投稿者「soshin」のアーカイブ

図書館から本の紹介  10月3日

一気に秋めいてきました。
何をしようかな?と思っている方は、本に手を伸ばしてみてはいかがですか。
この二冊は皆さんもよくご存じの作家さんの作品です。
どちらも気軽に読める分量です。絵や装丁も味があり、楽しめます。

『猫を棄てる 父親について語るとき』村上春樹 文藝春秋
セピア色に近いトーンの挿画、手のひらにのる大きさの本。
作者がその父親を追想して書き記した作品です。戦中戦後の混沌とした時代に生きた父親を、少しだけ離れたところから描いています。
肉親はある時は煩わしく、ある時は肌触れ合い、運命という言葉が嵌まる存在だなと感じます。歳を重ねると当たり前だったそのぬくもりは、遠いところに去って行ってしまします。
何かに記すことで、その存在を大切にしまっておけるのかもしれません。

『大好きな町に用がある』角田光代 スイッチ·パブリッシング
どこか不器用、でも可愛らしい。それを自分の色とし、歩みを前に進めます。それが読んでいて楽しい、あっそうか!と心を揺さぶられる。上手なんです、文章が。そう来たか、と驚きます。
最近はあまり旅をしなくなった私ですが、角田さんが連れて行ってくれるあちこちで、その土地の空気や風、そして誰かに出会える一冊です。赤い表紙もいいですね。おすすめ。

高一数学で○○坂の傾斜角を調べてみました

毎朝、重いリュックを背負って登っている〇〇坂。
特に、最後の数十メートルは一段と傾斜がきびしく、ふーふー言っている人も多いと思います。
高一数学で三角比の学習に入ったので、傾斜角は実際どのくらいなのか、山道にあるような勾配の標識を立てるとしたら何%になるのか、調べてみることにしました。
スマホのアプリで水平距離は調べられますが、斜辺は現地で測るしかありません。
AB組発展コース一同、蚊に刺されながらがんばりました。使ったのは5メートルのメジャーとチームワークのみ。途中、体育祭の出し物かと見紛う場面もありました。
結果はぜひ生徒たち本人に聞いてくださいね!

「アートにエールを」で三塚先生、小田切先生の作品をご覧下さい

捜真の音楽科講師、三塚 至先生と美術科講師、小田切恵子先生の作品が「アートにエールを」のサイトでご覧いただけます。

三塚先生は次のようにおっしゃっています。

「先日の私の放送礼拝でちょっとお話しました東京都の芸術家支援プロジェクト『アートにエールを』で、私の企画が通り、過日、無事に掲載されました。夫婦2人で10声部を多重録音しているので音は汚いですがお許しください。」

皆様ぜひご覧ください。

三塚先生の作品はこちらからご覧ください。

小田切先生の作品はこちらからご覧ください。

「アートにエールを」についてはこちらから

礼拝メッセージ 9月23日

温度を感じる

高二担任 廣川 敦子

こちらから讃美歌2編171番「大波のように」を聞くことができます

 

【聖書】箴言21章2節
「人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる。」

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自粛期間、デザインの仕事をしている私の友人は完全テレワークとなりました。大きな会社で、広いオフィスから突然人の姿が消えました。社員は各自、朝9時になると自宅のパソコンを開き、顧客と直接やり取りをし、1時間の昼休憩を挟み、18時まで働き続けます。仕事の内容は出社していた時と何ら変わることなく、忙しい1日はいつもと場所を変えて始まり、終わる、というだけの話です。結局、彼女の会社はテレワークが見事にうまくいったことで、これからはコロナ問題とは関係なしに、ずっと全員テレワークの体制に代わったそうです。会社側からすると大きなオフィスを構える必要もなくなり、社員の交通費もかからない、というメリットが功を奏し、近々東証一部上場するまでに経営は右肩上がりである、とのことです。友人は兼ねてから、自然の豊かな所で暮らしたい、と話していましたが、これを機に大自然に囲まれた地方に移住しようかと本気で考えているようです。話を聞き、こんな働き方もあるのかと驚きました。

さて自粛期間、捜真でもクラスルームをはじめとするオンライン化が開始されました。もしかしたら、もう教室での授業はできなくなるのだろうか、とか学校という建物だっていつか必要でなくなってしまうのだろうか、と先の見えない状況で私は色々な想像をしました。オンラインさえあれば、英語の授業だってできるし、生徒のみなさんも様々なツールを駆使することで、少なくとも英語の学びはできる、と思いました。そういえば高二では一度だけ休校が明ける直前に各クラスでオンラインによるホームルームをしましたね。オンライン上とはいえ、新しい自分のクラスの生徒に直接つながれたことは、嬉しかったです。しかしながらクラス全体の雰囲気とか、ひとりひとりの様子は、残念ながらよくわかりませんでした。

長い休校期間、そしてなんとなく学校全体が静かだった分散登校が終わり、ついにクラス開きをした教室は、生徒がぎっちり並び、とても狭く見えました。でもその光景こそが本来のクラスなんだ、と私は一人勝手に感動していました。新しいクラスで、初めて全員で顔を合わせた喜びではしゃぐC組のみなさんに、「はい、聞いてくださーい。」と一度で静まらないのを分かっていて、あえて小さめの声で呼びかけました。予想どうり興奮気味のみなさんに聞こえるはずもなく、私が大きめの声でもう一度「聞いてくださーい。」というと少しの時間をかけて静まりました。心の中で私は「そうそう、これだよ、この空気感。クラスってこんな感じだったな。」と久々のクラス担任の感触にまた一人感動を覚えました。

ところで、私は幼い頃からずっと教員になりたいと思っていました。今から17年前、その夢が叶った時のことは今でもよく覚えています。緊張しながら初めて教壇に立った時、初めて小テストの丸つけをするために赤ペンを手にしたとき、初めて中間テストを作った時、初めて担任になった時、一つ一つの小さなことが新鮮で嬉しくて、わくわくしました。

あの頃の感動と種類は違うものの、3か月間の休校を経て再開された学校生活には自分が想像もしなかった感動が時折待っていました。それらは直に見える生徒達の笑顔、直に聞こえる笑い声、そしてあたたかい空気が感じられた時です。オンラインだと心がない、というわけでは決してないけれど、それはかなり通じにくいものになるのだと痛感しました。私は直のコミュニケーションの方がずっと好きです。あらゆる分野の世界で、効率の良さ、とかコストパフォーマンスばかりを重視してはいけないのです。理由を問われたら、データがあって証明できるものではないし、理論的な説明はできません。それでも私は、例えば一生に一回の高校生活は、仲間と顔を合わせて笑ったり泣いたり、オンラインのライブ配信ではなく目の前で行われる授業を受けて、その場で活きたやりとりをすることに価値があるのだと考えます。

時代に合わせた工夫が必要とされていることは重々承知しています。いつの日かきっと例えば聖書も電子化されたものが主流となったり、教会の礼拝だってオンライン上がスタンダード、という日がくるかもしれません。でもまだ今の私にとっては、手元の聖書を日に一度開き、目の前の人の生の声を聞く、この礼拝の時間が何より貴重なことに思えます。捜真のホームページに上がる礼拝メッセージを楽しみにしている卒業生が何人もいらっしゃるのだと島名教頭先生から伺いました。おそらくその方々は、在校中の礼拝の雰囲気や当時の光景、パイプオルガンの音色など、自分の記憶に重ね合わせてメッセージを読んでいらっしゃるのではないかと想像します。もともと捜真の礼拝がオンライン上のものではなかったからこその現象ではないでしょうか。

今、幸いにも私たちは毎日無事に登校をすることがゆるされています。高2のみなさんは学校全体のリーダーとしてできることを必死に模索しています。そのための話し合いも、直接顔を合わせてできています。心の通ったコミュニケーションによって、多くの生徒の心を動かそうとしています。一生に一度の高校2年生のこの年をあとで振り返った時に、思い出だけではなく、それと共にそこには私たちの心が、思いが確かにあった、と言えることを願っています。

聖書には、主は心の中を測られる、と書かれています。便利で楽に効率よく生きる手段が、しきりに取りざたされる昨今です。しかし私たちは本当に大切にするべきものは目に見えないところにある、ということをよく知っています。たとえ見た目がどんなに時代の最先端になろうとも、あるいは今までとは思い出の形が変わろうとも、芯の部分、私たちの心は変わることなく在り続けたいと思います。

(2020年9月17日 高二チャペル礼拝)

10/6(火) 高校進学フェスタ(都筑公会堂)に参加します

10月6日(火)都筑公会堂で行われる高校進学フェスタに参加します。

予約制を取り入れるなど新型コロナウイルスに対する感染対策をとって行われます。高等学部受験をお考えの中学生の皆さん、保護者の皆様、ぜひお出かけください。

詳しい内容はこちらからご確認ください

 

準備を進めています 校内発表会

毎年、多くのお客様をお迎えして行われる「捜真祭」。予定では今週末の開催でした。しかし、新型コロナウイルス感染のため、今年は時期を移して「校内発表会」として行うことになりました。保護者の皆様やお客様方をお迎えできないなど、さまざまな制限のある中で、高2を中心とした実行委員の生徒たちは、いかに心に残る文化祭を行えるか、日々、工夫を重ねています。

10月30日と11月3日の開催当日まで、準備の様子などをFacebookでもご紹介しています。

文化祭実行委員会のFacebookもご覧ください

 

礼拝メッセージ 9月18日

愛のある生き方

 

こちらから讃美歌453番「聞けや愛の言葉を」を聞くことができます

中1担任 新井 昂太

【聖書】マルコによる福音書5章25~34節

さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

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中学1年生、2年生の皆さん。皆さんはこの半年ほどの間に環境が変わったのではないかと思います。中学1年生は小学校から中学校へ、2年生は下級生から先輩へと、自分の置かれている立場が変わったはずです。私たちは立場が変わったことで、成長したことで見えてくるものがあります。今日は「成長したことで見えてくるもの」を中心にお話をしたいと思います。

先日、中1A組で授業をしていた時のことです。「先生は何時ごろ帰るのですか?」という教員の生活、のような話が始まり、そこから「教頭先生のお仕事とは?」という話になりました。皆さんにはあまりイメージがつかないだろうとは思いますが、ひどいもので、「え?教頭先生はひまだからすぐに帰ってるんじゃないの?」と言っている方もいましたね。勿論、教頭先生は全くひまではありません。が、それを私が分かったのは実際に自分が学校という場で働きはじめてからであり、自分の立場が変わってからのことでした。

話を私がまだ幼かった頃に戻します。近所に、Aさんというご家庭がありました。Aさんのお家はご夫婦のお二人、そしてワンちゃんが一匹いました。私が4、5歳の頃だったと思います。そのAさんのご家族が突然引っ越しをされました。もう少し正確に表現すると、突然いなくなってしまいました。幼かった私が覚えているのは、突然がらんとした雰囲気に変わったお家、そしてそこに残されて時々鳴いていたワンちゃんの姿です。私は両親に尋ねました。「Aさんのお家はどうしたの?」と。両親は「引っ越しをしたのよ。」と何もなさそうに私に言い、幼かった私はワンちゃんだけ残されてしまったことを疑問に思いつつ、それで納得をしたのだと思います。

Aさんのお家が様々な事情を抱えていたこと。そして苦しみの中で所謂「夜逃げ」をしたこと。それらが分かったのは、随分後になってからでした。

Aさんの件をはじめ、大人と呼ばれる年齢になったことで私が最も強く感じることは「笑顔で振るまっている人も、何も問題がなさそうに過ごしている人も、悩み悲しみ苦しみを背負って生きていることが多いのだ」ということです。

今皆さんの隣にいる友人。元気そうに笑っていると思います。でも、その人も、悩みをかかえ、それを誰にも話せないままがんばってその場にいるのかもしれません。
反対側の友人。何もなさそうに見えるかもしれませんが、悲しみを背負いつつ、それに打ちのめされないように耐えている最中かもしれません。

今日の聖書箇所は12年病気で苦しんでいた女性に対しイエス様が奇跡を起こす場面です。病そのものの苦しみだけでなく、差別までも受けなくてはならなかった女性。苦しみのどん底にいる中、イエス様の服の、そのほんの端に触れたのだと思います。そしてその時に奇跡が起こる。マタイによる福音書にある同じエピソードでは服に触れた女性に対し「元気を出しなさい。」とイエス様が呼びかけたことで病が癒されています。苦しむ女性が服に触れた時、イエス様にはその苦しみ悲しみが伝わったのだと思います。
元気そうにふるまっていても人は悲しみ苦しみを抱えているのかもしれない、ということを感じる今、このイエス様の力はより一層輝かしいものに私には感じます。
私達にはイエス様のようなことはできません。隣人の服を少し触ってもその人の苦しみや悲しみは伝わってきません。でも、もしかしたらこの人は悲しみの中にいるかもしれない、苦しみの中でもがいているかもしれない、と思うことはできます。そのふるまいの中で、悩み悲しみに気が付くこともできるかもしれません。そして、そっと寄り添ってあげることも。
私たちにできることは多くはないはずです。でも神様は、わずかなパンで多くの人を満たしたように、私たちの持っているわずかな思いや行動を、苦しむ人を支える大きな力に、悲しむ人をなぐさめる大きな愛に変えてくださる方です。すべてに気が付くことはできないけれど、隣人が悲しみ苦しみの中にいるかもしれない、と思って行動すること。寄り添ってあげること。これがキリスト教の語る「愛のある生き方」の一つの答えなのかもしれない、と感じています。

(9月17日 中1·中2放送礼拝)

 

 

礼拝メッセージ 9月14日

苦しむ人を知ろうとしてくださる神様

中1副担任 佐々木 広

こちらから讃美歌312番「いつくしみ深き」を聞くことができます

 

【聖書】フィリピの信徒への手紙2章4節~11節
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト·イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス·キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

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先日の仕事帰りにあった出来事です。

私は、電車とバスを使って通勤しています。その日の夜の7時すぎごろ、私は電車から降りて、駅前のバスターミナルをバス乗り場に向かって歩いていました。 駅前には、ときどき宣伝のティッシュを配る人がいて、ティッシュを差し出してきますが、私は大抵受け取りません。

その日は、バス乗り場のすぐ近くに、通行人を待って立っている人影がありました。身体の小さい、Tシャツを着た若い女性で、大きな紙袋を持っていました。ティッシュを渡すのだろうと思って前を通り過ぎようとしたら、その女性がすみません、と声をかけてきました。 見ると日本人ではなく、東南アジア系の人で、日本語も片言でうまく話せないらしく、手に持った日本語が書いてあるカードを見せてきました。 そこには、「私は海外からの留学生なのですが、コロナの影響でアルバイトの仕事がなくなってしまい、収入がありません。私が作ったお菓子を買って助けてください」書いてありました。紙袋の中には、小さな袋に入ったお菓子らしきものが並んでいました。値段を聞くと、1袋500円だと言います。 私は瞬間的に「買いますよ」と答え、1袋買うことにしました。

なぜその時、即座に買うと言ったのかというと、1つはその子が20代前半ぐらいで、私の高校三年生の息子と年齢的にあまり変わらない感じに見えたからです。もしうちの子がこんな境遇だったら、と想像してしまいました。 もう1つは、その数日前にたまたま見たテレビ番組を思い出したからです。 それは、多国籍の人たちが集まる街として知られている新大久保で商売をしている在日外国人の人たちを取材した番組でした。 新型コロナウィルスの感染拡大の影響で、仕事や収入が減ったりなくなったりして困っている日本人のことは毎日ニュースで取り上げられていますが、番組で見た外国籍の人たちはもっと深刻な影響を受けていました。言葉の壁や文化の壁のせいで、仕事や収入を失っても助けを受けられなかったり、周辺の日本人の住民に文化的なちがいを理解してもらえず、助けを受けられないどころか、トラブルになったり、冷たい仕打ちを受けたりしていました。 あるネパール人の経営者は、自粛で店を開けられず収入がないので、同じ在日外国人の友人に電話で千円貸して欲しいと頼んでいました。大の大人が千円にも困っているという映像に、私は衝撃を受けました。

その記憶がまだ生々しかったので、思わず買ってあげたくなったのです。 「1袋ください」と言って500円渡したら、その子はとても喜んで、「幸せがありますように」と言って一袋渡してくれました。 そして私はバス停に並んだのですが、その子はひき続き「お菓子買ってくれませんか」と通る人に声をかけていました。 しかし見ていると、通りかかる人で彼女を相手にする人は誰1人いません。私は、「マッチ売りの少女」という童話を思い出しました。このまま誰も彼女のお菓子を買ってあげないのだろうか、と心配になりました。

私はその様子を見ながら、もう一つのことを思い出しました。私の妻が、ある日近くのショッピングモールに買い物に行って帰ってきたときに話したことです。妻は、ショッピングモールでパンフレットをもらってきました。そのパンフレットは、難民支援を呼びかけるもので、支援のための募金を呼びかけるボランティアの人(この人は日本人です)に声をかけられ、もらってきたのだそうです。難民とは、戦争や内戦などで住む家と生活を奪われ、外国に逃げている人たちのことです。最近だと、西アジアにあるシリアという国の内戦で大量に難民が発生し、ヨーロッパに流れ込んで大きな問題になりました。

妻は難民支援に関心があったので、パンフレットを受け取ってその人の話を聞いたのだそうです。その時、ボランティアの人は、朝から一日中買い物客に声をかけ続けているのだが、誰1人相手にしてくれず、妻が初めてパンフレットを受け取ってくれたと言ったのだそうで、妻は驚いてしまったというのです。日本人ってそんなに冷たい国民なのか。同じ日本人としてどうかと思う、と妻は言いました。

その話を思い出し、私はじっとしていられなくなって、もう一度その子のところに行き、あと2袋ください、と言って千円渡しました。その子は「ありがとう、幸せがたくさんありますように」と言ってお菓子を渡してくれました。その後どうなったかは、バスに乗ってしまったのでわかりません。次の日からは、駅前でその子を見かけていません。ここは買ってくれる人が少ないと思って、場所を変えたのかなと思います。その子はフィリピンから来たと言っていましたが、手作りのお菓子は、日本にはない味で、とても美味しかったです。

私は、別にいい人というわけではありません。たまたま最近見たり聞いたりしたことがあって、それを思い出したから、そうせずにはいられなかっただけです。もし先ほど話したようなことを見たり聞いたりしていなければ、私もその留学生の子を無視して通り過ぎていたかもしれないと思います。何が行動の分かれ目だったでしょうか。「知っているかどうか」なのだと思います。たとえいい人でも、人を助けるため、人の役に立つために必要なことを知らなければ、人のために行動することはできないと思うのです。私たちが多くのことを学び、多くのことを知らなければならないのは、このためです。「知らないことは罪だ」「知ろうとしないことは罪だ」という言葉を聞いたことがありますが、その通りだと思います。

さて、今日の聖書の言葉には、私たちの神様がどんな神様なのかが書かれています。私たちの神様は、天から人を見下ろして、お前たちはダメなやつらだ、と裁いているような神様ではありません。神の独り子イエス·キリストは、神であるのに人間の姿をとって人間の世界に降りてきました。そして、王様や金持ちやエリートの家ではなく、最も貧しく見下されているような庶民の家に生まれ、貧しい人々の苦しい生活を自分で経験し、味わい、知ってくださいました。最後は、最悪の犯罪人がかかる十字架での死刑まで味わって下さったのです。そこまで私たち人間のこと、特に苦しんだり悲しんだりしている人間のことを知ろうとして下さるのが私たちの神様であり、イエス様です。 私たちの神様がそういう神様であるということは、素晴らしいことではないでしょうか。

祈り
私たちが苦しいとき、つらいとき、イエス様は必ず私たちのところに来て、ともにいてくださることを信じ、感謝します。私たちもまた、苦しんでいる人、つらい中にある人のことを知る努力をし、そのような人たちの役に立つことができる人間になれますように、力と導きを与えて下さい。コロナの影響で苦しんでいる世界中の人々のうえに、神様のお恵みがありますように。

 

礼拝メッセージ 9月11日

弱い時にこそ強い

高二担任 大和 由祈

こちらから讃美歌291番「主にまかせよ 汝が身を」を聞くことができます

 

【聖書】コリントの信徒への手紙二12章9節~10節

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

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これまで、典型的なアウトドア人間だった私は、暇さえあれば予定を入れてあちこちに出かけていたので、家でのんびり本を読んだり映画を見たりということはほとんどありませんでした。生徒の皆さんには「本を読むことが大事だ」「沢山のインプットをして知識を増やすべきだ」と言っておきながら、自分自身はほとんどその時間を取っていなかったのです。しかし、今回このコロナがあったことで、私はこの2020年を自分の中で「インプットの年」にすることに決めました。そして4月から、読んだ本と観た映画の記録をつけはじめ、今日までに読んだ本は45冊、そして観た映画は80本になりました。自分が気になっていたもの、友人や先生、皆さんがClassroomや英語のWritingで紹介していたもの、ネットで話題になっていたものなどジャンル問わず様々なものに触れてきましたが、この雑多なもののインプットというのは、自分の思っていた以上に自分に多くのものを与えてくれていると感じながら、今も空いた時間を見つけては楽しんでいます。

今日はその中でも特に印象に残った、実話をもとにしたドイツ映画「5パーセントの奇跡」という作品を少し紹介したいと思います。

主人公の青年サリーは、ホテルマンになることを夢見ていましたが、就職活動を前に先天性の病気が見つかり、視力の95%を失ってしまいます。彼は「障碍者」として就職活動に臨みますが、「障碍者である」ということを正直に言うと、どこの会社も雇ってはくれません。そこで彼は自分が「障碍者である」ということを隠してホテルマンに応募してしまい、そしてそのホテルで研修生として採用されることになりました。

サリーはほかの研修生たちと一緒に、客室の清掃作業、クローク、キッチン、パーティー会場、バーと様々な部署で研修をしていきます。しかし目がほとんど見えないサリーが、その障碍を隠して、他の研修生と同じ業務をこなしていくことは決して容易ではありません。研修をしていく中で、同じく研修仲間だった青年マックスや、そのほかの何人かの同僚には、それぞれちょっとした出来事で「サリーの目がほとんど見えない」ということがバレていきます。しかし彼らは、サリーの真面目な態度や強い意志をくみ取り、サリーの障碍をホテル側にバラすことなく、そればかりか様々な形でサリーをサポートしてくれるようになりました。特に研修仲間のマックスは、ホテルの間取りを一緒に歩きながら歩数で教えてあげたり、カクテルを作る練習に連日付き合ってあげたりと、とても手厚いサポートをしてくれます。そのおかげもあって、サリーは「目が見えない」ということを隠したまま、順調に研修の課題をクリアしていきます。

順風満帆と思われたサリーの研修生活も、最終課題を前に、壁にぶち当たります。厳しい教官·難しい課題、研修での失敗、さらには家庭のトラブルと悪いことが重なり、サリーはついに心が折れ、ホテルから逃げ出し、自暴自棄になってしまいます。そんな彼をもう一度、ホテルに引き戻してくれたのは、研修仲間のマックスでした。マックスの説得もあり、サリーは研修先のホテルに戻ります。サリーはそこで初めて、ホテルの責任者の人たちに「自分は目がほとんど見えていないこと」を告白し、「そのことをこれまで隠していたことを謝罪」、その上で「でも自分はホテルマンになる夢を諦めたくはないので、最後の修了試験を受けさせてほしい」と頼み込むのです。ホテルの責任者の人たちは、サリーの告白に驚きましたが、「他の人と同じ判断基準で」という条件で修了試験を受けることを認めてくれました。そしてサリーは、そこからまた猛勉強し、無事その修了試験を突破するのです。

このかなりザックリとしたあらすじの説明だと、良くありがちな「障碍を乗り越えて夢を諦めなかった青年を描いた映画」だと思う人もいるかもしれません。勿論、サリーの姿からは「夢を諦めないこと」の大切さを感じますし、そしてそのサリーを支えてくれる周りの人の温かさも、この映画の重要な要素だとは思います。しかし、私がそれ以上にこの映画から考えさせられたのは、「自分が出来ないこと」「自分の欠けているところ」と向き合い、そしてそれを受け入れることの大切さでした。

サリーは、「ホテルマンになりたい」という夢をかなえるためではありましたが、自分の障碍を周りの人に隠すという選択をしました。勿論彼自身は、常に目が見えないという現実を突きつけられながら生活をしていたとは思いますが、周りの人には「目が見えない」ということを隠し、つまり「自分は他の人と同じように目が見える人のふりをして」生活をしていたのです。最初は、彼自身の人一倍の努力もあり、その「嘘をついたままの生活」もうまくいっているように見えました。しかし、トラブルや失敗が重なった結果、彼は限界を迎え、全てから逃げてしまいます。この挫折は、彼に「自分は目が見えないことで、普通の健常者と同じようには出来ないことがある」という現実を、改めて突きつけた辛いものであったでしょう。しかし、この挫折を経て、サリーはこの「目の見えない自分」「それによって出来ないことがある自分」というのを、本当の意味で初めて受け入れることが出来たのではないかと思います。そしてサリーは、自分自身の弱さ·欠けを受け入れることが出来て初めて、それをようやく、自分の口から臆することなく周りの人にも打ち明けることも出来たのです。

サリーは、自分が「目が見えない」ということをホテルの責任者たちに告白するとき、「1人じゃ何も出来ない僕だけど、夢は諦めたくない」と言います。この言葉には、「1人じゃ出来ないことがあるから助けてほしい」というSOSを周りの人に出す一方で、「自分の夢も諦めたくない」という強い意志も感じることが出来ます。「夢を諦めない」という点では、最初のサリーの姿から変わっていないように思いますが、やはりこのありのままの自分を認めた上での姿の方が、真の強さを得ているのではないかと私は思いました。

私たちも日々生活をしている中で、自分に出来ることを見つける一方で、それ以上に自分が出来ないこと、自分の思い通りにいかないことに出会います。そして、そのような壁にぶち当たると、私たちは多くの場合、それを見て見ぬふりをしたり、そこから逃げようとしたりしてしまいます。
しかし、出来ないことがある自分、思い通りにいかないことがある自分も、自分自身であり、いくら逃げようとしたところで、その自分でなくなることはありません。その弱さを受け入れて、自分の中で認めることで初めて、本当の自分に出会い、その本当の自分が出来ることを見つけていくことが出来るのではないかと思うのです。

そして、この弱さがある自分、欠けがある自分が突きつけられたとき、私たちが思い出すべき存在が神様だと思います。神様は、どんな私たちであっても無条件に受け入れてくれ、そしてどんなときでも私たちと共にいてくださいます。そのことは、先ほどお読みしたパウロの言葉にも述べられています。9節にあるように「神様の恵みは、神様の力は、私たちの力が弱っているときこそ、十分に働くもの」だということです。

私たちはこの言葉を信じ、自分自身の弱さを痛感してしまうときこそ、この神様の存在を思い出し、そして助けを求めていきたいと思います。「出来ない」「分からない」その自分をさらけ出すことによってこそ、その神様の助けに気付く瞬間というのも訪れるのです。そして、その力も借りて、自分自身の弱さを認め、その中で自分に出来ることを見つけていかれればと思います。

礼拝メッセージ 9月7日

Peace of cake

宗教主任 藤本 忍

こちらから讃美歌380番「立てよいざ立て」を聞くことができます

【聖書】マタイによる福音書6章19節~21節

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

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8月は私にとって「戦争」と「ケーキ」の月です。「悲劇」と「祝い事」が同時に訪れる月です。6日の広島原爆投下、9日の長崎原爆投下、15日敗戦記念日、そして20日の私の誕生日。今年の8月はコロナの影響なのか、例年より戦後が少し遠くに行ってしまったような感じがしました。そして、有難いことに何度か誕生日ケーキを食べました。その度に祝ってくれた人達のケーキの切り方が違っていて記憶に残りました。どんなに大きなケーキでも、そこに集った人数に合わせて切る人、逆にどんなに小さくても、公平に同じ大きさに切って余りを出す人、また、ケーキに乗っているフルーツを切らないようにして、大中小様々な大きさに切って、食べる人が好きな大きさを選べるようにする人、等々。

昨日、7号位(直径21cm)のショートケーキの写真を色々な先生に見せて、どの位の量を食べたいか聞きました。Y先生は「全部食べたい。切る必要はないです。」と言い、英会話のM先生は「1/4がいいな。それが私のお腹には丁度いい!」と言い、A先生は「食べられる限り全て」と言いました。私自身はお腹が空いていなかったので、1/8食べられればいいと思っていました。円型の物は偶数だと切り易い、というのも頭にありました。またS先生は「一切れ、一切れ頂ければ充分です。でも二切れ頂けたらなお嬉しいです。」O先生は「イチゴだけ下さい。あとはいりません。」M先生は「ショートケーキは好きじゃないからな~」と具体的な大きさは言いませんでした。最後にD先生。「1/4でいいです。チョコレートケーキじゃないから。」と遠慮がちに言っていましたが、8人に聞いて1/4を要求されるのは分ける側からするとキツかったです。
自宅に帰り、どうやって分けるのが良いのか、写真のケーキに実際に切れ目を入れて、先生達の要望を割り当ててみました。そして、上手く要望に応えようとすればするほど、やはりY先生の「全部食べたい」という要望とA先生の「食べられる限り全て」という要望に対して、どうすればいいのか、そこに焦点が絞られました。要望を減らしてもらうにはどう交渉したらいいのか、寝ずに考えました。

実はこの「Peace of cake」は、ケーキを地球(領土)に見立てて、どうやって平和の裡に、争いなく分けることができるかを考える「実践的平和学習の一環」でした。実際、私は、全部取りを要求するY先生をアメリカの指導者に重ねてみたり、控えめなS国の要求では、いずれY王国に滅ぼされることを想像したり、小さいながらも藤本国は大国Yにどう抵抗しようかなど、真剣に考えたりしました。イチゴだけを要求するO国は、油田だけが目当てなのか、A国には交渉のタイミングさえ間違えなければ、きっと大した量は要求しないないだろう、そんなことも考えました。そして、気付いたことは、この場合の私にとっての平和は「譲ることであり、誰かの為に妥協することであり、自分の言い分をひっこめること」でした。
そして、もし、ここにイエス様が参加していたら、多分、「皆で分けなさい」と言って全てを放棄するのではないか、と考えました。なぜなら、イエス様は普段からお金を一銭も持たず、日々の生計は弟子達に任せ、十字架の死に至るまで、一切の財産を持たなかったからです。ひたすら与えて、与えて、与え続けた方でした。ご自身は手ぶらで生涯を終えて、世界に途轍もない足跡を残しました。「天に富を積む」とは地上のものに執着しない、イエス様のような生き方のことを言うのかもしれません。

イスラエル、ドイツ、イギリス、日本の中学生に聞いたアンケートにこういうものがあります。「正義の戦争はあるか」、「どんな戦争にも反対か」。前者の問いには最も賛成が少なく、後者の問いに対しては8割以上が「反対」と日本の中学生は答えています。4か国中、日本の平和意識は最も高いのです。これは誇るべき数字だと私は思います。戦後75年、引き続き「平和を実現する」ために、私達はこれからも血の滲むような努力をしていかなくてはならない、と改めて決心しました。

受験生の皆様へ「オンライン合同説明会」ご覧ください

私立中学校「オンライン合同説明会」(中受ラジオ)に捜真女学校も参加しています。

合同説明会や各学校での説明会が行えない中、多くの学校の情報をご覧いただけるサイトです。サイトに登録していただくことで、捜真の教育や生活、部活動などを詳しくお読みいただけます。ぜひご覧ください。

こちらから「中受ラジオ」のサイトをご覧になれます

礼拝メッセージ 9月3日

「生きている言葉」

                         高二副担任 山村杏菜

 

こちらから讃美歌461番「主われを愛す」を聞くことができます

 

John 15:1-8
‘ I am the true vine, and my father is the gardener. He cuts off every branch in me that bears no fruit, while every branch that does bare fruit he prunes so that it will even more fruitful. You are already clean because of the word I have spoken to you. Remain in me, as I also remain in you. No branch can bear fruit itself; it must remain in the vine. Neither can you bear fruits unless you remain in me.
‘I am the vine; you are the branches. If you remain in me and I in you, you will bear much fruit; apart from me you can do nothing. If you do not remain in me, you are like a branch that is thrown away and withers; such branches are picked up, thrown into the fire and burned. If you remain in me and my words remain in you, ask whatever you wish, and it will be done for you. This is to my father’s glory, that you bear much fruit, showing yourselves to be my disciples.

(【聖書】ヨハネによる福音書15章1節~8節)

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先日、家族で久しぶりに集まる機会がありました。私には姉がいるのですが、この秋から姉夫婦は仕事で海外に行くというので、急遽みんなで集まることにしました。今までであれば、家族で集まるということは、そんなに珍しいことではなかったのですが、このコロナ禍では離れて暮らしている家族が一度に集まることは、とても特別なことのように感じました。

そこで、せっかくみんなで集まったのだから、家に置いてあったワインを開けて飲もうという話になりました。(みなさんは未成年なのに、こんなお話をしてごめんなさいね。)
さて、いざ飲もうと思ったら、ワインのラベルにこんな言葉が書いてありました。

‘I am the vine, you are the branches. John 15:5

夫と私はこのラベルを見てはっと顔を見合わせ、「聖書の言葉だ!」とびっくりすると同時にとても嬉しい気持ちになりました。なぜなら、この聖句は私がとても大切にしている聖句の一つだったからです。私の家族はほとんどクリスチャンではないのですが、この大切な家族の集いの時にイエス様の言葉を見ることによって、「そうか、神様はこんな時にも私たちのことを見守ってくださるのだな。」と嬉しく思いました。

では、なぜ私がこの聖句を大切にしているかというと、「私はイエス様と繋がっているんだ!」という経験があるからなのです。私は20代後半になってから、イギリスの大学院に留学をしていたのですが、留学中に現地の教会に通い、神様に救われました。イギリスに行くまでは、日本語でしか聖書を読んだことがなかったのですが、現地では英語の聖書、英語による礼拝、そして賛美歌も英語でした。私は日本語の聖書を片手に、英語の聖書を開きながら礼拝を捧げていました。不思議なことに、日本語と英語の聖書では、同じ箇所の聖句を読んでいても、目に留まる言葉が違ったり、感じ方が違ったりしました。

私が一番最初にイギリスの教会で参加した礼拝では、イザヤ書の5章を読みました。聖書には「ぶどう畑の歌」と書いてあるように、何度も’vineyard’(ぶどう畑)という言葉が繰り返しでてきました。

Isaiah 5 The song of the vineyard

I will sing for the one I love a song about his vineyard:
My loved one had a vineyard on a fertile hillside.
He dug it up and cleared it of stones and planted it with the choicest vines.
He built a watchtower in it and cut out a winepress as well.
Then he looked for a crop of good grapes, but it yielded only bad fruit.

‘Now you dwellers in Jerusalem and people of Judah, Judge between me and my vineyard.
What more could I have been done for my vineyard than I have done for it?
When I looked for good grapes, why did it yield only bad?
Now I will tell you what I am going to do in my vineyard:
I will away its hedge, and it will be destroyed;
I will break down its wall, and it will be trampled.
I will make it a waste land, neither pruned nor cultivated,
and briers and thorns will grow there.
I will command the clouds not to rain on it’

The vineyard of the Lord Almighty is the nation of Israel,
And the people of Judah are the vines he delighted in.
And he looked for justice, but saw bloodshed;
for righteousness, but heard cries of distress.

(【聖書】イザヤ書5章1節~7節)

これを最初に読んだ時は、本当に何も分からず、ただ一言 ‘ vineyard’ (ぶどう畑)という言葉だけがずっと残りました。そして何故かそれがどうしても気になってしまい、「何でぶどう畑なのだろう?」という疑問がずっと私の頭と心から離れませんでした。結局、私はこのことをきっかけに毎週教会に通うことにしました。「英語で礼拝したい」とか「教会で友達を作りたい」というような理由ではなく、「ぶどう畑の本当の意味が知りたい!神様の言葉が理解できるようになりたい!」という動機から毎週教会に通うようになり、聖書を読むうちにイエス様との繋がりを感じ、気づいたらクリスチャンになっていました。その頃に出会った聖句がまさに今日読んだ箇所です。

‘I am the vine, you are the branches.’
「わたしはぶどうの木。あなたがたはその枝である。」

聖書の言葉に書かれたたった一言の言葉で人生が動き始めるのですから、聖書の言葉は生きているんだなと改めて感じます。

私の経験のように、「今」は分からなくても、きっとどこかで振り返った時に「なるほど、そういうことだったのね!」と思うことがたくさんあると思います。それなので、みなさんも人生において、「何でなんだろう」と疑問に思ったことをそのままにしないで、とことん追及してほしいなと思います。しっかりと向き合うことによって、真実が見えてくるということを神様は私たちに教えてくれているのだと私は思います。きっと神様は私たちの人生の中にいろいろな生きるヒントを与えてくれているのだと感じます。これからもイエス様にしっかりつかまって、豊かな人生にしていきたいなと思います。

お祈りします。

愛する天の父なる神様、今日も私たちを学校に集わせてくださり、そして礼拝を捧げることができたことに感謝します。私たちは自分の目の前にあることに気をとられ、あなたの存在を考えずに自分勝手に行動してしまいます。ですが、このように礼拝を捧げることによって、私たちは「イエス様につながっているんだ!」ということをしっかりと思い出させてくださり、ありがとうございます。ここに集う一人ひとりがあなたの愛を感じ、これからもしっかりと歩んでいくことができますよう、あなたが力を与えてください。このお祈りを主イエス·キリストのお名前によって、御前にお捧げ致します。アーメン。

 

 

 

 

図書館から本の紹介  9月3日

『少年と犬』馳星周  文藝春秋
直木賞受賞作として、書店に平積みされていました。
受賞したことよりも、タイトルに「犬」とついていることが気になって読んでみました。6つの章に分かれていて、いずれも主人公の「多聞」が先々で出会う人との場面が描かれています。
犬と関わりを持ったことのない方には、ぴんとこないところもあるかもしれませんが、犬と生活をしたことのある人は涙が止まらないかもしれません。
犬と人との関わりから、人間の生き様が際立って読み取れる一冊です。
人は何を求めて生きているのでしょうか。著者の馳さんの思いがつまった作品です。

礼拝メッセージ 8月31日

「本当に大切なこと」

                        高二担任 内山仰太郎

 

こちらから讃美歌291番「主にまかせよ汝が身を」を聞くことができます

【聖書】マルコによる福音書12章28節~31節

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

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古い話ですが、「ベストキッド」という映画があります。1984年のアメリカ映画です。気弱なひとりの少年が空手を通じて大人として成長するという王道の青春映画です。コロナ禍で礼拝の話をしなければと考えて、ここ最近、なぜか私が高校生の時に見たその映画の1シーンを私は思い出していました。
主人公の少年はミヤギという空手の達人に弟子入りします。しかし、ミヤギはカラテを全く彼に教えません。彼が少年に命じたのは、クルマのワックスがけと塀のペンキぬりを正しい形でていねいに手を抜くことなく毎日行え、ということでした。
少年がミヤギに命じられたことの意味が分からず、仕事をいい加減にし始めると、ミヤギは怒り、与えられている仕事にちゃんと向き合ってやれ、手を抜くなと怒ります。少年は意味は分からなくても、ミヤギに空手を教わりたい一心で、目の前のことに集中し、命じられた仕事を最後までやり抜きます。そして、彼は後に人生をかけた試合に臨んだときに気づくのです。ワックスがけとペンキ塗りでたたき込まれた動きが空手の防御の型として、彼の身体操作の完全な一部になっていたということを。

私たちは新型コロナの流行という予期せぬ出来事に、今、翻弄される日々を生きています。当たり前のように出来ていたことが出来ない日常、「新しい日常」とは何なのかを考える日々を送っています。
コロナが明らかにしたことは、これまで私たちが当たり前だと思っていたこと、普通に出来ると思っていたことは、当たり前でも普通でもなかった、ということです。
将来、何になりたいのか、どんな職業につきたいのか、そいうことを考える前提となってきた社会のありようは、コロナウイルス一つで変えられてしまうような不確実なものであった、ということです。皆さんが将来、生きていく社会のシステムは、間違いなく今とは大きく変わっていることでしょう。そんな時代にあって、将来のことが決まらない、決められない、そう思い悩むのは当たり前のことです。
混乱の中で、何が「最も大切なこと」なのか「正しいこと」なのか、その大切なことを得るために、今、私は何をすればいいのか、それを真剣に考えれば考えるほど、むしろ迷いは大きくなるのかもしれません。
しかし、きっと一生続くであろう、その問いを若い時から答えがわからなくとも問い続けることが、実は私たちが生きていくために最も大切なことなのではないだろうか。そのことを今回のコロナの問題は思い出させてくれたと私は今、思っています。

古代ギリシア世界が、それまでの秩序が壊れ混乱の中にあった時に登場した哲学者ソクラテスは、「無知の知」という言葉を私たちに残しました。「私はまだ何も知らないということを知っている。だからこそ、混乱の中にあってもよく生きるために本当の事を知ろうとするのだ」という意味のことばです。「美しい」とは何であるか、「正しい」とは何であるか。それを知らない、わからないからこそ、人生を通してそれを追い求める、そのために生きる、そこに人生の意味がある、ということです。
捜真女学校という校名は、このソクラテスのことばに通ずるものがあると思います。真を捜す、それこそが生きること、その精神を校名として掲げる学校に、今、皆さんは学んでいる。そのことを、この困難な時にこそ今一度思い出したいと私は心から思います。
聖書に示された言葉を変わらぬ真理であると信じ「神を信じ、隣人を自分のように愛せ」という言葉が意味すること、自らの具体的な人生の中で追い求めること、今、私が目の前にしているなさねばならぬ務めは、その真理を知る道につながっていると信じ、その務めに忠実であること。迷いの中にある時、混乱の中にある時こそ、そのことを思い出してほしいと私は思います。

だから、今は意味がわからずとも、迷いの中にあったとしても、私自身に与えられているなすべきことにしっかり向き合いましょう。うつろいやすいこの世で何が損なのか、得なのかではなく、それを超える真理を見つけるためにも、なすべきことに全身全霊を尽くしてみましょう。それが「本当に大切なこと」を教えられる最善の道だと信じて。

その先で、私たちはきっと「ベストキッド」の少年のように、真理が私の一部になっているということを知らされる日を与えられるのだと私は思うのです。
今、赦されている目の前の学校生活を、学びの日々を、それが真理に至る道なのだと信じて、共に歩んでいきましょう。

礼拝メッセージ 8月28日

「おさなごのように」      

高二担任 廣川敦子

こちらから讃美歌2編26番「小さなかごに」を聞くことができます

【聖書】マタイによる福音書18章3節
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」

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先日、朝出勤しようとした夫が、家の駐車場から私に電話をしてきました。
子どもを連れてとにかくすぐに来てというので、何事かと飛んで行きました。駐車場に着くと夫が指をさす先には、小さなクワガタが歩いていました。一緒に来た息子は大喜びで「わー、クワガタだ!ねぇ、ウチで飼ってもいいよね?」と私に言ってきました。必ず自分で世話をすることを約束して家へ連れて帰りました。

大喜びの息子は、興奮気味に話をしてきます。「クワガタって夜行性なのに、なんでこんな朝に歩いてたんだろう。しかも駐車場にいるなんて、ラッキーだったね。見て見て、木にしがみつくために足がこうなってるんだよ。」と嬉しそうです。息子に虫の知識が割と豊富にあることに少々驚きました。

しかしながら虫を触ったりするのがあまり得意ではない私にとっては、正直ラッキーとアンラッキーな気持ちが入り混じっていました。

息子は早速プラスチックの入れ物にクワガタを入れ、入れ物の周りに黒い画用紙を貼って、夜を再現しているようです。そして小さなライトを横に置きました。なんでライトを置くの、とたずねると、「これはお月さまの代わり」と言っていました。

10時に近所のホームセンターが開いたら、クワガタの飼育セットを買いに行くことになりました。まだ2時間あります。息子は気が気ではない様子で、じっとクワガタを見ては「もうすぐお布団とごはんを買ってくるから、待っててね。」と話しかけています。
クワガタ一匹でこんなにも嬉しそうにする息子の姿が、かわいいなぁと感じました。

無事に飼育セットを手に入れ、クワガタを中に入れました。すぐに土の中へもぐっていき、見えなくなってしまいました。すると息子は「夜になればきっと出てくるよ。だから今日の夜中は1時間ごとに起きてチェックしたいから、起こしてくれる?」というのです。内心うわーと思いつつも、「わかった。1時間ごとにまずは私が見て、もし出てきたらその時は必ず起こす。」と約束しました。

10時の就寝後、私は夜中の2時から1時間ごとにチェックをしました。結局初めてクワガタが姿を見せたのは朝の7時でした。息子に「クワガタ出てきたよ。」と声をかけると、とび起きて見に行きました。そして「よかったー、生きてるね。」と安心した様子でした。
その後1週間ほどたった今も、クワガタは無事に生きています。

幼い子どもは、虫など目の前の命あるものを怖がることもなく、ごく自然に愛することができます。しかし大きくなるにつれ、虫はいやなもの、怖いもの、できれば触りたくないもの、という認識にかわってゆくのです。逆に幼い頃あれほど怖かったお化けの存在は、いつのまにか怖くなくなっています。年齢に伴う感覚的な変化とは、あらためて不思議なものだと思わされます。

私の中で神様の存在とは、幼い頃は疑うことなく純粋に怖れ信じるものでした。中学生の頃にはいやなもの、となりました。でもまた高校生の頃に、やっぱり自分の中で大切で信じるものに変わりました。

私が神様を信じて生きると決めた時から、20年以上が経ちました。
時には大きな困難にぶつかることもありました。でもあとから振り返ってみたとき、結局は神様に守られている、愛されているという感覚的なものに救われているような気がします。
これからも神様を信じ、与えられる恵みに感謝して生きてゆきたいと思います。

 

礼拝メッセージ 8月26日

「正義中毒とイエスの教え」      宗教主任 藤本 忍

 

こちらから讃美歌234番A「昔主イエスのまきたまいし」を聞くことができます

 

【聖書】ヨハネによる福音書8章1節~11節

イエスはオリーブ山へ行かれた。 2朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 4イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 6イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

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数か月前、毎週土曜日に放映されているTV番組「世界一受けたい授業」をたまたま見ていました。すると脳科学者の中野信子さんが出演されていて、「今、日本では、正義中毒が流行っている!」というタイトルで授業をしていました。大変興味深い内容でした。彼女が言うには、今、日本では、自分と異なる意見を持つ人を赦せない人が増えている、特にインターネット社会になり、SNSが普及したことによって、そこに拍車がかかっていると言っていました。とっても納得しました。
なぜなら、芸能人や著名人の言動だけでなく、自分の隣に座っている人の仕事上のミスや気に入らないことまでも、ツイッターやインスタなどのSNSによって簡単に拡散され、どこの誰かわからない人から誹謗中傷を受けたり、どこの誰かわからなくても、誹謗中傷をしたりする人が事実、存在しますし、その誹謗中傷で傷ついた人が命を落とすという社会問題にすらなっているからです。

では、なぜSNSNの普及が「正義中毒者増殖」の拍車をかけているのでしょうか。それは、匿名性とその世界だけの共感性が原因のようです。何を言っても顔や名前がバレないという安心感。一緒になって攻撃しているという連帯感。更に、人は人を裁く時、快楽物質であるドーパミンが脳内で大量に出ていて、「人への攻撃」は楽しくて止められない中毒性があると言うのです。ターゲットを決めては攻撃をして、感情が収まればまた次へと相手を変えて再炎する。怖い話だと思いながら、インスタで自身の投稿をたくさん揚げて「いいね」をたくさん欲しがる人の心情とも似ているのではないかとも思いました。「正義中毒」も「いいね」もどうすれば終わるのか。それは、多分、自分にとっての絶対的他者からの「たった一つの『いいね』」を貰えれば、不特定多数からの「いいね」なんていらなくなるのではないか、と思ったりもします。でも、このたった一つの「いいね」が得られないがために、多くの人は彷徨っているのかもしれません。

また、授業の中で中野さんは、日本人は人に対して寛容に接するのに必要なセロトニンという前頭葉の物質が世界で最も少ない民族である、とも言っていました。日本人同様に少ないのは北欧の人たちです。要は日照時間に比例するということです。日本は気候帯として北欧とは違うわけですから、とどのつまり、屋内で過ごす時間が非常に多い内向きの国民性と言えるのだと思います。
最後に私が最も関心を持ったのは、正義中毒症の解決方法です。

一つ目は相手にも自分にも一貫性を求めないということです。人間というものはどこまで行っても不完全なもので、永遠に完成しないということを弁えておくことです。私は将来夫となる人と24~5歳のころに付き合い始めました。長くお付き合いすると、昨日言っていたことと今日言っていることと違う、この人、なんなの?と思うこともよくありました。当時の私は、なぜあんなに普段優しい人が、時々頑固になるのか。果たして優しさと頑固さは同じ人間の中に成立するのか、考えました。そして、彼に質問しました。すると彼はこう言いました。「君もまだまだ未熟な人間だな。人間とはそういう矛盾した存在なんだよ。一人の人間の中に相反するものが共存する、そういう矛盾した存在が人間なんだよ。」と。

もう一つの解決方法、それは、対立でなく並列で考えることです。対立軸から抜け出して、何事も並列で処理する、つまり全てを相対化することです。互いに互いを包み込んでいく、これが正義中毒から解放される秘訣だそうです。

本日の聖書箇所ですが、姦淫の現場を押さえたと意気揚々と律法学者やファリサイ派が主イエスの所にやってきます。姦淫の現場であれば、男性もいたはずです。しかし、女性しか彼らは連れてきません。公平に裁こうという気はなく、あくまでも主イエスを試そうというわけです。しかし、主イエスは何も言わずかがみ込み、指で何かを書いています。私達はついつい主イエスが何を書いたかが気になってしまいがちですが、地中海世界の人間であれば、この行為が何を意味するのかすぐにわかるようです。それは、あなたのやり方に従って、この話を進める気はもうとうないという、ハッキリとした拒否、拒絶、不参加の意志表示なのです。彼らはイエスが参加してこない、不参加の意志を示しているのがわかったからこそ、執拗に問い続けました。しかし、主イエスはやはり同じ土俵には乗ってきませんでした。と思った次の瞬間、主イエスはこの状況を一変させます。それがこの言葉です。「罪のない者がまずこの女に石を投げよ。」訴えられた女性も、訴えようとやってきた律法学者もファリサイ派も共に同等な人間として、一貫性のない一罪人として並列に置かれたのです。そして主ご自身でさえ、その身を低くかがめて、同じ地平に立たれて「私もあなたを罪に定めない」と言われるのです。彼女を裁こうとする者には過去の罪を思い起こさせ、今、まさに罪を犯した女性には、赦しと解放を与えて未来へと押し出されたのです。聖書には、年長者から始まって、一人、また一人と立ち去って行ったとあります。これは事実だと思います。中1の生徒に「罪人だと思う人?」と聞いても、誰一人手を挙げません。しかし、高三の生徒に「自分には罪があると思う人?」と聞くとほぼ全員手を挙げます。

主イエスが生きられた紀元1世紀は、心理学も脳科学も全く存在していない時代です。しかし、現代、それらが解明されればされるほど、主イエスがなさったことがどれほどのものなのかがわかります。漸く時代が主イエスについて来た、と言えるのかもしれません。当時の人々が主イエスの教えの新しさに感嘆し、魅せられ、救われたように、現代の私も主イエスの教えの新しさに魅了され、そして救われています。姦淫の女性を一緒になって裁くのではなく、一貫性のない罪人として並列に立ち、互いに互いの罪を包み込んでいく、そのような交わりをしていきたいと思います。なぜなら、姦淫の女性は私達自身だからです。キリストに出会うことによって変えられるのは、人間観であり、世界観であり、そして人生観なのだと思います。

🎵一人だにも、滅ぶるは、み旨ならじ、助けよ🎵 讃美歌493番より