(月)

「自分の天分のありたけを尽くそうと思うのである

高三担任 石黒 明子

こちらから讃美歌501番「命のみことば」を聞くことができます

 

【聖書】ヨハネによる福音書8章14節

イエスは答えて言われた。「たとえ私が自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。

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今、現代文の授業では、高三の皆さんと夏目漱石の「現代日本の開化」を読んでいます。休校の4月初めから、岩波文庫で「夢十夜」「文鳥」「永日小品」と読みすすめてきてもらっていて、いずれも小品ですが深い味わいがあります。

「現代日本の開化」は1911年の8月に行われた講演です。この年の前後には漱石の身辺ではさまざまのことが起こっています。前年、修善寺の大患といわれる吐血があり、漱石は生死をさまよいました。また講演と同じ年、幼い末娘の突然の死に直面しています。漱石は全集で換算すると800ページにおよぶ日記と断片を残していますが、1911年の日記には「生きて居るとき」は「ほかの子よりも大切だと思わなかった。死んで見るとあれが一番可愛い様に思う」「表をあるいて小い子供を見ると此子が健全に遊んでいるのに吾子は何故生きていられないのかという不審が起る」という悲痛な声が記されています。

漱石のこの年のメモには「Is it impossible for a Buddha or a Christ to exist in the 20th Cent.」という記述も見られます。漱石は英語の聖書もずいぶん読み込んできました。ちなみに、この聖書をくれたイギリス人女性は熊本時代の漱石に英語を教えてくれたノット夫人で、漱石はイギリス留学に向かう船の中で偶然にノット夫人と再会し、聖書をもらったのです。だから漱石が自分の聖書を手にした日はちょうど120年前の1900年のことだと判明しています。特に漱石の書き込みが多い箇所は「創世記」「ヨブ記」「マタイによる福音書」であるそうです。絶望と苦しみの中にあって神様に問い続けた「ヨブ記」を読み込んでいたということは、とても興味深いです。この聖書を漱石は生涯使い続け、現在は東北大学に所蔵されています。

明治は激動の時代です。日本は開国して地道に内部から発展をしていければ良かったのですが、外国から怒涛の変化の波が押し寄せた時代です。今回のコロナ·ウイルスによる自宅待機で止むに止まれぬ状況でオンライン授業になったことと重なります。新たな進路を切り拓かなければならない高三の皆さんのことを考えても、5年、10年かけて、じっくり自分のやりたいことを探していければそれに越したことはありませんが、実際はそういうわけにはいきません。「現代日本の開化」の中でも、漱石は日本の置かれた状況を皮相上滑りの開化になってしまっていて、どうやって急場を切り抜けるか名案が浮かばないと述べています。漱石はクリスチャンではありませんし、参禅した寺でも悟りを開けませんでした。一つ確実に言えるのは、自分の力ではどうしようもない状況に置かれながらも悩みに悩み抜いて努力をした人であるということです。「現代日本の開化」の翌年書かれた小説「行人」では、「自分に誠実でないものは、けっして他人に誠実であり得ない」と書かれていて、捜真で大切にしている「Trust in God. Be true to yourself. 」という言葉とも、何だかつながるように思えます。

漱石のタイトルの言葉は最晩年の漱石がエッセイ「点頭録」で述べたものです。漱石は生まれてきた以上は、何の理屈もなく生きなければならないとも書いています。葛藤を続けながらも、自らのタラントンを生かす大切さを私たちは漱石の作品から受け取ることができます。捜真の最高学年の人たちと漱石を再読できることは、私の喜びです。大いに悩んでください。きっと最善の道が備わっています。

礼拝メッセージ 7月10日(金)

「二度とない『今日』を精一杯生きる

中2副担任·広報委員長 醍醐 温子

こちらから讃美歌Ⅱ編186番「日ごと主イエスに」を聞くことができます

 

【聖書】マタイによる福音書6章34節
だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。

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「明日も元気でお会いしましょう!」帰りのHRでさようならの挨拶の前に必ずかける言葉です。6月から学校が再開され、副担の私が週に2回帰りのHRを担当して約1ヶ月。新型コロナが猛威を振るう前と後で、その心持ちに変化があったように思っています。
「明日も今日と同じ日常が続くとは限らない。だからその一瞬を大切に。朝、行ってらっしゃいと別れてそれっきりになってしまうんだから」東日本大震災の被害に遭われた方から聞いた言葉です。多くの方が同じようにおっしゃいます。この言葉を聞くたびに、いつも「そうだった。一瞬一瞬を大切にしよう」と強く思います。忘れることはないものの、その思いが少し薄れてしまうことは今までに何度もありました。今回、新型コロナのパンデミックによって、その思いをより一層強くすることになりました。

大きな災害があろうとなかろうと感染症が世界中を動揺させようとさせなかろうと、明日の保証はないのですが、つい明日もあさってもその次も今日と同じ一日があるように思ってしまいます。私は今まで、今日の聖句を「あれやこれやと思い悩むのはやめなさい。私達には分かりもしない先のことまで思い悩んでも仕方がない。必要なものは神様がすべて備えてくださるのだから、すべてを神様に委ねなさい」とだけ理解していました。しかし、特にコロナ休校の間に、この聖句の捉え方が変わってきました。「今日という日を、丁寧に誠実に全力投球して生きることが大切なことだ」と教えられているのだと今さらながら思うのです。私たちが生きられるのは「今日」という日の「今」という瞬間だけです。たとえ1秒でも過去や未来を生きることはできません。明日のことを思い悩むということは、神様が私たちのために必要と備えてくださった「今日」を大切にしていないということなのだと思うのです。私たちは明日に持ち越したことは、明日になればまたその翌日に簡単に先延ばししてしまいます。神様から与えられた「今日」という特別な一日を神様の御前に真剣に全力を傾けて生きることをしなければ、明日もあさってもどんどん先送りし、結局神様の御前に真剣に全力を傾けて生きるチャンスを失ってしまいます。

朝のHR(午後登校の人は昼ですが)で、毎日健康調査票を確認するのが私の担当です。必ず一人ひとりの顔を見て、どんなことでも一言は声をかけることにしています。一人ひとりとの「今日」の出会いを大切にしなければならないと思ったことと,健康調査を確認することは、神様がくださった大切な役割、使命なのだと思い、ただ機械的にチェックするような仕事にしてしまったら、せっかく神様がくださった一番良いものを無駄にすることになってしまうと思ったからです。以前ならここまで強く意識しなかっただろうなと思うとこれは私の中では大きな変化です。健康調査票を確認することがいつまで続くのか分かりませんが、確認することがなくなっても、神様を信頼し、すべてを神様に委ね、二度とない「今日」を精一杯生きようと思います。それが「今日」の延長線上にある「明日」への最善の備えになるのだと思います。その思いを胸にこれからも「さようなら」の前に「明日も元気でお会いしましょう」と心を込めて声をかけたいと思います。
皆さんにも、神様から与えられた「今日」という特別な一日を真剣に全力を傾けて生きて欲しいと思います。

学校が再開してもできるSDGs 捜真SDGs実行会アピール第7弾

こんにちは、捜真SDGs実行会です!

さて、学校も再開し、少しずつ忙しくなってきましたが 、今回はそんな中でも考えて行動できるSDGsを紹介します!

【第7弾】
①節電をしよう!
7月になり、だんだん気温が上がってきました。エアコンの温度を下げすぎていませんか?夏場は、室内の温度が約28℃になるように、温度調節をしましょう。
タイマー機能などを使って、エアコンをつけている時間を決めるのも良いかもしれません。
また、電気をこまめに消したり、コンセントを抜くことにも気をつけましょう。

②自然にやさしい商品を選択しよう!
世の中には、紙や木材を使った商品が多くありますが、その多くは使い捨てになってしまいます。もちろん、中には繰り返し使えるものや、リサイクルできるものもありますので、それらを買うことは自然環境を守るのにとても大切なことです。
しかし、衛生面や便利さを考えると、使い捨ての商品を全く買わないということは、少し難しいと思います。
そこで今回は、自然を大切にしながら商品を生産する、FSCマークを紹介します。
これは、適切に管理された資源を使用して生産することを示しています。紙パックのジュースなどについているので、商品を選ぶときに少し気にしてみるといいと思います。

みなさんでSDGsを意識して、健康でより良い生活をおくりましょう。

【第7弾の目標ゴール】

礼拝メッセージ 7月9日(木)

おおきな声で笑いあいたい」

高一副担任·生活指導委員長 森川 亮

こちらから讃美歌270番「信仰こそ」を聞くことができます

【聖書】ヨハネ第1章 1節

はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。言のうちに命があった。

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マスクを身に着けるのが当たり前の時代になりました。つい半年前は生徒に「黒いマスクはやめなさい」という指導をするかしないかで悩んでいたのが嘘みたいなほど、黒マスクは日常のものとなりました。マスクを取ることが出来ない人を奇異な目で見る時代から、マスクをしていない人に対して軽蔑のまなざしを送る時代に変わった。私はコロナによって時代が変わったことの象徴として「マスク」を一番にあげたいです。

娘の家庭科の宿題はマスク作りでした。学校から型紙と作り方が配信されました。手芸が得意な私の母に手伝ってもらいながら、着古したパジャマをマスクに再生しました。パジャマの生地は柔らかく、形を変えて時を越えて日常で活躍できるのを見るのはなんともうれしいことでした。母はこの型紙で作る布マスク制作にはまりました。自粛要請中だったこともあり、たくさんのマスクを作りました。屋根裏にしまってあった、私と妹が幼稚園のときに使ったハンカチはマスクに生まれ変わりました。山本先生にさし上げたサンリオのマスクは母の作った物です。山本先生が着けているのを見るたびに私は嬉しく感じます。

私のマスクも母に特注したものでした。バックトゥザフューチャーという映画を見て憧れたカルバンクラインのトランクス。20年以上前に買い、捨てられずにいたものをマスクにしました。ロゴは切り取り、きちんと付け直すよう徹底してデザインを作りこみました。2か月間愛用したマスクをついに先日落としてしましました。今は次に何を作ってもらおうか考えています。

総合の授業の中でインタビューの技術を学びました。会話をするときには、「相手の目を見る」「笑顔で」そして「言葉には含まれない何かが表情に浮かぶ、それを掴まえる」と。私はマスクをつけることが好きではありません。マスクは会話を一層難しいものにしている気がします。さらに話をしていることも今は悪いことをしているように感じるのです。人は会話する中で自らの考えを宣べ、整理し、人との違いを知り知識を深めます。そして人との関係を深め自分と他者と世界のあり方を深めていきます。おおきな声で笑いあいたい、相手のちょっとした表情の変化を読みながら会話したい。コロナ前には戻らないといいますが、せめてここだけはもとの世界に戻ってほしいと思います。

 

礼拝メッセージ 7月8日(水)

心の痛みを分かち合う」

スクールカウンセラー 平山 彩乃

【聖書】マタイによる福音書 7章12節
「人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

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この聖句は、亡くなった大好きな祖父が大切にしていた聖句です。祖父は遺書に、この聖句をカードにして、自分の葬儀に来てくださった方々に配ってほしいと残しました。当時私は小学4年生だったのですが、祖父の娘である私の母は、祖父が亡くなった悲しみの中で「おじいちゃんはこの聖句の通り、自分がしてもらって嬉しいことを惜しみなく、無条件に人に行う愛情深い人だった。」と言いました。私も祖父のような人になりたいと思い、この聖句を心に刻み、祖父の聖句カードを聖書に挟み大切にしてきました。

この聖句は、私の人生の道標になりました。心理学部を求めて行ったオープンキャンパスの大学の校訓は「Do for others」でした。“Do for others what you want them to do for you”、なんと、マタイによる福音書 7章12節「人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも人にしなさい」でした。私は運命を感じ、この大学で心理学を学びたい、この大学に進めば道は開かれると思いました。そして捜真のスクールカウンセラーへと導かれたのです。

ルカによる福音書の「敵を愛しなさい」という表題の中にも「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。(6章31節)」とありますが、「あなたの頬を打つものにはもう一方の頬も向けなさい」と続きます。恥ずかしながらこの部分の理解には苦しみました。

しかし、ヒントとなる出来事がありました。私が相手のことを思って一生懸命したことだったのに、相手に気持ちをないがしろにされたようなことがあり、それが悲しくて悔しくて、その相手に感情をぶつけてしまいました。それに対し、さらに「目には目を歯には歯を」のような言葉を返され、とても悲しくなりました。自分がされて嫌なことはしない、それが私の軸となっているため、衝撃的で言葉を失いました。

この時私は、相手にもう少し私の気持ちを理解してもらいたかったのだと気付きました。それなら、私はまず怒りをぶつけたことを謝り、相手の気持ちを理解すべきだと思い直しました。同時に、「あなたの頬を打つものにはもう一方の頬も向けなさい」について考えるチャンスとなりました。傷ついて、言い返したくなっても、それをしてしまったら事態は悪化します。まずは相手の言葉や気持ちを受け止め、あなたのことをもっと理解したいからあなたの痛みを私も知りたい、という姿勢で接することが「もう一方の頬も向ける」ということなのではと考えさせられました。

心理学的な側面からも考えてみました。攻撃的な言動や怒りの根底に不安や悲しみ、傷つきがあることが多いのです。そのため、攻撃的な言動を向けられて言い返したくなっても、その人にもきっと不安や悲しみ、傷ついた気持ちがあるのかもしれないと一度立ち止まり、“あなたのことを理解したいから怒りもその奥にある不安や痛みも全て受け止めたい、だから聴かせてほしい”という姿勢で向き合うことが大切だと改めて思いました。

「人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」が無条件の愛を与えることであるなら、「あなたの頬を打つものにはもう一方の頬も向ける」とは心の奥にある痛みを分かち合いたいという気持ち、姿勢なのではと気付き、救われました。

※注 いかなる場合でも、暴力はいけないことですので、実際に暴力を振るわれた場合は必ずSOSを出してください。

 

捜真SDGs実行会 新たな2プロジェクトスタート

捜真SDGs実行会の2つのプロジェクトが始まりました。

【With Girls】

日本では、当たり前に買える生理用品ですが、世界の女性の中には生理用品を買えない人が多くいます。そのために、その期間は学校に行けないような状況も起きています。

そこで、「With Girls」チームは、女子校の強みを生かし、生徒から生理用品の献品を募り、レッドボックスジャパンを通してアジアの発展途上国の学校に届ける活動を始めました。

献品受付期間は、7月2日〜18日です。

 

 

【TFTプロジェクト】

月に一度、カフェテリアでTFTランチを実施し、アフリカの子供たちの給食支援を行ってきた、TFTチームですが、コロナウイルスの影響により、カフェテリアの営業がストップしているため、支援もできなくなっていました。

そこで、あらたに「おうちでTFT」プロジェクトを始めました。
これは、家でヘルシーな食事を作り、写真に撮って 投稿することで、アフリカの給食支援につながるという活動です。(企業スポンサーが出資)

おうちでTFTプロジェクトの参加方法は、
①ヘルシーな料理を手作りする
②手料理の写真を撮影する
③ 料理名やコメント(材料や作り方、こだわりなど)を書いて、写真を添付して下記アドレスに送る

【おうちでTFT  捜真専用アドレス】

 

※送られたメールは、TFTUA(おうちでTFT企画団体)が捜真分をまとめてSNSに投稿します。
期間は7月1日~28日です!
HPをご覧の皆さんも是非、ご参加ください。
※TFT(テーブル·フォー·ツー)とは、先進国の人々がヘルシーな食事をすることで、1食20円がアフリカの給食支援に使われるという活動です。20円はアフリカの給食1食分に相当します。
【投稿の例】
早速、中1の生徒が投稿してくれました。

礼拝メッセージ 7月7日(火)

「ある女流作家の推理小説から……」

                          中2副担任 日浦華子

こちらから讃美歌79番「ほめたたえよ つくりぬしを」を聞くことができます

 

【聖書】エフェソの信徒への手紙4章32節~5章1節
互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。

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こんな推理小説があります。有名な女優が田舎の村に引っ越してきて、パーティーを開きますが、招待客の女性が殺されてしまいます。その女性は、有名女優が飲むはずだった飲み物を飲み、そこに入っていた毒によって死んでしまったのです。有名女優をねらった殺人事件として村は大騒ぎになります。(···ここからはネタバレになってしまいますが)

パーティーの場で、殺された女性は自分がいかに女優である彼女のファンであるかを楽しそうに話します。そして、昔、医者が止めるのも聞かずに当時入院していた病院を抜け出して、女優に会いに行ったことを自慢げに嬉しそうに話すのです。そして女優はそこで理解します。実は女優の子供は重い障害を抱えていて施設で育てられているのですが、その障害の原因が、今、目の前で嬉しそうに話しかけてきている女性であることを。当時、妊娠していた女優に、風疹で熱が出ているのにもかかわらず、医者に止められているにもかかわらずに接してきた女性によって子供に悪影響が出てしまったのです。

女優に殺意が生じます···。という内容ですが、新型ウィルス感染対策の今だからか、このお話が思い出されます。
「うつさないように」「うつらないように」、目に見えない感染という現象に細心の注意を払っている世の中です。お互いがマナーを守ることが当然のこととなると、危機意識のない無防備な行動をしている人を見てハラハライライラすることもあります。

でも、逆に気づかないうちに自分がほかのひとを傷つけていることって山のようにあるのではないでしょうか。先ほどの推理小説に出てきた、悪意なき、空気の読めない女性に向けられた殺意というほどのレベルでなくても、知らないうちに誰かを悲しませているということはあり得ることです。
その気がなくても罪をつくって生きているのが私たちです。それでも、赦されて生かされているのですね。

礼拝メッセージ 7月6日(月)

「数学は何の役に立ちますか?」

中3担任 山本有希菜

 

こちらから讃美歌66番「聖なる 聖なる」を聞くことができます

 

【聖書】コリントの信徒への手紙(一)15章58節

わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

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私が数学の教員を目指した理由の1つとして、「数学のことを好きだから」ということが挙げられます。
具体的なきっかけは、中学1年生のとき「式に文字を使う」ということを学んで、とても感動したこことでした。たとえば、「ある数に3を足して2倍し、5を引くと13になった。ある数はいくつか求めなさい。」という問題を考えるとき、「式に文字を使う」ということを知らないと、13から順に逆算していくしかありません。ですが、「式に文字を使う」ということを知っていれば、式を立てて簡単に解くことができますね(ぜひ解いてみてください!)。

そんなわけで私は数学の教員になったわけですが、「数学は何の役に立ちますか?」と生徒のみなさんからよく質問されます。そのたびに私が思い出すのは、森博嗣さんの「冷たい密室と博士たち」という小説の一節です。

犀川先生なら、どう答えられますか?」国枝桃子が無表情で尋ねた。「学生が、数学は何の役に立つのか、ときいてきたら」
「何故、役に立たなくちゃあいけないのかって、きき返す」犀川はすぐに答えた。「だいたい、役に立たないものの方が楽しいじゃないか。音楽だって、芸術だって、何の役にも立たない。最も役に立たないということが、数学が一番人間的で純粋な学問である証拠です。人間だけが役に立たないことを考えるんですからね」
「何故、役に立たなくてはいけないか、ですか……。うん、それはいい」と高校教師が呟く。
「そもそも、僕たちは何かの役に立っていますか?」犀川はおどけて言った。
                著:森博嗣「冷たい密室と博士たち」(講談社文庫、1999年出版)

「役に立たないものの方が楽しいじゃないか。」
生徒からの質問に対してどう答えてあげればいいか悩んでいた私にとって、とてもハッとさせられる台詞でした。確かに、「楽しい!」と感じるかどうかは人によって違いますが、実は「楽しいとき」とは、友達と話していて楽しく盛り上がっているときや部活動をしているとき、あるいは好きなアーティストのライブを観ているときなど、人生において本当に役に立つのかどうかは分からないときなのではないでしょうか。
「役に立たないから…」と切り捨ててしまうのではなく、その中にある「楽しさ」に気づける人になりたい、気づかせてあげられる人になりたいと私は思います。

礼拝メッセージ 7月2日(木)

「小さな者と共に生きる」

中3担任 後藤由起子

こちらから讃美歌354番「飼い主わが主」を聞くことができます

 

【聖書】マタイによる福音書18章10節
これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちたちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。

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3月上旬に上陸した3つの台風は、勢力を強めながら我が家に停滞し続けました。時に雷や大雨を降らせながらいつまでこの様な日が続くのか、先の見えない毎日にただただ辛抱するしかありませんでした。仲良く遊んでいたと思ったら喧嘩、大粒の涙を流しながら訴える息子。外にも出られずボールが部屋の中を飛び交う状況に、母の雷が落ちるも数時間後にはケロッとまた楽しそうに遊んでいる。そしてまた喧嘩。お互いストレスのはけ口が見つからないまま1週間が経った時。子供たちに「この休校期間中だからやれる事、やりたい事はないか」と聞いたところ、次男が「犬が飼いたい」と言い出しました。その提案に長男も三男も乗っかり、子供たちで「どうしたら飼えるのか」の議論が始まりました。

数年前から犬を飼いたいと誕生日やクリスマスが来るたびにお願いされていましたが、共働きで土日も家にいないようなお家に子犬が来たら可哀そう。自分の事が自分で出来ないのに犬の面倒は誰が見るのかなど様々な理由で拒否し続けていました。そんな子供たちは今しかチャンスはないとばかりに、両親を説得するためのプレゼンテーションが始まりました。
始めにインターネットや本を見ながら犬を迎え入れるために必要なものや予算、飼いやすい犬種、飼い方やしつけの方法、何よりも今しか飼えない理由を書き出し、メモを取ってまとめ始めました。
今なら学校も無く自分たちで面倒が見られること、学校が始まっても半日授業なので自分たちでお世話が出来ること。何よりも父親がしばらく在宅での勤務が多いので安心であること。一ヵ月あればトイレトレーニングやお留守番のトレーニングをする時間も十分あるなど子供たちのプレゼンの熱意に押され、こちらも迎え入れる決意を固めました。しかしこのご時世、ペットショップに行って見つけることが出来ず、事前にネットを使って逢いたい子を予約するシステム。そこで出会った一つの命。実際に会っても気持ちは変わらず、一目で気に入ったトイプードルの女の子を見て、息子たちのスイッチが本格的に入り、この子を迎える為の準備を進めていきました。

5日後、我が家に来た救世主。この日から我が家の空気が一変しました。大きな声を出す事も、物が飛び交うことも無くなり、この子中心の生活が始まったとたん嵐が凪になったのです。皆がこの小さな者の為に何をするべきか、何が出来るかを考える生活。我々親の想像をはるかに超え、平穏な落ち着いた生活を過ごすことが出来ています。命を預かるという事に不安はありましたが、子供に押されて踏み出したことで不満ばかりの自粛期間にならずに済んだ後藤家です。いざという時こそ、見えるものがあり、再確認出来る事があると改めて自粛の期間があったからこそ感じられた事柄でした。

休校期間中、やりたい事も出来なくて、あれもダメこれもダメの生活で押しつぶされそうになった人も多いのではないでしょうか。私も知らず知らずどこかで「早く平穏な生活に戻りますように、どうか助けてください」と叫んでいたのでしょう。今まで余裕がなく、聞き流して済ましていた私ですが、時間をかけてじっくり話を聞き真剣に向き合う事の出来た時間は私には貴重な時間となりました。自分の力で生きていく事の出来ない小さな存在が我々家族の宝となり、これからもずっとずっと愛されますように。

 

 

礼拝メッセージ 7月3日(金)

「きのう、きょう、あしたの自分」

中3担任 河合 寿水

こちらから讃美歌532番「ひとたびは死にし身も」を聞くことができます

【聖書】コリントの信徒への手紙一 3章6節

わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。

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「♪きにしすぎると、おとなになっちゃうよ~」。この歌は、Eテレで放送されているオトッペという番組の歌です。休校期間中、我が家の朝のテレビは決まってEテレがついていました。オトッペは世界一のDJを目指すシーナと音から生まれたオトッペ(水のオトッペ、火のオトッペ、金属のオトッペなどがいる)の毎日を描いたアニメです。私はこの歌を聞くと思い出すことがあります。

私は大学生の時に南米·アルゼンチンに1ヶ月行く機会がありました。午前中はスペイン語の勉強、午後はアクティビティで馬に乗ったり、チェ·ゲバラが生まれた家に行ったりしました。私のホストファミリーは、富裕層の家庭で街の中心に行くにもバスに1時間ほど乗らないといけませんでした。アルゼンチンでの生活が始まったころ、ホストマザーに、「街から家に向かうバスは2つあるの。1つは普通のバス。もう1つはタクシーみたいに降りたいところで降ろしてくれる白いバスよ。普通のバスでは家に着かないから、運賃が高いけれど白いバスに乗りなさいね」と言われました。はじめは街のこともバスのこともよくわからなかったので、白いバスに乗っていましたが、慣れてくると普通のバスにも乗りたくなり、バスの案内には住んでいる地名が書いてあるのだから乗ってみようと思い、乗りました。

バスに乗り込み、順調に見慣れた景色を眺めているとバスは急に角を曲がり、あれよあれよという間に、自分がどこにいるのかわからなくなりました。さすがにマズイと思い、バスを降りました。降りたところで右と左、どちらに行って良いのかも分からず、空はだんだん暗くなり南十字星が輝き始めました。バスが来た道を歩いていると、ピザ屋さんがあり英語でdeliveryと書いてありました。ココしかない!と思い、自分が道に迷っていること、ピザを1枚買うから家まで連れて行ってほしいと話をしました。店員さんは、笑いながら快諾してくれました。ピザと共に家に帰ると、ホストファミリーは電話を握りしめながら私を待っていてくれました。

「♪きにしすぎると、おとなになっちゃうよ~」のフレーズは、私たちに何を伝えたいのでしょうか。私は子どもたちに失敗をする経験をし、成長をしてほしいのかな、と思います。大人になると失敗する回数は減ってしまいますが、失敗してしまうのが人間です。しかし、神様は私たちを守り導いて下さいます。誰でも多かれ少なかれ失敗をして人生を歩んでいるものです。神様に身を委ねながら、自分と向き合い毎日を歩んでいきたいですね。

礼拝メッセージ 7月1日(水)

「希望」

高二担任 大和 由祈

こちらから讃美歌Ⅱ編64番「のぼれ高く」を聞くことができます

【聖書】 ローマの信徒への手紙11:11〜12
「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」

ーーーー
「カンボジアのアンコールワットがある街·シェムリアップでは、幸いコロナウィルスの感染拡大は食い止められているものの、産業の柱である観光業が大打撃を受け、街は壊滅しています。ホテル·レストラン·スパは軒並み廃業もしくは休業。街はゴーストタウンと化し、多くの人が失業しています。」

私がインターネットでこの記事を見たのは、5月中旬のことです。この記事を見た途端、私の頭の中には、様々な人·そして様々な場所が思い浮かびました。
毎年カンボジア研修でお世話になっている、現地ガイドやバスドライバー、ホテルやレストラン、アンコール遺跡群で働いている人たち、マーケットで流暢な日本語を操って私たちとやり取りをしてくれるお姉さんたち、訪問するCCH(児童養護施設)やピートゥヌー小学校の子供たち…
彼らの生活は今どうなってしまっているのだろう。失業し収入がなくなって、食べるものにも困り果てるような生活をしているのだろうか。学校が休みになって何をして過ごしているのだろうか。彼らのあの素敵な笑顔が失われてしまっているのだろうか。
残念ながら彼らと連絡を取る術はありませんから、今の私に出来ることと言えば彼らの安全な生活が守られるよう祈ることしかありません。

そんな中、私は、日本のNPOが母体となって始められた、SALASUSUというブランドの活動を知る機会を与えられました。SALASUSUは、カンボジアの農村部に工房を構え、そこに住む女性たちを雇い、カバンやサンダルなどを作り販売しています。更には、女性たちの自立を促すためのソーシャルスキル教育·給食の配給などのプログラムも行っています。
しかし、今回のコロナウィルスの影響で、店舗は休業、彼女たちの働く工房も閉鎖を余儀なくされ、また彼女たちの家族も失業に追い込まれ、と彼女たちの生活は苦しくなっています。

SALASUSUはそのような彼女たちの給料だけはなんとか補償したいと、クラウドファンディングにも取り組んでいました。しかし驚くべきことに、彼女たち自身も、この状況に困り果て途方に暮れていただけではなく、新たなチャレンジを始めていたのです。彼女たちは農作物や家畜を育てたり、自分で作った食べ物を売ったりすることで、少しでも自分たちの家族の生活費を確保する努力を始めていました。この試練の中で、何とかして自分たちで自分たちの道を切り拓こうとしているのです。

今日の聖書の箇所でパウロは、ユダヤ人たちがイエス様を裏切ってしまったことを「つまずき」と言っています。しかし、そのユダヤ人の失敗によって、異邦人、つまり私たちを含む世界中の人々に救いが与えられたとも言っているのです。そう考えると、このユダヤ人の「失敗」「つまずき」でさえも、神様が「全ての人に救いをもたらす」ための計画の一部だったと言えるのではないでしょうか。
カンボジアの人たちだけではなく、私たち自身も今はまだ、自分たちの思い通りに物事が進められない「試練」の中にいます。しかし神様はきっとこの「試練」の先に必ず「希望」を与えてくださっていると思うのです。私たちも今のこの現状にただ嘆き続けるのではなく、カンボジアの女性たちのように、「自分に出来ること」を見つけ、それに挑戦し、神様が必ず用意してくださっている「希望」へと近づいて行きたいと思います。

*SALASUSUホームページ https://salasusu.com/

アンコールワット

CCH(児童養護施設)の子供達と(2018年度カンボジア研修)

 

 

 

カラフルに 中3美術作品「こけし」

中学部3年生によるペットボトルこけしが展示されています。

中2の3学期の課題として取り組んでいたものですが、休校期間中に家庭で続きの作業に取り組み、カラフルで個性あふれるこけしができあがりました。