投稿者「soshin」のアーカイブ

図書館から本の紹介 11月16日

空気の冷たさとともに、4階からの眺めも澄みわたり、遠くまで見渡せるようになりました。
校舎の窓から、富士山がくっきりと見えるようになると、いつも校歌の一節「富士の高嶺の門辺にま白く」と、富士山が模られた校章が思い浮かびます。長い間、捜真生は富士山に見守られながら学校生活を送って来たのだと改めて感じます。

『今日すべきことを精一杯!』日野原重明 ポプラ社

捜真の初代学院長 日野綾子先生が神様の元に旅立たれた年、捜真の卒業礼拝で日野原先生がお話をしてくださいました。当時、日野先生の主治医であった日野原先生は、105歳で亡くなるまでお医者さまとしての歩みを続けていらっしゃいました。

この本は、78歳の春に出版されたものですが、新書版へのあとがきには(当時105歳)聖路加国際病院の院長、ホスピスの開設、阪神·淡路大震災、サリン、東日本大震災、IT技術と医療の課題などを経験される中で、医師として長い間、先生が「核」とされてきた思いが書かれていました。

「生と死」。誰一人として逃れることのできないこの命題に、日野原先生はどのように向きあってすごされていたのでしょうか。次の世代に伝えたいもの、しっかり読み取りましょう。
看護·医療系を考えている人は勿論、そうでない方にもおすすめします。

 

『QОLって何だろう 医療とケアの生命倫理』小林亜津子 筑摩書房

昨日メモリアルホールで行った《進路選択のための参考図書》の中に入れればよかったと後から思いました。
「Quality of Life」生命、生活あるいは人生の質。
副題にある「生命倫理」は、難しい言葉のようですが、実は日々の生活の中で私たちがどう生きるかを意味します。
「大切なのは、ただ生きることではなく、よく生きること」と文中にありました。誠実にできるだけ妥協せずに、一日一日を大事に生きること。簡単そうでなかなか難しいかもしれません。
でも、心の中にその思いをしまっておくだけでもいいでは。
日野原先生の本とつながるところが見えてきます。

礼拝メッセージ 11月16日

食事に招かれる            

聖書科教育実習生 高橋海帆子

【聖書】ルカによる福音書15章11節~24節

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

*******************************************

休校期間を終え、数ヶ月がたった学校は、少しづつ日常生活を取り戻しているように見えます。もちろん、行事や部活などまだまだ元どおりとはいかない部分も多くありますが、学校にきて生活できる事は嬉しい事です。しかし、そんな生活の中でも昼食の時間の風景は、実習生として1週間皆さんと過ごした今でもまだ慣れません。みんなが教室にいて一緒に食事をいているのに、なるべく喋らないようにと注意をして、前を向いて動画を見て食事をしています。仕方がないことですが、なんだか寂しいように感じるのは私だけでしょうか。

こうした食事シーンはこの学校に限ったことではありません。私が普段アルバイトをしている学童保育でも、昼食やおやつの時には座席を制限し、同じ方向を向かせて、話し始めたらすぐに静かにさせています。注意を受けた子どもたちは不満そうな顔をして、つまらない、楽しくないなどと文句を言います。そんな姿を見て、私たちは食事に対して「楽しさ」や「充実感」を求めていることに気がつきました。

さて、もう一つ食事の持つ別の姿を紹介します。私は年に数回、母と喧嘩をしてしまうことがあります。1ヶ月前も母を怒らせてしまい、しばらく口を聞かない日が続きました。正直それで何か困ることはなく、普段通りの生活を続けます。そのうち用事があって話したり、私の方から謝ったり、何かしらのきっかけで仲直りをします。そんな中で、我が家での仲直り定番パターンが、食事に呼ばれることです。家の中で誰か喧嘩をしている人がいると、その人だけ勝手に自炊を始めて、家族が集まって食事をしていても、そこには現れなくなります。そんな生活が続くと、母が痺れを切らしてご飯だから食べましょう。そう声をかけてくれます。

今日読んだ聖書にも宴会が開かれる様子が描かれています。皆さんも知っている人が多い「放蕩息子のたとえ」です。父からもらった財産を使い果たし、ボロボロの状態で帰ってきた息子を、父親は抱きしめて着替えさせ、食事の席へと招きます。この息子は家を出る前に、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言って、本来なら父親が亡くなってから貰うはずのお金を受け取ります。父親はまだ元気に生きているのに、です。家族とのつながりを自ら切って、お金を選んで旅へ出かけてしまいました。そして、旅先で飢えて帰ってくるときには「もう息子と呼ばれる資格はありません」という謝罪の言葉を用意して、雇い人として住まわせてもらおうと考えていました。あんなことをした自分もう家族として受け入れられるはずなどないと考えていたからです。そんな予想は裏切られて、彼のために宴会が開かれました。この食事の席についた時、彼は本当に赦されて、家族として受け入れられたことを感じたのではないかと思います。ほかの雇い人たちとは違う、同じ食卓につき、同じ食べ物を一緒に食べることができる。食事は親しい交わりのうちにいる象徴ともいえるかもしれません。

今日みなさんと一緒に読むことはできませんが、聖書の中には他にも食事のシーンがよく出てきます。「放蕩息子のたとえ」を通して、神様が家出した人を赦し招かれる方であることを伝えたイエスもまた、多くの人々を食事に招かれる方でした。中でも、罪人とされていたような人と共に食事をする姿は印象的です。マルコによる福音書では、徴税人や罪人とされていた人と共に食事をするイエスの姿が描かれています。当時、そうした人と同じ席につくのはありえないことだったので、周りの人は驚いたり、怒ったりしていました。そのような他の人からは除け者にされていたような人や今はまだ神様との交わりの中にいない人まで、「ついてきなさい」と言って食事に誘ってくださるのが聖書の語る神様の姿です。

コロナウイルスのために、これまで通り食事を楽しむことのできない今、私たちは改めてその大切さを知ることができます。冒頭でお話したように、食事は単に栄養をとるための時間だけではありません。友達や親しい人に食事に誘われた時のことや、美味しいご飯を食べながら楽しく話をしていた時のことを少し考えてみてください。そのような楽しい時に、神様はいつも私たちを招いてくださっています。食事に招かれる時、私たちは神様との親しい交わりの中に加えられます。その招きに応える者でありたいと思います。

(11月4日 中3·高一放送礼拝)

 

移動図書館 進路選択の助けに

11月12日(木)放課後、メモリアルホールにて、移動図書館を開催しました。今までも、各学年の談話コーナーで小説や趣味の本などの貸出を行ってきましたが、今回は《進路選択のための参考図書》を準備しました。
2学期は毎週木曜日に4回、違うテーマで貸出をします。

今日のテーマは「看護·医療系」。捜真の生徒は看護系に進学する人が少なくないので、参考図書と大学案内、看護協会や大学講義のダイジェスト版動画などを紹介しました。
短い時間でしたが、中3から高二の生徒が興味のある本を借りたり、居合わせた教員に自分の将来についての夢を語ったり、普段の図書館ではお目にかかれないような、和やかな、そして有意義なおしゃべりの会となりました。

地域医療や小児医療、リハビリに特化した本も読んでみたいとリクエストもあり、積極的に自分の引き出しを増やしていってくれたらと思います。
今後は、心理系·国際系·情報系と予定していますが、経済·経営·金融·法律·栄養などの希望もあったので、3学期も引き続き、計画をしていきます。

貸出のあった図書
『話を聞かない医師』『医者をめざす君へ』『大学入試小論文の完全ネタ本医歯薬/看護·医療系』
『まるまる使える医療看護系小論文』『看護系で役立つ生物の基礎』『プチナース』『石巻赤十字病院の100日間』『わたしはいのちの守人』『はじめて学ぶ生命倫理』『国境なき助産師が行く』
『聖路加病院訪問看護科』『看護師という生き方』『14歳からわかる生命倫理』『安楽死と尊厳死』『いのちの選択』『どこからが心の病ですか?』『どこからが病気なの?』『病院というヘンテコな場所が教えてくれたコト』他

礼拝メッセージ 11月10日

人生に開く穴            

中1担任 新井昂太

【聖書】創世記37章18節~24節

兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、 相談した。「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から助け出そうとして、言った。「命まで取るのはよそう。」ルベンは続けて言った。「血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない。」ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである。ヨセフがやって来ると、兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった。

********************************************

今日の聖書箇所は、兄たちに裏切られ穴に投げ入れられたヨセフという人物の物語です。穴に投げ入れられたヨセフの物語にちなんで、「穴」をキーワードにお話をします。

皆さん、手でOKサインを、つまり親指と人差し指で穴を作ってみましょう。その穴を2㎜くらいまですぼめ、目にあててみてください。

私は皆さんと同じ中学生の時期、いや、小学校高学年から高校2年生の間くらいまで、しばしば教室でそのように手に小さな穴を作ってものを見ていました。と言うのも、このようにすると遠くのものが少しだけ、ほんの少しだけですがよく見えるのです。(目を細めるのと同じ原理です。)私は随分目が悪く、そして目が悪いにも関わらず特に意味のないこだわりで眼鏡もコンタクトも頑として拒否していました。視力検査をすれば、あのCのような記号の一番上も全く見えませんでした。一度は眼科医の方があのCを紙に写したものを持って近づいてきて、それでも1~2mくらいまで来てようやく見えたかどうか…というような私の様子をその眼科に来ていた方々に見つめられていたこともありました。

このようなお話をすると必ず、「私は目がいいのだけど、目が悪いってどういう感じ?」と聞かれます。目が悪い人の「世界」の説明は中々難しく、私も困ってしまうのですが、少なくとも目が悪い私だけが見えている(目が良い人には見えない)「世界」があるのだなと思ったりもしています。

話は変わります。私は学生の時、プールの時間、特に学年の始めのプールの時間をなんとなく憂鬱に感じていました。理由は2つあります。1つ目は単純に泳げないことです。私は全く泳げず、ましてや小学生の頃には水は恐怖の対象でした。怖いし、呼吸は苦しいし…プール嫌だなあ…ということです。理由はもう一つあります。それは私の病気です(病気、と言い切るほど重いものではないのですが)。私は「ろうと胸」と言って胸のあたりに大きなへこみ(穴)があります。だいたい3cmくらいの穴でしょうか。「デリカシー」という概念などまったくない小学生男子ですから、プール開きのたびに「ど、どうしたの!?それ!?」であるとか、「心臓どこいったの??」という言葉が飛んできました。真面目に答えるのも何だし、答えないのも何だし…ということで私は必殺技を編み出しました。それは、驚いて突っ込んでくる友人に対し、それ以上の勢いで「すごいだろ!!」と根拠のない自慢をすることでした。小学生男子とは面白いもので「すごいだろ!!」と言うと、だいたい皆「すげえ!かっこいい!」とか、「選ばれしものだ…!」とか不思議なリアクションをしてくれました。

さて、今日の「穴」をテーマにしたお話は先日中学1年生でPEPTALKを聞いていた時にきっかけを得たものです。そこでは先ほども出た視力検査の「C」のマーク(「ランドルト環」というそうです。)を見ました。PEPTALKの主旨としては、「穴を見るのではない、円ができていることを見ましょう。」という話だったかと思います。でもその時私は別のことを思い起こしていました。それは私が通っている教会の先生が言った次のような言葉です。「キリスト教は人生に開いた穴を埋めるものではない。開いてしまった穴から、人生を見るためのものだ。」

今日話している「穴」とは、「傷」とか「影」とか言い換えられるものだと思います。

さらに具体的にするならば、「上手くいかない人間関係」とか、「どうしても好きになれない自分のところ」とか、「与えられないもの」、「失われた大切なもの」、「苦しい病」などとなるでしょうか。

穴のない人生はありません。誰もが、皆さんのどのような人生においても、上手くいかないこと、悲しみに打ちひしがれてしまうことが起こるはずです。その時には、これから起こる全てのことが、苦しく悲しむべきもののように思えてしまうこともあります。人生の全てが悲しみであるように、人生は暗闇であるように見えることもあると思います。

そんな時、穴から見える世界に意味を見出してくれるのがキリスト教という存在、キリスト教の愛なのだと思います。

私の人生にも穴があります。欠点があり、手に入らなかったものがあり、失われたものがあります。でも、だからこそ見える世界があるのだと感じます。

真っ暗闇の穴の中で、一筋の光を見ようとする人間でいたいと思います。

(11月10日 中1、中2チャペル礼拝)

 

 

 

ご来校ありがとうございました

11月7日中学部学校説明会には127組のご家族にご来校いただくことができました。ご来校の皆様、ありがとうございました。今回はボランティアステューデントが企画·運営を担当し、捜真の学校生活についてお伝えいたしましたが、いかがでしたでしょうか。

お預かりしたアンケートに、募集要項、授業の様子についてのご質問がありました。説明会当日にお配りした資料に、募集要項説明動画、授業紹介動画をご覧いただくためのQRコードを掲載しておりますので、ぜひご活用ください。

当日の礼拝でのお話をご紹介します。

【聖書】サムエル記上16章7節
しかし主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によってみる。」

ペトロの手紙一4章10節
あなた方はそれぞれ賜物を授かっているのですから神の様々な恵みの善い管理者としてその賜物を生かしてたがいに仕えなさい。

********************************************

顔が白い。ぱっちりとした大きい目で、並行二重。鼻は高く、鼻先はツンとしている。貧弱に見えない程度の小顔とスタイル。髪の毛はつやつやしていてまとまりがある。
かわいい人の定義とはこのようなものでしょうか。

誰かが決めたわけでもなければ、そもそも「可愛い」に定義などないのに、いつの間にか自分が思う『可愛い人』はこのような定義になっていて、束縛するように自分を支配するようになっていました。自分に埋め込まれた可愛い人の定義が私を襲ってきます。この定義によって作り上げられた理想像を追い求めるあまり、本来の自分が壊されていると思うこともあります。

人は一日に何回鏡を見るのでしょうか。私は何回顔を分析するのでしょうか。
鏡を見るたび、顔の分析を始める私はこう思います。どうして、なぜ、もっとこうだったら良かったのに、と。
まるで壊れかけた携帯電話を見ているようです。あともう少し使えるかもしれないという希望と使えなくなるかもしれないとあきらめる失望。顔の分析でも同じことが起こります。
大人になり、メイクをすればコンプレックスは隠せるかもしれません、けれどもメイクをしたり、努力を重ねても隠せないコンプレックスだってあります。

右目は切れ長な目で奥二重、目頭側の上まぶたが重いことによって目つきが悪く見えます。それに比べ左目は丸く、目頭から目じりにかけて広くなっていく幅狭並行二重で右目よりも大きい。
よって、人から見た私の顔は目の大きさが異なって見えるという訳です。輪郭だって非対称、最大のコンプレックスは鼻で、低く、つぶれています。

ここで頭に浮かぶのはいつだって妹です。幼い頃からヨーロッパやロシア系のハーフと尋ねられるほど鼻は高く、全体的に見ても整っています。
こうして比べてしまう自分や、みんなが思う一般的なかわいい人を目指す自分が嫌いです。これもまたかわいい人の定義による支配であり、本来はこう生きるべきではないと思います。

昨年捜真で2週間ほど一緒に過ごしたオーストラリア人のお友達がいます。そのお友達に可愛い人の定義についていくつか質問してみました。
まず、かわいい人ってどんな人?と聞いてみるとオーストラリアの女の子は、背が高く、髪の毛が長く、日焼けをした肌、青い目をかわいいと思っている。と、返ってきました。

日本人は白い肌を目指すのに対し、オーストラリア人は日焼けをしている肌を好む。

オーストラリアはアジア系のオーストラリア人もいれば、ヨーロッパ系のオーストラリア人もいる多民族国家ですが、日本と同じように肌の色もかわいい人の定義に組み込まれてしまっていることを知りました。

続いて、体型ついて質問してみました。
日本の女の子はみんなダイエットをしている。それはかわいい人の定義に、瘦せている、という項目が入ってしまっているからだと思う。私はそう生きるべきではないと思うけれどオーストラリアではどういった考え方なのか教えてほしい。アドバイスがあればアドバイスもお願い。と送りました。すると彼女からきた文章にはこうありました。私もあなたと同じで、体型で決まるものではないと思う。しかし、日本のようにオーストラリアでも多くの女の子が体重を減らすためにダイエットをしているひとが多い。また、自分の見た目に自信が持てないために多くの精神的な問題を引き起こす可能性がある。そして、自分が誰であるのか、どのように見えるかを誇らしく思い、誰かにどう言われようと今の自分は美しいとおもうべきであると思う。大事なのは、自分に正直であること、他人に親切であることだと思うとアドバイスしてくれました。

〚この服可愛いけれど、私には似合わない。』という親友に対して、先程のオーストラリアのお友達のアドバイスを聞いてほしいと思います。
おそらく彼女はこの服は細い人が着るのであって私なんかが着ても見苦しいだけだ、なんて思ったのでしょう。それに彼女はよくこう言います。〚着ることができなかったときショックを受けるから』と。

オーストラリアのお友達が、自分が誰であるのか、どのように見えるかを誇らしく思い、今の自分は美しいと思うべきである。とアドバイスしてくれたように、
私は彼女に、あなたが好きと思った服を着てほしい。私にとってあなたは生きてくれているだけで愛おしく、かわいい存在であると毎日思っているから。と伝えたいです。

そして、私は彼女だけでなく、世界中の女の子一人一人が可愛い存在だと感じることができる世界を創りたいです。

アパレルショップのマネキンだって白く、細いマネキンである必要なんてないし、かわいい人が万人受けし、商売が成り立つ世界なんておかしいと思います。そう思うのは私だけなのでしょうか。こんなことを発信すれば自己中心的な考え方だ、とか、実現不可能だと批判されるかもしれません。でもそう思われたっていい、自分は自分らしく生きたい、そう思います。

今日お読みした聖書箇所のように、容姿や背の高さに目を向けるのではなく、神様から与えられた良い賜物を生かして、生きる。

目に映るものを見がちな私たちですが、主が心によって見るように、
自分の気持ちを大切にし、一つ一つ、真面目に、一生懸命生きる。
自分なりの美しいを見つけ、人にも、自分にも,うそをつかずにいたい。

押しつぶされてしまいそうな悩める人に寄り添って、そのような人のためにも。自分が生きやすい世界を創るためにも。〚可愛い人の定義』なんて壊したいと思います。

【お祈り】天にいらっしゃいます父なる神様。今日こうして学校説明会でお話をする機会を与えられ、礼拝を皆様とともにささげられたことに感謝しています。
わたしたちは容姿のことだけでなく、学力においても常に人と比べてしまいますが、存在そのものが大切であることを私たちが忘れずにいられますようにどうかお守りください。
今日この場に集められた受験生、一人一人の上に最善の道が備えられますように。大変な状況の中ですが惑わされず、神様のみこえを信じることができますように。このお祈りをイェス様のみなによってみまえにおささげ致します。

図書館から本の紹介 10月30日

中庭の花壇の花が、ベコニアからパンジーに植え替えられています。

天気の良い日は、外の空気が心地よく散歩に出かけたくなりますが、朝は布団からでるのが少し億劫になってきました。
窓辺に椅子を持っていって、ゆっくり本を読んでみてはいかがですか。

『みつきの雪』 眞島めいり 講談社
とてもすてきな表紙の絵です。そして、裏表紙も。
雪の中、ダッフルコートにマフラーをぐるぐる巻きにして長靴でたたずんでいる女子と男子の高校生。帯には「終わるんだ、もう。春が来るから。」と意味深なせりふが。

きれいな言葉が読み手を温かく迎えてくれます。近くで、流行りのJ‐POPが静かに流れているような気がします。小学生から高校卒業にむけての時間を一緒に過ごし、お互いのありのままの姿を受け止めるそれぞれの軌跡が書かれています。
青春真っただ中?女子校育ちのみなさんに、ぜひ読んでいただきたい一冊です。

 

礼拝メッセージ 11月5日

ポジティブかネガティブか            

中1担任 杉山知子

【聖書】ローマの信徒への手紙2章16節
そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト·イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

********************************************

あなたはどちらかといえばポジティヴな人ですか?それともネガティヴな人ですか?
プラス思考の持ち主ですか?それともマイナス思考の持ち主ですか?
ネガティヴとかマイナス思考とかいうと、どうしても良くないイメージをもつのではないでしょうか。少なくともほめ言葉としてはあまり使われませんよね。

今年の大相撲秋場所で優勝し、大関に昇進した正代という力士は、今年のはじめまで「ネガティヴ力士」と呼ばれていたそうです。きっかけは、5年前に新十両に昇進したとき、今後対戦してみたい関取は?と聞かれて「できればみんな当たりたくない」と答えたことらしいです。ネガティヴというより、正直な気持ちを口にしただけにも聞こえますけどね。その後、関脇にスピード出世したもののすぐに落ちて、3年ほど足踏みをし、このたび大関昇進を果たしたわけですが、マイナス思考だったけれども精神面で成長した、というような報道を目にしました。ネガティヴだったが変わった、プラス思考に変わったから成長した、というのは、きっとだれもが納得するストーリーなのでしょう。変わらないと成長できない、という思い込みもあるように感じます。
ところが、あるインタビュー記事を読むと、本人は別に何も変わっていないと答えています。自分についてまわっていたネガティヴという代名詞も、「あれでよかったと思います。知名度も上がりましたから。」とポジティヴに言ったという記事に、思わず笑ってしまいました。彼はたぶん、みんなを納得させたり成長物語で感動させたりすることには興味がなく、自然体で正直な人なのだろうなあと思いました。

もう一人、ネガティヴで有名な人を紹介します。ある朝、目覚めると巨大な芋虫になっていた男を描いた『変身』などで有名な作家、フランツ·カフカです。たとえばこんな言葉があります。
「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
将来にむかってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。」
あまりにもネガティヴで、かえって笑えませんか?ふざけているのかと思ってしまうほどですよね。でも、本人は本気らしいです。
こんなのもあります。
「すべておしまいのように見えるときでも、まだまだ新しい力が湧き出てくる。
それこそ、おまえが生きている証しなのだ。」
ここまでは前向きですね。DREAMS COME TRUEの『何度でも』に出てくる、「1万回ダメでも1万1回目は何か変わるかもしれない」と似ていますよね。しかし、カフカには続きがあるのです。
「もし、そういう力が湧いてこないなら、そのときはすべておしまいだ。もうこれまで。」
私は、このようなカフカのネガティヴな言葉がつまった本、その名も「絶望名人カフカの人生論」という本を読んであまりにおもしろかったので、さっそく図書館でカフカの作品集を借りました。『変身』はもちろんのこと、どれもこれもとんでもなく悲惨なお話なのですが、悲惨すぎて笑える描写もあり、読み終わると深く心が揺さぶられるのです。さすが、20世紀最大の作家と言われているだけあります。
さて、文学作品はそれぞれご自身で味わってほしいので、先ほどの「絶望名人カフカの人生論」からもう少し引用します。この本の編訳者である頭木弘樹さんは、次のようにカフカを紹介しています。
「彼は何事にも成功しません。失敗から何も学ばず、常に失敗し続けます。
彼は生きている間、作家としては認められず、普通のサラリーマンでした。
そのサラリーマンとしての仕事がイヤで仕方ありませんでした。でも、生活のために
辞められませんでした。
結婚したいと強く願いながら、生涯独身でした。
身体が虚弱で、胃が弱く、不眠症でした。
家族と仲が悪く、とくに父親のせいで、自分が歪んでしまったと感じていました。
彼の書いた長編小説はすべて途中で行き詰まり、未完です。
死ぬまで、ついに満足できる作品を書くことができず、すべて焼却するようにという
遺言を残しました。」
なんだかミもフタもない感じですよね。実際には、カフカの遺言を守ったのは最後の恋人だけで、それ以外の周囲の人々のおかげで作品が残り、日常生活の愚痴でいっぱいのノートや日記や手紙がたくさん残りました。恨んでいた父へ36歳のときに書いた手紙は、タイプ原稿で45ページもあったそうです。「いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」とは、なんと、結婚を申し込んでいた当時の恋人への手紙なのです。何しろ結婚したいと強く願っていたのですから。熱烈に愛し、毎日手紙を書きました。のちに婚約しますが、カフカは不安のあまり自分から婚約破棄し、また婚約し、またまた破棄したそうです。さらに、婚約者の父親あての手紙には、なぜ勤めを辞めて文学で身を立てようとしないのか、その説明として、「ぼくにはそういう能力がありません。おそらく、ぼくはこの勤めでダメになっていくでしょう。それも急速にダメになっていくでしょう。」と書いたそうです。婚約者は結局父親に渡さなかったらしいです。そんな手紙、渡せないですよね。
こんなに自分に対して否定的で、身の回りの愚痴ばかり言っている人間が、なぜ偉大な作家になれたのか。カフカはノートにこのような言葉を書きつけています。
「ぼくは自分の弱さによって、ぼくの時代のネガティヴな面を掘り起こしてきた。
現代はぼくに非常に近い。だから、ぼくは時代を代表する権利を持っている。
ポジティヴなものは、ほんのわずかでさえ身につけなかった。
ネガティヴなものも、ポジティヴと紙一重の、底の浅いものは身につけなかった。
どんな宗教によっても救われることはなかった。」
私はこの言葉を読んで、本人はどんな宗教によっても救われなかったと言っているけれど、徹底的に自分がマイナスになることで、神さまの恵みが注ぎ込んでいるように感じました。自分の力だけでなんとかしようと思ったり、自分が自分がと出っ張って、それをプラス思考だとカン違いしていると、神さまの恵みが注ぎ込みにくくなることって、あると思いませんか?カフカはこうも書いています。
「ぼくの弱さ···もっともこういう観点からすれば、じつは巨大な力なのだが···」
カフカ本人は意識していなかったかもしれませんが、これって聖書のみことばそのものです。コリントの信徒への手紙二 12章9, 10節にこうあります。
「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
まさに、カフカの弱さの中で力が発揮されて、その作品や言葉が私たちに働きかけているのだと思います。

最後に、神さまの恵みがたっぷり注ぎ込んだネガティヴな人として、マザーテレサをあげておきます。インドで貧しい人々に寄り添った、あのマザーテレサです。ユーモアがあって明るい人だったと言われています。どうしてそこまで人々に尽くせるのかと聞かれて「私は何もしていません。イエスさまがすべてなさっているのです」と答えたことは有名です。やさしく、愛にあふれた、このうえもなくポジティヴなイメージですよね。
ところが、バチカンの指導者や親しい神父様に送った手紙の中で、マザーテレサは「私の中に信仰はない」「私の心の底にはむなしさと闇しか見当たらない」「私はたった一人」と、数十年にわたって繰り返し書いているのです。「来て、わたしの光となりなさい」との召しを受け、何年も熱意をもって願い続けたのちに始めた活動でしたが、インドのスラムの想像を絶する悲惨な現実に、神さまの存在さえ疑ってしまうくらい、信仰をはぎ取られるような日々だったようです。「私は何もしていません。イエスさまがすべてなさっているのです」というのは謙遜でもなんでもなくて、苦しみの中から出た切実な本音だったのかもしれません。空っぽになったマザーテレサの中に聖霊がたっぷり注ぎ込んで、彼女を最大限に用いたのでしょう。

結局、人間から見てポジティヴかネガティヴかは関係ない気がします。はじめにお読みした聖書にあったとおり、神さまは人々の隠れた事柄をすべてご存じです。神さまが創られたそのままの姿で、ネガティヴに落ち込みたいときは落ち込み、ポジティヴにがんばりたいときはがんばる、それでよいのではないでしょうか。悲しみを知っている人は泣いている人に寄り添えるし、元気な人は喜んでいる人と共に喜ぶことができます。讃美歌第Ⅱ編1番4節の歌詞にあった「わが力の限り」とは、強い人もひ弱な人も、その人その人の力に応じて精一杯生きるということではないでしょうか。そのままの私たちを、神さまは用いてくださるのです。
どんなに元気に見えても、悩みや苦しみが全くない人はいないと思います。
神の御子であるイエスさまでさえ、「この杯を取りのけてください」と祈り、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と苦しみもだえました。それでも神の御心にしたがって十字架で死なれ、神さまが私たちをどんなに愛していてくださるかを示してくださいました。あらゆる苦しみをわかってくださる方、私たちを決して見捨てない方と共に歩む人生について、礼拝において、また来週の全校修養会において、一人一人が考えられますように。祈祷会を担当する生徒たちが力を与えられ、たくさんの生徒が祈りを共にして備えることができるよう、心から願います。

(11月5日中1中2放送礼拝)

 

 

(中学部)捜真クルーズ追加しました。

毎回ご好評の捜真クルーズですが、急きょ

10月21日、28日

11月11日、18日、25日(すべて水曜日の10:00~11:30)

の5日間の日程を追加しました。

ご予約はこちらからお願いいたします。↓

https://mirai-compass.net/usr/soshinj/event/evtIndex.jsf

 

★こちらは学校紹介動画ページです、よろしければご覧ください。

https://nkmr8.sakura.ne.jp/wordpress/jogakko/entrance_sj/onlinetour_sj/

礼拝メッセージ 10月27日

自分の価値            

高等学部教頭 鳥居敬一

こちらから讃美歌243番「ああ主のひとみ」を聞くことができます

【聖 書】 ルカによる福音書7章36節~50節
さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

********************************************

皆さんは遊園地にあるジェットコースターのような絶叫マシーンが好きですか?私は乗れば楽しめますが、好んで何度も乗りたいとは思いません。
でも、ジェットコースターはどこの遊園地でも人気が高く、長蛇の列ができるほどのものもあります。特に怖いものほど人気が高い傾向にあるようです。
ではなぜ、人はジェットコースターに乗りたがるのでしょうか。それは、きっと安全であることが前提になっているからなのでしょう。もし、行ったきりで帰って来れないジェットコースターがあるとしたら、恐怖心はMAXですが、長蛇の列はできないと思います。小さい子供が高い遊具の上から下にいる親の腕にダイブするのを楽しむことができるのも、受け止めてもらえるという安心感が前提になっているからだと思います。
ある研究によると、ジェットコースターに惹かれる理由の一つに、人間がもつ内臓が浮くような感覚を味わいたいという願望があるそうです。内臓が浮くような感覚は、人に恐怖を抱かせます。その恐怖は体内の心拍数を上げ、浅い呼吸となり、エネルギー消費量を増加させます。血液中の神経伝達物質エンドルフィンが上昇して強い高揚感を得ることができます。つまり、安全が確保されている状況での恐怖感は、非常に高い幸福感をもたらしてくれるのだそうです。また、人は幸福感とストレスを同時に経験すると、ストレスをポジティブなものと捉えるようになると言われています。
私たちの人生にもジェットコースターのようなことが起こります。大きな失敗をした時、信頼していた人に裏切られた時、想像もしていなかった不幸に見舞われた時。その瞬間は体が深い谷底に落ちていくような感覚に襲われることもあるでしょう。そのストレスフルな経験をポジティブなものと捉えられるか、ネガティブなものと捉えてしまうか、その違いは少し先の安全を確信できるかどうかによります。

先週のニュースで「小·中·高校生の自殺が2年連続で300人を超えた」と報じられていました。文部科学省が、全国の小中学校や高校から報告を受けた、昨年度自殺した児童生徒の人数は317人でした。これは過去最多だった前の年度からは15人減ったものの、それに次ぐ多さで2年連続で300人を超えたということです。内訳は、小学生が4人、中学生が91人、高校生が222人でした。
自殺の要因は、「家庭の不和」「進路の問題」「父母などの叱責」「いじめ」などがありますが、最も多かったのは「不明」の188人で、全体の6割近くに上りました。
自殺の理由は一つではなく、色々なことが重なっているのだと思います。「生きているのが辛い」「こんなに苦しいのなら死んだほうが楽なのかも」、程度の差こそあれ、誰でもこんな風に感じることが人生の中では何度か訪れるのではないでしょうか。しかし、それだけでは自殺につながりません。自殺する人は、自分では客観的に判断できない精神状態に陥っているので、本人が冷静に自殺を決意するわけではないようです。

どうしたら、そういう人たちを助けることができるのでしょうか。私は「言葉」が大きな力を持っていると思います。
私の場合、悩みごとで頭が一杯になってきた時に、自分自身に問いかけるようにしている言葉があります。それは「この問題は100年後にはどうなっているか?」という問いです。今悩んでいる目の前の問題は、一時的であり、100年後には跡形もなく、なくなっているものがほとんどです。悩んでいる私自身も100年後にはこの世には存在していないでしょう。ですから、100年後も残る問題であれば悩む価値があると思うようにしています。そうすると、狭くなっていた視野が広がり、開き直りに近いのかもしれませんが、冷静でポジティブな気持ちになれます。
さて、話を元に戻します。どうすれば人は、自分の命や体を大切にすることができるのでしょうか。どうすれば自分に価値があると思えるのでしょうか。

先程読んだ聖書の箇所に出てくる女の人は、ファリサイ派の人たちから見ると価値のない人でした。立派な行いをしている彼らは価値が高く、それに対して女の人は罪深く価値がないと見下していました。ですから、女の人がイエス様の足を涙でぬらして髪の毛でぬぐったり、足に接吻したり、高価な香油を足に塗ったりすることをイエス様が受け入れていることが許せませんでした。
そのことを見抜いたイエス様は譬えを使って諭します。金貸しから、500デナリオン借りている人と50デナリオン借りている人が二人とも返済できなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてあげました。帳消しにしてもらった額の多い方が、その金貸しを多く愛する、という譬えです。
自分には償いきれない罪があるにも拘わらず、その罪が赦された人はその感謝の気持ちが行いとなって表れます。
自分に価値があると思えるのは、人から大切にされていることがわかった時なのかもしれません。何かができるとか、何かを持っているとか、そういうことではなく、自分を大切にしてくれる人によって自分の価値を知ることができるのだと思います。
神様は私たち一人ひとりに価値があると聖書を通して語りかけています。それは、単なる言葉ではなく、独り子のイエス様の命と引き換えにするという保証書つきの価値です。しかもその保証期間は永久です。
私たちに価値があると太鼓判を押してくださる神様がいつも共にいてくださいます。これほどの安心感は他の何によっても得ることができません。たとえジェットコースターのような人生だとしても、この安心感があれば、幸せを感じて人生を楽しむことができるのだと思います。

(10月27日放送礼拝)

 

 

図書館から本の紹介 10月20日

中間試験が終わり、手持ち無沙汰な気がしていませんか。
そんな時には、本のページをめくってみましょう。
今回紹介する2冊は、みなさんのいつもの生活からは少し違うところに視線を向けています。

でも、世の中にはいろんなことがあるのです。井戸の底から切り取られた空ばかりを見ていないで、360度ぐるりと見渡せる場所に、飛び出してみようよ!

『ほんとうのリーダーのみつけかた』梨木香歩 岩波書店
みなさんよくご存じの『西の魔女が死んだ』を書いた、梨木香歩さんからのメッセージです。
「そういう自己嫌悪に陥ってしまったら、それは若い頃はありがちなことなので、ああ、やっちゃったよー、しようがないなあ、って、心のなかでためいきをついていればいいのです。まあ、しかたがないです。」
そして、豊かな負け方についても教えてくれます。敗者であることを素直に認め、自分の全存在が劣位にあるわけではない、と認識しよう、と。
「あなたのなかのリーダーは、きっといっしょに耐えてくれるはずです。」
途中、哲学者の鶴見俊輔さんのお話や『君たちはどう生きるか』の著者吉野源三さんの言葉も紹介されています。
自分のなかのリーダーの声。あなたにしか聞こえませんよ。今年一番、皆さんに読んでほしい本です。

『ぼくの「自学ノート」』梅田明日佳 小学館
いつだったか、テレビの番組で梅田君を拝見したことがありました。
中3の総合の参考になるかなと、改めてこの本を手に取ってみました。
「自学ノート」は「自分でテーマを見つけ学ぶこと」。文字を使ってノートに記録する(書く)ことで、新しい発見や考えがさらに湧いてくるのです。梅田君のなかのリーダーが、ゆるぎなくノートを書き続けていきます。皆さんも一度試してみてはどうですか。あなた自身が選んだテーマで、自由に思う存分やってみよう。きっと出会いや喜びが待っていますよ。どんなテーマか、私にもそっと教えてください。(ちなみに私の最近のテーマは“kingGnu”です)

ホームページが新しくなりました。

ホームページを大幅に更新いたしました。
詳細はこちらからご覧ください。

【学校紹介動画】https://nkmr8.sakura.ne.jp/wordpress/jogakko/entrance_sj/onlinetour_sj/

【高等学部入試募集要項】https://nkmr8.sakura.ne.jp/wordpress/jogakko/entrance_sj/hg_sj/req_rec_h_sj/

※ブラウザのキャッシュが残っている場合うまく表示されないことがあります。
その際、誠に恐れ入りますが以下の方法をお試しください。
【PC】
▼Internet Explorerの場合
使用しているIEおよびWindowsのバージョンによって多少異なります。

[ツール](「インターネット オプション」または「セーフティ」)をクリックします。
[閲覧の履歴]から[削除]ボタンをクリックします。
[インターネット一時ファイルおよびWebサイトのファイル]のみチェックをし[削除]ボタンをクリックします。
▼Firefoxの場合
Firefoxのメニュー·バーで[ツール]をクリックします。
[オプション]をクリックします。
[詳細]オプション内の[ネットワーク]タブをクリックします。
[キャッシュされたWebページ]の[今すぐ消去]クリックします。
▼Chromeの場合
[Google Chromeの設定]アイコンをクリックします。
[設定」から[詳細設定を表示]を選択します。
[プライバシー]内で[閲覧履歴データの消去]を選択します。
[キャッシュされた画像とファイル]チェック·ボックスを選択します。消去する期間を選択します。
[閲覧履歴データをクリアする]をクリックします。

【スマートフォン】
▼Android端末(標準ブラウザ)の場合
メニューアイコンから[設定]をタップします。
[詳細設定] の [プライバシー] – [閲覧履歴データを消去する] の順にタップします。
[データを消去する期間:] プルダウンから消去する期間を選択します。
[キャッシュされた画像とファイル]チェック·ボックスを選択します。
[データを消去] をタップします。
▼Android端末(Chrome)の場合
メニューアイコンから[設定]をタップします。
[詳細設定] の [プライバシー] – [閲覧履歴データを消去する] の順にタップします。
[データを消去する期間:] プルダウンから消去する期間を選択します。
[キャッシュされた画像とファイル]チェック·ボックスを選択します。
[データを消去] をタップします。
▼iPhoneの場合
ホーム画面から 「設定」 – 「Safari」 を選択します。
「詳細」 – [Webサイトデータ]をタップします。
[全Webサイトデータを削除]または[編集]ボタンより[nestle.jp]を選択し[削除]をタップします。

(高等学部)平日見学会のお知らせ

受験生の皆様 ご家族の皆様

以下の日程で個別見学会を開催いたします。今回は初めて捜真にいらっしゃる方を対象にした個別見学会です。

チャペルでの礼拝にご参加いただいた後、校内をご案内しながら捜真についてご紹介する会です。

日 時  10月21日(水) 10月28日(水)  11月11日(水) 11月18日(水) 11月25日(水)

いずれも午前10時から11時半

持ち物  上履き 靴袋

その他 ①平日の授業をご覧いただく都合で、少人数でのご案内となります。

ご予約多数の場合には中学3年生の方を優先させていただきます。

②当日、発熱や風邪症状などがある場合には、来校をご遠慮ください。

③新型コロナウイルス感染の状況によっては会を中止することもありますので、

あらかじめご了承ください。

お申込み 下のリンクからお申し込みください。

リンク先のお問い合わせメールフォームに必要事項をご記入の上

お問い合わせ内容に ①ご希望の月日 ②お嬢様のお名前と学年

③当日連絡の取れるご連絡先電話番号  をご記入ください。

お申し込みはこちらから

皆様のお越しをお待ちしております。

礼拝メッセージ 10月15日英語礼拝

KEEP EXPECTING            テリオ·マイヤ

Mark 5:24b-34
“And a great crowd followed him and thronged about him. 25 And there was a woman who had had a discharge of blood for twelve years, 26 and who had suffered much under many physicians, and had spent all that she had, and was no better but rather grew worse. 27 She had heard the reports about Jesus and came up behind him in the crowd and touched his garment. 28 For she said, “If I touch even his garments, I will be made well.” 29 And immediately the flow of blood dried up, and she felt in her body that she was healed of her disease. 30 And Jesus, perceiving in himself that power had gone out from him, immediately turned about in the crowd and said, “Who touched my garments?” 31 And his disciples said to him, “You see the crowd pressing around you, and yet you say, ‘Who touched me?’” 32 And he looked around to see who had done it. 33 But the woman, knowing what had happened to her, came in fear and trembling and fell down before him and told him the whole truth. 34 And he said to her, “Daughter, your faith has made you well; go in peace, and be healed of your disease.”

Do you ride a crowded train in the mornings? Have you been in Yokohama Station during rush hour? I imagine Jesus in a crowd like these. A lot of people were around him, so his disciples were surprised that he asked, “Who touched my clothes?” Of course a lot of people were touching his clothes as they walked next to him and behind him! But the scripture says that Jesus felt power go out of him when one particular woman touched his clothes. What was different about this woman? —> She had heard what other people said about Jesus. She had heard that Jesus healed people. So, she believed that he would heal her, too…even if she just touched his clothes. Although a lot of people touched Jesus’ clothes in the large crowd walking with him, they weren’t all healed or helped by Jesus that day. This woman touched Jesus’ clothes EXPECTING him to heal her, to meet her needs, to change her life. Jesus told her, “Your faith has made you well.”

About 5 years ago when I still lived in the U.S., I was a leader on a Christian retreat for high school students. One night during the retreat, all the students and leaders went outside and had time to spend with God individually. I wanted to focus my attention on God, and I didn’t want to be distracted by seeing any of the other people who were near me, so I looked straight up and stared at the sky while I talked to God. I was excited to gaze up at the stars. I was amazed, actually! I could see sooo many stars. They were bright and beautiful. I praised God for making those amazing stars. And I praised Him for the chance I had to see those stars. In my heart, I felt the Holy Spirit say— “These stars are in the sky every night. You just don’t see them, because you don’t look up.” Wow! How true! Those same bright, beautiful stars are in the sky EVERY SINGLE night, but I miss the chance to see them, because I don’t look up and EXPECT to see them.

God spoke a similar thing to me another time. When I was 23 and 24 years old, I participated in a 2-year discipleship program at my church. The first year, it was challenging, but exciting. Every week, we read books about God and faith, and we discussed them; we gathered for worship services; and we had prayer meetings. I spent a lot of time praying, reading my Bible, and worshipping God, and I experienced Him speaking to me more than ever before. After one year in the program, going to the prayer meetings, book discussions, and worship services 5-6 times per week had become a routine, and I was used to it. When my second year in the program started, at the first prayer meeting, I thought back about how I felt at the first prayer meeting of my first year; I had felt excited, expecting God to speak to me and to help me grow in my faith. But when I started my second year in the program, going to that prayer meeting felt familiar and routine. In my heart, I felt the Holy Spirit say, “Keep expecting.— Keep expecting to hear from Me. Keep expecting Me to work in your heart.”

How about you? Do you remember how you felt when you came to Soshin and attended chapel for the first time, or the whole first year? Do you remember your first class chapel service? Do you remember your first Bible classes?

—>Maybe you felt like I did when I joined the discipleship program— excited by the new experience and expecting to learn about God and to feel Him in your heart. How about now? During chapel and Bible classes, do you still expect to have new experiences with God? Do you still expect to learn something from the Bible? Do you still expect to feel Him in your heart? …Or have the Bible, prayer, and worship time become just a familiar part of your routine? As the Holy Spirit encouraged me to KEEP EXPECTING, I want to encourage you to do the same thing— KEEP EXPECTING from God. There is much more He wants to teach you and more He wants to do in your life. Hebrews 4:12 says, “the word of God is living and active…” The Bible is not just words on paper, not just stories. Those words— God’s words— are living and active. God’s Holy Spirit is also living and active. This means that even if you read or hear the same Bible story or the same Bible verses that you have read before, God can teach you something new. I have experienced this lots of times. Have you? When you go to chapel, when you are in Bible class, when you read your Bible in your free time— even if you read or hear a story or verse you have read before, KEEP EXPECTING that God will teach you and work in your heart.

—>Maybe some of you don’t think you have ever experienced God or felt the Holy Spirit speaking to your heart. Maybe— like the woman in the Bible passage— you have just heard what other people say about God. Maybe you have heard your teachers or friends, or parents or pastors tell their stories about their experiences with God, and you think— Will God speak to me, too? Will He heal me, too? Will He change my life, too? As the woman in the Bible passage did, I want to encourage you to reach out to Jesus, reach out to God with faith, EXPECTING Him to answer you.

James 4:8 says, “Draw near to God, and He will draw near to you…” Tonight or another time soon, look up at the dark night sky, and gaze at the stars. Just like the stars are in the sky every night, God is always ready to grow your relationship with Him.

<マルコによる福音書5章24節~34節>
大勢の群集も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血が止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群集の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐに出血が全く止まって病気がいやされたことを体で感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群集の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか。」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群集があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

あなたは朝の満員電車に乗っていますか?ラッシュ時に横浜駅を利用したことはありますか?私は、このような人ごみの中にいると、イエス様を想像します。聖書箇所にあるように、イエス様の周りにはたくさんの人がいたので、弟子たちはイエス様が “誰が私の服を触ったのか?”と聞いたことに驚きました。もちろん、たくさんの人がイエス様の隣や後ろを歩いていたので、当然イエス様の服を触れていたわけです。しかし、聖書によると、ある女性がイエス様の服に触れた時、イエス様は自分の内から力が出ていくのを感じたそうです。この女性は何が違ったのでしょうか?―彼女は、話すことを聞いていました。イエス様が人を癒すことができるということを。だから、彼女はイエス様が自分も癒されると信じていました…たとえ彼女がイエス様の服に触れただけでも。 イエス様と一緒に歩いている大勢の人たちの中で、多くの人がイエス様の服に触れましたが、その日、彼ら全員がイエス様に癒されたり、助けられたりしたわけではありませんでした。この女性は、イエス様が自分を癒し、必要を満たし、人生を変えてくれることを期待して、イエス様の服に触れたのです。イエス様は彼女にこう言われました。「あなたの信仰があなたを救った。」

5、6年程前、私がまだアメリカに住んでいた頃、私は高校生のためのキリスト教修養会のリーダーをしていました。修養会のある夜、全ての生徒たちとリーダーたちは外に出て、一人ひとりが神様と過ごす時間を持ちました。私は神様との時間を大切にしたいと思い、近くに他の人がいて気が散るのが嫌だったので、まっすぐ上を見上げて空を見つめながら神様に語りかけました。ワクワクしながら星を眺めていました。実際、私は驚きました。その時、たくさんの星が見えたのです。明るくてきれいでした。こんな素晴らしい星を作ってくださった神様をほめたたえました。そして、その星を見る機会を与えてくれた神様をほめたたえました。私は心の中で聖霊が語りかけるのを感じました。「これらの星は毎晩空にある。あなたが見上げていないから見えないだけだ。」と言われたのを感じました。うわー!確かにそうだ!!同じように明るくて美しい星が毎晩空にあるのに、私は見上げることも期待することもないので、見る機会を逃してしまうのです。

神様は、別の時にも同じように私に語りかけてくれました。23歳と24歳の時、私は教会の2年間の弟子訓練プログラムに参加しました。最初の年は、やりがいがあり、とても刺激的でした。毎週、神様と信仰についての本を読み、それについて話し合ったり、礼拝のために集まったり、祈りの会を開いたりしました。私はお祈りに多くの時間をかけ、聖書を読み、神様への賛美を捧げました。そして、今まで以上に神様が私に語りかけてくださることを経験しました。プログラムに参加して一年が経つと、週に5~6回の祈祷会、読書会、礼拝に行くことが日課になり、それにも慣れてきました。プログラムに参加して二年目が始まった時の最初の祈祷会で、私は一年目の最初の祈祷会に参加した時の気持ちを思い出しました。私は楽しみにしていました、神様が私に語りかけてくれることを期待し、私の信仰を強めてくださることを。しかし、二年目に入ってからは、その祈祷会に行くことが日常的に感じられるようになりました。私は心の中でふたたび聖霊が語りかけるのを感じました。「期待し続けなさい。あなたの心の中で私が働くことを期待し続けなさい。」と言っているのを感じました。

あなたはどうですか?捜真に来て初めてチャペルに参加した時、あるいは一年目の時の気持ちを覚えていますか?初めてのチャペルでの礼拝を覚えていますか?初めての聖書のクラスを覚えていますか?

きっと私が修養会に参加した時のように、あなたも新しい経験に興奮し、神様について学び、心の中で神様を感じることを期待していたのかもしれません。今はどうでしょうか?チャペルや聖書のクラスでは、今でも神様との新しい経験を期待していますか?それとも、聖書や祈り、礼拝の時間は、あなたの日課の一部になってしまったのでしょうか?聖霊が私に「期待し続けなさい。」と励ましてくださったように、私も同じように、皆さんにも「神様に期待しましょう!」と励ましたいと思います。神様はあなたに教えたいことや、あなたの人生で行いたいと思っていることがたくさんあります。

<ヘブライ人への手紙4章12節>
神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

聖書はただの物語でもありませんし、紙の上の言葉ではありません。それらの言葉は「神の言葉」です。―言葉は生きていて、働いています。聖霊も同じように生きていて働いています。これはなにを意味するのかというと、以前に読んだり聞いたりしたことのある聖書のお話や聖句でも、神様はまた新しいことを私たちに教えてくれているということです。私はこのことを何度も経験してきました。あなたはどうですか?チャペルでの礼拝、聖書の時間、自分で聖書を開く時···聞いたことのある話や聖句だったとしても、神様があなたに教え、心の中で働いてくださることを期待し続けてください。

もしかしたら、みなさんの中には、神様の存在を経験したり、聖霊があなたの心に語りかけたりしてくるのを感じたことがないと思っている人もいるかもしれません。また、今日の聖書箇所に出てくる女性のように、他の人が神様について語っていることを聞いただけかもしれません。それとも、先生やクラスメート、両親や牧師が神との体験について語るのを聞いたことがあるかもしれません。神様は私にも語りかけてくれるのだろうか?神様は私をも癒してくれるのだろうか?私の人生も変えてくれるだろうか?聖書の一節に出てくる女性のように、私はあなたがイエス様に手を差し出し、信仰を持って神様に手を差出し、それに神様があなたに応えてくださることを期待することを励ましたいと思います。

<ヤコブの手紙4章8節>
神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。

今夜、あるいは近日中に、暗い夜空を見上げて、星を見つめてみてください。星が毎晩空にあるように、神様はいつでもあなたと神様との関係を成長させてくれる準備ができているのです。

味噌づくり テーブルマナー実習 高三選択授業「食物」

9月28日、高三の選択食物の授業では「小泉麹屋」さんから講師の方をお招きし、味噌作りを行いました。

例年は春に仕込み、秋にはそれぞれの家庭で熟成した味噌を持ち寄り味比べをしていましたが、今年は休校などの影響で9月になりやっと仕込みを行うことができました。来春には食べごろを迎える味噌。卒業後に捜真を思い出しながら味わって欲しいと願っています。

また、10月12日には、「横浜ベイホテル東急」に出掛け、洋食のテーブルマナーを学んできました。ホテルのスタッフの方が、スライドを使いながらお料理の話、食器やナイフ、フォークの扱い方など、一つ一つ詳しく説明してくださいました。

感染対策を考え、広い会場にゆったりした間隔をとった席で、優雅に美味しくいただくことができました。

もうすぐ社会に出ていく高校3年生、食事のマナーもしっかりと身につけてさらに素敵な女性へと成長して欲しいと願っています。

 

“Retelling”でレッスンのまとめ

高3コミュニケーション英語の授業では、教科書のレッスンのまとめとして、グループでのリテリング活動をしました。

今回は、自作の画像資料と共に、レッスンの内容の要約と、テーマであったAIについて各自の意見を述べるというのが課題でした。グループで素早く話し合い、方針を決め、それぞれのやり方でプレゼンの準備を手際よく行い、堂々と発表する姿は、さすが高3と思わせるものでした。

 

 

礼拝メッセージ 10月12日

新しい世界を広げる

中2副担任 日浦 華子

【聖書】コヘレトの言葉3章1節~11節

何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時/保つ時、放つ時7裂く時、縫う時/黙する時、語る時
愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

********************************************

博物館見学が大好きです。今思うと、小さい頃に上野の国立科学博物館にしょっちゅう連れていってもらったからかもしれません。そのころは東京の外神田に住んでいて、割と近くでもあった上野公園や動物園、国立科学博物館をよく訪れていました。国立科学博物館では、いろいろなものが展示されている中でも、特に恐竜の化石に惹かれていました。だいたいの骨がレプリカではあるけれど、大きな恐竜の骨格標本を見るとわくわくします。そんな経験から恐竜の化石のある博物館が大好きなのです。

この間、小田原にある生命の星地球博物館に行ってきました。人数規制があるとホームページにはありましたが、余裕で入場することができました。

1階には、進化のはじめに登場する岩石、動植物のサンプルがたくさん展示されています。ちょうど1学期に、中学3年生の授業内容で進化を取り扱っていたので、その内容が思い出されて、興奮気味の私でした。地球博物館は割と新しい建物で、大きな展示物も小さなものもわかりやすく並べてあります。

おすすめは、入ってすぐのエントランスホールです。大きなホールの真ん中に大きな化石が飾ってあるのです。それは1億年前に生息していた生物たちがテーマになっていて、海で泳いでいた巨大な魚の化石や、空や陸を闊歩していた大きな恐竜の化石が展示されています。恐竜の化石の足元に行って見上げると、その大きさや高さに圧倒されます。そして、展示されている恐竜を見上げると、その上にドーム状の天井が見えます。高い天井には宇宙をイメージしたイラスト、装飾がしてあり、見とれてしまいます。首が痛くなるまでその天井の絵画を眺めていました。

そこで思い出したことがあります。

小さいころの私は高い天井を見上げることが嫌いだったのです。嫌いというより大嫌い、というより怖いという思いを持っていました。

「高い天井がこわい」という同じ感覚をもっている人はいますか?

高い所がこわいのではなく、高い天井を見上げるのがこわい。高い天井を見ていると吸いこまれていきそうな感じがして、幼かった私はその浮遊感とクラクラする感じがとっても怖かったのです。ですから高い天井を見上げるのが恐怖でした。

インターネットで調べてみると、高い天井を見上げるのが怖いという人、結構いるみたいです。

始めにお話ししましたが、小さいころよく行っていたという上野の国立科学博物館も、昔エントランスホールにトリケラトプスの全身骨格標本が展示されていました。が、そのかっこいいトリケラトプスの真上のドーム状の天井がこれまた高かったので、怖い以外の何物でもない場所でした。トリケラトプスには惹かれるけど、天井が高い恐ろしい場所、ということで、いつも泣きながら目をつぶって母の手にすがりついてその場を逃げるように進んでいきました。もちろん科学博物館の入り口にあるので避けて通れません。見学に行くたびにまず、おびえ泣きながら通るのが通過儀礼みたいになっていました。

天井が高くて私にとって怖い場所はもう一つありました。東京駅の丸の内改札口ホールです。レンガ造りの歴史あるあの建物の天井もドーム状になっていて、とっても高く、祖父母のいる横浜に電車利用で遊びに行くときも、その改札を通らなければならず、そのたびに私の泣き叫ぶ声がホール中に響いていた、らしいです。

北杜夫という作家のエッセイにこんな話があります。

彼が小さいころ、キングコングという映画が上映されて、当時話題になりました。そこで北杜夫は家族に連れられ映画館に行ったそうです。皆さんもキングコングの作品そのものを見たことがなくても、巨大なビルディングほどあるゴリラの怪物が、街を破壊して回るイメージ、あれだなというのは何となくわかるのではないでしょうか。少年北杜夫は、キングコングのポスターや宣伝で、破壊的な怖いものを感じたようで、映画館には行ったのですが館内には入れず、外の廊下のソファーにすわってずーっと泣いていたそうです。だいぶ時間がたって中から家族が出てきて、「こわくないよ」と中に入るように促しました。どきどきしながらそっとスクリーンを見てみると映画は終盤で、キングコングが人間に倒されていくシーンでした。北杜夫はそれを見てかわいそうに思った。初めからみればよかったな、とふりかえっています。彼は最後にこうまとめています。「私は、キングコングを見て泣いたのではなく、見ないで泣いた」。

この北杜夫の言葉がとても印象に残っています。小さなころの私に当てはめるなら、「トリケラトプスの標本を見て泣いたのではなく、見ないで泣いた」ぴったりくるなあというところです。

あんなにホール中に声を響かせて泣いて怖がっていた高い天井も、今はなんとも感じません。それどころか、この間行った小田原の地球博物館のエントランスホールの天井の絵とその開放感が素敵に思えてしばし眺めているほどです。小さなころ持っていた高い天井への恐怖心は今はもうありません。

べつに「高い天井嫌い克服プロジェクト」に参加したわけでもないのに自然に怖くなくなっていたのです。

考えてみると,小さいころの私には苦手なもの、怖いものがたくさんありました。納豆、生姜、ワサビ、ピーマン、パクチー、雷、カーテンがちょっと開いていて夜の暗い外が見える窓ガラス。長期休暇に入ると登山好きな親に無理やり連れて行かれた山。などなどなど。

納豆、ワサビ、生姜は、今や冷蔵庫にないと不安になる必須アイテムですし、雷が鳴ると逆にワクワクします。山は、もう、大好きです!苦手なものを好きになろうと努力したわけではないけれど、いつの間にか違う良さや楽しさに気付けるようになりました。趣向はかわるものですね。

食べ物や物だけでなく、人でもそういうことがありました。

中1、中2のころ、教室の近くの席にいた趣味も違う、何を考えているのか分からないと思っていた人と高校生になって同じクラスになり、話してみたらとても愉快な人で魅力的に思え、とても仲良くなったということがあります。

今わからない価値や魅力でも、時間が経つとその良さが分かってくるという経験をたくさんしてきました。時間が解決することもあるし、こちらから歩み寄っていくことで違う世界を好きになることもあります。

若いみなさんもこれからそういう経験をたくさんしていくと思います。新しい世界をどんどん広げていってください。人生が深く複雑に、そして豊かになると思います。

お祈り

まわりの環境が目まぐるしく変わる中、私たち自身も変化しています。よい成長という変化を期待します。そのためにも自分にできることを見つけ、努力できますように。どんな結果であっても神様が良しとして下さることにもきづかせてください。

(10月8日 中1、中2放送礼拝)

礼拝メッセージ 10月5日

こびりついて剥がれない罪

 

宗教主任 藤本 忍

【聖書】ローマ信徒への手紙7章15節~25節

わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス·キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

********************************************

私が赴任して間もない頃、JOCが全校にアンケートを取って「捜真生の好きな聖句Best3」というのを文化祭で発表していました。今年も久し振りにそれをしようということになり、昨日からアンケートを取り始めました。かつて取ったアンケートの結果は、
第1位 コリント信徒への手紙Ⅰ-10:13~「乗り越えられない試練はない」
第2位 コヘレトの言葉4:9~10     「一人よりも二人が良い···」
第3位 マタイ7:7~12         「求めよ、そうすれば与えられる···」
でした。

今の高二が中1の時に、授業でその話をすると、「今一つ、自分にはピンとこない。罪について書かれた聖句とかないですか」と聞かれ、私は先ほど読んだローマの信徒への手紙を紹介しました。するとその生徒は「今の自分にドンピシャです。何これ!凄い!この気持ち、よくわかります!」という反応が返ってきました。正直、中1でこの罪の箇所がわかるなんて、と驚きました。

話は変わりますが、私は就学前、自宅近くのお寺の境内で毎日のように、従兄の「のりちゃん」と遊んでいました。池にいるアヒルを捕まようとしては、飼育員のおじさんに叱られ、お寺の鐘を勝手な時間に撞いてはお坊さんに説教され、銀杏の落ち葉を集めてはお墓の通路に敷いて寝たりと、朝から晩までずっと境内で遊んでいる子でした。

ある時、その境内の脇に新しい立派な建物ができました。あとからわかりましたが、それは「信徒会館」と呼ばれるものでした。その信徒会館の前に『古賀政男さんの銅像』がありました。有名な音楽家です。のりちゃんと私は少し離れた所から石を投げて、この銅像に当てたら1点というゲームをしました。二人で調子にのってやっていると、のりちゃんの投げた石が大きく外れ、後ろにある建物の一枚ガラスに当たりました。私達は一瞬ヒヤとしましたが、割れた訳ではなかったので、また投げ続けました。すると突然、中から「こらーっ!誰だ、窓に石を当てたのは!」と怒鳴り声を上げて怖そうなオジサンが出て来ました。私は思わず「のりちゃんです。」と人差し指をのりちゃんに向けてしまいました。

それから40年経ったある日、のりちゃんが私に言いました。
「あの時、忍ちゃんが僕を指差したから、あの後大変でさ。ガラスが傷ついたとかで、親と一緒に謝りに行って、結局あの一枚ガラスを弁償したんだよ。当時で20万位だったかな。」
「えー!ごめんなさい。全然知らなかった。」と私。
「忍ちゃん、うちの入口のガラス、自転車で当たって割っちゃったことあったじゃん。あれは親戚同士ってことで、うちの親は忍ちゃんちに請求しなかったんだよ。」
私は、自分の罪は赦されていたのに、のりちゃんの罪は訴えるような子どもだったのだと、愕然としました。あの時、私は咄嗟に自分を庇い、のりちゃんを指差し、彼をいとも簡単に怖いオジサンに売りました。どんなに幼くても、人は自分を守るためなら何でもする、そういう本能が働いたのだと思います。

最後の晩餐で主イエスが「この中に私を裏切る者がいる」と言った時、全員が「まさか私では?」と自分を疑いました。皆、自分という人間の危うさを知っていたのだと思います。あの時、誰がユダになってもおかしくなかったのです。つまり、誰の心の中にもユダがいる、私達はそういう人間存在なのだと思います。ペトロも、「イエスなんて知らない」などと言いたくなかったはず。「あの方は、私の先生です。生けるメシア、救い主です」と言いたかったはず。しかし、言えなかった。もしそんなことを言ったら、自分も十字架刑に架けられるからです。望む善は行わず、望まない悪を行っている。これは誰の心にも当てはまります。幼子も大の大人も、です。何が良い事で何が悪い事か分かっているのに、私達は悪い方を選ぶ、そういう者なのです。

しかし、パウロは最後にこうも言っています。「イエス·キリストを通して神に感謝します」と。犯した罪は消えません。自分の心にこびり付いて剥がれません。しかし、赦されることで罪から解放されます。唯一の解決法は赦されることです。キリストの十字架は私の罪のため、この私の罪の為に、代わりに裁かれて下さったものです。しかし、そんなことを言っても納得しない人がいます。自分に厳しい人ほど、そう言います。なぜなら、自分の罪をイエスになすりつけて、自分だけがのうのうと生きていくなんて出来ないからです。では、どうすればいいのか。キリストは言います。
「誰の罪でもあなたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でもあなたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネによる福音書20:23)
「赦しなさい、そうすれば天の父もあなたの過ちを赦して下さる」(マルコによる福音書11:25)

今年の好きな聖書箇所アンケート、どのような結果になるか楽しみです。

祈ります。
神様、
罪に苦しむ者に、赦しがあることを、
どのような闇にも出口があることを、
長いトンネルの先に光があることを、
それら全てがないと思っている人に、教えて下さい。
またそれを伝えられる者として遣わして下さい。アーメン

ガラス絵 高校選択授業「美術研究」

図書館に用があって訪ねてみると、その近くに高等学部の選択授業「美術研究」受講者によるガラス絵がひっそりと展示されていました。せっかくの作品ですので、多くの方にご覧いただきたいと思い、ご紹介します。生徒の皆さんは、ぜひ実際に足を運んでみてください。

 

 

 

 

 

図書館から本の紹介 10月4日

この二冊の主人公は、皆さんと歳の近い男の子と女の子。もしかしたら、あなたの身の周りでも同じようなことが起きているかもしれません。

この先どうなるんだろう。ドキドキすると思います。あなたと主人公との新しい出会い。ほっとできる結末。本は友達…って思わせてくれるはずです。

 

『ぼくの帰る場所』S·E·デュラント 鈴木出版

主人公はロンドンに暮らす11歳の男の子、AJ(エージェイ)。

両親の少し偏りのある障害が、AJの暮らしにいくつかの問題を引き起こします。そして、俊足なAJがその才能をいかすために奮闘します。しかし、思うように進むことができない。そんな時、周りの人たちに背中を押されて大事な家族を守るためにAJは成長していきます。

今思い通りにいかないあなた。あなただけではない、ここにも同じ思いの若者がいます。AJに出会ってごらん。

 

『しずかな魔女』市川朔久子 岩崎書店

こちらの主人公は、中1の女の子「草子」。なぜか学校へは行かず、近くの図書館に通っている。そこで、司書の深津さんから本ではなく「白い紙の束」に書かれた物語を渡される。そこに書かれていたのは、野枝とひかりの夏物語。

どこにでもあるような夏の思い出だけれど、「草子」にとっては深津さんからの大切な贈り物。言葉を交わすわけではないけれどどこかで通じる気持ちのやりとりが、優しくあったかい。

夏の暑さに疲れてしまったみなさん。ぜひページを開いてみて。秋風のような爽やかな心地よさが味わえます。

 

 

 

 

礼拝メッセージ 10月2日

映画「マザー」を観て

(10月2日 学校説明会礼拝メッセージ)

 

こちらから讃美歌500番「聖霊(みたま)なる清き神」を聞くことができます

中2担任 千葉 眞智子

【聖書】 テサロニケの信徒への手紙5章16節~18節

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト·イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

*******************************************

先日、「マザー」という映画を観ました。長澤まさみさんが、毒親、最低な母親役を演じるということでも話題になりました。この映画は実は2014年に起きた、「17歳の少年による祖父母殺害事件」という実話に基づいて製作された映画です。

私は、テレビコマーシャルで流れていた、映画の宣伝で、長澤まさみさん演じる秋子という母親が言っていた言葉が気になって、映画を観てみたいと思ったのです。母親は何と言っていたかというと、「私はあの子をなめるようにして育ててきたの。私があの子をどう育てても、親の勝手じゃないですか···」というフレーズです。その言葉が同じ母親として衝撃で、一体どう育てたんだと気になって、映画館に足を運びました。

この秋子という母親は、定職にも就かず、生活保護や児童手当で得たお金は、すべてパチンコや飲み代に費やし、親や妹から借金をしまくった挙句にもちろん返済せずに絶縁される。行きずりの男と生活を共にしては別れ···を繰り返す。と私たちが考え付く限りの「最低」な生活を続けていました。息子の周平は学校にも行かせてもらえず、最低な母親と生活をしていきますが、やがて成長すると、周平がまじめに働いて、母親との生活を立て直そうとします。が、この母親は息子が働いたお金もギャンブルなどに使い果たし、挙句の果てに、周平に職場からお金を盗んでくるようにと、仕向けていくのです。少年の周平に手を差し伸べる周りの大人もいました。母親と離れて生活する環境を整えてくれる行政のサポートもありました。なのに、周平はそんな「毒親」ともいえる母親の元に自ら戻ってしまうのです。

そして、事態は最悪の状況を迎えます。お金に困り果てた秋子は、周平を絶縁状態にある自分の親のところへ行かせ、お金を借りてくるよう指示をするのです。貸してくれないならば、殺してもいい···というニュアンスを含めて··· ついに周平は祖父母を殺害してしまうのです。その後の裁判においても、この母親の態度は衝撃的でした。この後、どのようになったかは是非、映画を観て見てください。

この映画を観終わって、何故、周平は差し伸べられた助けを拒否して、なおこの母親と一緒に居続け、母親の言いなりになっていったのだろう···ということが不思議で仕方ありませんでした。周平は学校に行っていませんでしたが、賢い子でした。今の生活が良くない事、母親と離れた方がどれだけ自分に有益か···周平はわかっていたはずです。それでも母親の側を離れなかったのは、母に対する愛なのでしょうか?母親もそこまで落ちた生活をしながら子育てを放棄しなかった。周平が施設に保護されると、「この子は私の子、誰にも渡さない」と言って、息子を取り返しに来る。互いに共にいることが、良い事ではないとわかりつつ、離れることができなかった。周平にとっては母が唯一の「真実」であり、母にとっても息子が生きる生きる意味だったのでしょう。互いに依存しあいながら共にいる。共依存の母子であったのだと思います。

話は少し変わりますが、戦争中の人々の心理を私はずっと不思議に思っていました。「お国のために命を捨てることは名誉なことだ」当時の人は本当にそう思っていたんだろうか···「戦争を批判するような発言をすると、憲兵に密告される。」本当にそんな事が起こっていたのだろうか。しかし、今回の新型コロナウイルス感染拡大に伴って広がった「自粛警察」という現象をみた時、戦時中の心理もわかるようになりました。コロナ下では、営業しているお店が嫌がらせにあう、県外ナンバーの車が威嚇される···など他人に自粛を強要し、出来ていない人を誹謗中傷をするという行為が起こりました。
その現象はまさに戦時中の日本人が互いを取り締まり合ったという現象に似ています。つまり、「これが正しい」と植えつけられると、それに従ってしまう。たとえ、どこかで本当にそうだろうか?と思いながらも、その圧力に従ってしまう、そういう弱さが人間にはあるのだと思います。特に純粋な若い魂ほど、その傾向は強いのではないでしょうか。

先ほどの映画の周平が、若いうちに出会った「真実」が母親でなかったら···周平の人生は全く別のものになっていたでしょう。若い魂に何が「真実」かと教える事、若いうちに「真実」に出会うことはその人の一生を大きく変えることとなるのです。

今日、お読みした聖書箇所「いつも喜んでいなさい。絶えず感謝しなさい」という聖句は、最近の私のクラスでの生徒礼拝で1番多く読まれている箇所です。捜真生の皆さんが大好きな聖書箇所ですよね。先日の生徒礼拝でこの箇所のお話をしてくれた生徒がいました。今日はその原稿の一部分をそのまま読みたいと思います。

「コロナで出来ないことがたくさん続き、苦しいことばかりで、気分も下がっていた頃、学校では礼拝が再開され、ある礼拝でこの聖書箇所に出会いました。この聖書箇所によって、今までの生活の考え方や気持ちを改めて、本当にずっと苦しいことばかりだったのか、楽しくはなかったのか、出来るようになったことはなかったのか、分かったことはなかったのか、考え直しました。すると、今まで当たり前に過ごしていた日々がとても恵まれていて、当たり前でないことに気付くことができました。そして学校が始まって、お弁当の時間に前を向いて無言で食べている私たちのために、曲を流してくれて、それがとてもたのしいことを思い出しました。他にも友だちとこんな今だからこそ生まれたアイデアを実行することが出来、とっても充実していることを改めて感じることが出来ました。」という文です。

ちなみにこれを書いた生徒は、自分たちのアイデアで新しいマスクを考え、それを10月末に行われる校内発表会(文化祭)で販売するという企画を今、進めています。

コロナ下の生活で、学校では、あれもこれもできなくなりました。皆さんにとっては大きな楽しみとなるであろう、様々な行事も中止であったり、かなり規模が縮小されたり、そんなことばかりです。テレビを付ければ暗いニュースが続きます。そんな中にあって、そんな生活の中から、楽しみを見出し、その生活に感謝することができる、中学2年生の皆さんを、捜真生の皆さんを、私は素晴らしいと思いますし、誇らしく思います。

何がそのような考えにさせるのか、それはやはり皆さんの心に「キリスト教」のエッセンスが注がれているからではないでしょうか? 皆さんの真実に「聖書」が刻まれる。若い魂に「聖書」からの御言葉が真実として刻まれることは、きっと皆さんの人生を豊かにするであろうと思います。中学2年生という、若くて純粋な魂。まだまだ何にでも染まる可能性のある魂が、このような毎日の礼拝を通して、聖書の御言葉に導かれて、皆さんの人生を豊かにしていくことを、心から願っています。

お祈りします
御在天の父なる神様、今日も生きよと新しい命を与えて下さり、ありがとうございます。健康を与えられこの場に集えたことを心から感謝いたします。
神様、捜真に学ぶ若い魂が、自分にとっての真理を追い求め、あなたに喜ばれる生き方ができますように。道に迷ってしまった時にはどうぞあなたが一人一人の歩む道を示してくださいますように。
今日は、たくさんのお客様をお迎えして礼拝を守ることが出来たことにも感謝いたします。世の中が落ち着かない中での受験ということは、多くの不安を伴う事と思います。どうぞ、ここにご家庭を、神様が守ってさしあげてください。
この感謝と願い、ここに集うそれぞれの祈りに合わせて、尊きまる主·イエス·キリストの御名によって御前にお捧げ致します。
アーメン