ひとりひとりの役割
高三担任 富樫恵実
【聖書】コリントの信徒への手紙(一)12章21節~22節、24節~27節
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前達は要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
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神様は、私達には一人一人にかなった役割があるとおっしゃっています。そして、聖書に示されている「体の中でほかよりも弱く見える部分」という表現は、ある人がそう思っているだけで神様は、体の中の大切な一機能として必要があったから神様が配置したのだと示されているのです。その役割に、差はないのだ。どれがすごいとか、すごくないということではない。それぞれがその役割を自信持って発揮することが大事であるという事なのだと思います。
「見劣りのする部分」これも人々から見て劣ると見えるだけであって、神様から見れば自らの作品として全て良い物なのです。そして、自分の苦しみは、「自分だけで感じるものではなく、共に苦しみを感じる仲間がいるのだ、良いことが起きれば、一緒に喜ぶ仲間がいるのだ」ともおっしゃっています。
今コロナウィルスにより、体だけでなく心までもが影響を受け、人々の争いも起こっています。私自身も、以前よりも、些細なことで、イライラしたりすることがあり「良くないなー」と、感じています。なるべく体を定期的に動かしたりして、気持ちをリフレッシュするようにしていますが、気持ちをコントロールするのは難しいものです。
私達は、自分に見えている、また、知っている世界の中で生きています。そして、体も心も大きく成長するにつれ、自分に見えている世界の外にも本当はもっと違う広い世界があるのだということに気付いていきます。学校生活を送るなかで、勉強をして知識を得て広い世界を知ることは大事なことですが、このこと以上に、様々な人と出会い、喜びや、悲しみ、辛さなどを実際に体験することに大きな意味があると私は感じています。
特に捜真女学校には、勉強だけでなく、行事、委員会、クラブ活動、キリスト教の行事、他様々な活動から、自分の可能性を広げるチャンスが散りばめられています。そして、この学校での経験を足がかりにして、世の中に出た時に、勇気のある一歩を踏み出し、やがては自分なりの大きな力が発揮できるようになるのではないかと思っています。でも、思いがけず、今現在、その機会が奪われてしまいました。この貴重な機会が奪われたことで、心に力が湧かない、なかなか元気になれないと感じている生徒の皆さんもいるのではないでしょうか。
特に高校三年生の中にはクラブ活動の最後の数カ月を迎えられず、最後の大会の機会さえも奪われてしまった生徒がいます。また、これからの進路について、どう進んでいくのか先行きがみえない状態です。運動部に携わってきた私自身、心の行き場を失い戸惑っている状況です。
しかし、このような中、風穴を開けるべく動き出した高三がいました。高三の人たちの中からインターネットを使っての礼拝をしたいという声があがったのです。オンラインで伴奏をし、別の人が司会をし、生徒や一部の教員がお話をしています。5月になっても続いています。不安な中で少しでも前に歩もうとする、その行動に私自身も力を得ました。この礼拝で、力を得た仲間、そして先生方もいらっしゃいます。
捜真女学校の皆さん、そして特に中学部1年生の皆さん、高校1年生の皆さんの中には、いよいよ捜真での生活が始まるという時にこのような事態となり、何が何だかわからないという状況の中、力が抜けてしまっている人、不安を覚えている人もいるかもしれません。
でも皆さん一人一人には、それぞれの役割が必ずあります。神様は必要があって私たちをこの世に送りました。小さなことでも良いから、何か人にエネルギーや元気を与えられることができたら良いなあと思っています。身近な人にでも良いですし、勿論捜真の仲間にでも良い。エネルギーを伝えられる何かがあるはずです。伝えれば、またそのエネルギーは自分にも力となって返ってきます。辛い時には一緒に苦しんでくれる仲間がいます。一緒に喜んでくれる仲間がいます。何かアクションを起こしてみてはいかがでしょうか。