4月30日(木)礼拝メッセージ
2020.4.30
Soshin Jogakko
忍耐強い神様
中3副担任 阿部一博
【聖書】民数記21:4-9
彼らはホル山を旅立ち、、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らっていった。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。民はモーセのもとに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。
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昔々、イスラエル民族は奴隷としてエジプトに囚われていました。神様は、そんなイスラエル民族を哀れんで、モーセをリーダーとしてエジプトから脱出させてくださいました。そして、自分たちのふるさとであるカナンの地(現在のイスラエル)を目指して大移動を始めたのです。
奴隷から解放され、喜びに満ち溢れて旅を始めたイスラエル人たちでしたが、エジプトからシナイ半島を経てカナンの地へ至る道は、険しく荒れた土地です。砂漠もとおらなければなりません。やがて、イスラエルの人々は疲れてきて、だんだんと文句を言うようになります。「荒地で歩くのは大変だ。」「食べ物や水も十分ではない。」「これなら、エジプトの地で奴隷をしていたほうがよかった。少なくとも飢える事はなかった。」等など。彼らはとうとう、リーダーのモーセにまでかみつきます。「あなたは、こんな場所で私たちを死なせるためにエジプトから連れ出したのですか?」文句は神様にまで向けられました。
怒った神様は毒蛇をイスラエル人のところに送られました。多くの人が死んでいくのを見て、人々も自分たちが犯した罪をさとり、モーセのところに来て自分たちの事を神様にとりなしてくださるようにお願いしたのです。その結果が「青銅の蛇」です。その蛇を見上げたものは助かりました。というのが今回の聖書箇所のお話です。
でも、実はイスラエル人が神様に逆らうのはこれが初めてではありません。というより、旧約聖書全体を通して、イスラエル民族は神様に逆らい続けたのです。それに対して神様が怒り、イスラエル人が悔い改める。旧約聖書の内容は、ものすごく簡単に言うと、そういうことです。
そう考えると、旧約聖書って変わった本ですよね。想像してみてください。皆さんが、新しい宗教を作って、その本を書くとしたら、旧約聖書みたいな本を作りますか?イスラエル民族は旧約聖書の中では、神様から選ばれた民なのです。そのイスラエル人が、いかに神様の前でだらしなかったか、それが旧約聖書です。普通そんな本書きませんよね!
しかし、この事を反対に見ると、神様はいかに忍耐強かったか、と考える事ができます。旧約聖書に記されているのは、イスラエル民族のだらしなさではなく、神様の忍耐強さです。どんなに、イスラエル民族が強情で神様の言う事を聞かず、逆らい続けても、神様は時に怒る事はあっても、決してイスラエル民族を見捨てず、愛し導き続けてくださったのです。
皆さんは中学生以上です。その年になれば、どんな人でも自分の汚さや、だらしなさや、愛のなさに、消え入りたいような思いをした事が一度や二度はあるはずです。夜家族の皆が寝静まったとき、一人ベッドの中で「ああ、あの時、私は何であんな事をしてしまったのだろう!」と頭を抱えて叫びたくなるような思いをした事のある人も多いでしょう。私たちは、自分たちが罪びとである事に、本能的に気づいています。そのままでは、神様に受け入れてもらえない、とわかっているのです。
でも、そんな私たちの罪以上に、神様の忍耐力の方が大きいのです。神様は、何百年にわたり逆らい続けるイスラエル民族を決して見捨てませんでした。もちろん、私たちの事も見捨てません。常にともにあるいてくださるのです。そして、イスラエルの人々が青銅の蛇を見上げたときに命を得たように、「私を見上げなさい」とおっしゃってくださいます。旗竿に上げられた青銅の蛇は、十字架にあげられたイエス様のモデルです。イエス様の十字架を見上げて私たちは罪を許され、命を得ます。皆さん、一人一人が、イエス様の十字架を自分の物とされますよう、心からお祈りいたします。