礼拝メッセージ 9月14日
2020.9.14
Soshin Jogakko
苦しむ人を知ろうとしてくださる神様
中1副担任 佐々木 広
こちらから讃美歌312番「いつくしみ深き」を聞くことができます
【聖書】フィリピの信徒への手紙2章4節~11節
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト·イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス·キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
********************************************
先日の仕事帰りにあった出来事です。
私は、電車とバスを使って通勤しています。その日の夜の7時すぎごろ、私は電車から降りて、駅前のバスターミナルをバス乗り場に向かって歩いていました。 駅前には、ときどき宣伝のティッシュを配る人がいて、ティッシュを差し出してきますが、私は大抵受け取りません。
その日は、バス乗り場のすぐ近くに、通行人を待って立っている人影がありました。身体の小さい、Tシャツを着た若い女性で、大きな紙袋を持っていました。ティッシュを渡すのだろうと思って前を通り過ぎようとしたら、その女性がすみません、と声をかけてきました。 見ると日本人ではなく、東南アジア系の人で、日本語も片言でうまく話せないらしく、手に持った日本語が書いてあるカードを見せてきました。 そこには、「私は海外からの留学生なのですが、コロナの影響でアルバイトの仕事がなくなってしまい、収入がありません。私が作ったお菓子を買って助けてください」書いてありました。紙袋の中には、小さな袋に入ったお菓子らしきものが並んでいました。値段を聞くと、1袋500円だと言います。 私は瞬間的に「買いますよ」と答え、1袋買うことにしました。
なぜその時、即座に買うと言ったのかというと、1つはその子が20代前半ぐらいで、私の高校三年生の息子と年齢的にあまり変わらない感じに見えたからです。もしうちの子がこんな境遇だったら、と想像してしまいました。 もう1つは、その数日前にたまたま見たテレビ番組を思い出したからです。 それは、多国籍の人たちが集まる街として知られている新大久保で商売をしている在日外国人の人たちを取材した番組でした。 新型コロナウィルスの感染拡大の影響で、仕事や収入が減ったりなくなったりして困っている日本人のことは毎日ニュースで取り上げられていますが、番組で見た外国籍の人たちはもっと深刻な影響を受けていました。言葉の壁や文化の壁のせいで、仕事や収入を失っても助けを受けられなかったり、周辺の日本人の住民に文化的なちがいを理解してもらえず、助けを受けられないどころか、トラブルになったり、冷たい仕打ちを受けたりしていました。 あるネパール人の経営者は、自粛で店を開けられず収入がないので、同じ在日外国人の友人に電話で千円貸して欲しいと頼んでいました。大の大人が千円にも困っているという映像に、私は衝撃を受けました。
その記憶がまだ生々しかったので、思わず買ってあげたくなったのです。 「1袋ください」と言って500円渡したら、その子はとても喜んで、「幸せがありますように」と言って一袋渡してくれました。 そして私はバス停に並んだのですが、その子はひき続き「お菓子買ってくれませんか」と通る人に声をかけていました。 しかし見ていると、通りかかる人で彼女を相手にする人は誰1人いません。私は、「マッチ売りの少女」という童話を思い出しました。このまま誰も彼女のお菓子を買ってあげないのだろうか、と心配になりました。
私はその様子を見ながら、もう一つのことを思い出しました。私の妻が、ある日近くのショッピングモールに買い物に行って帰ってきたときに話したことです。妻は、ショッピングモールでパンフレットをもらってきました。そのパンフレットは、難民支援を呼びかけるもので、支援のための募金を呼びかけるボランティアの人(この人は日本人です)に声をかけられ、もらってきたのだそうです。難民とは、戦争や内戦などで住む家と生活を奪われ、外国に逃げている人たちのことです。最近だと、西アジアにあるシリアという国の内戦で大量に難民が発生し、ヨーロッパに流れ込んで大きな問題になりました。
妻は難民支援に関心があったので、パンフレットを受け取ってその人の話を聞いたのだそうです。その時、ボランティアの人は、朝から一日中買い物客に声をかけ続けているのだが、誰1人相手にしてくれず、妻が初めてパンフレットを受け取ってくれたと言ったのだそうで、妻は驚いてしまったというのです。日本人ってそんなに冷たい国民なのか。同じ日本人としてどうかと思う、と妻は言いました。
その話を思い出し、私はじっとしていられなくなって、もう一度その子のところに行き、あと2袋ください、と言って千円渡しました。その子は「ありがとう、幸せがたくさんありますように」と言ってお菓子を渡してくれました。その後どうなったかは、バスに乗ってしまったのでわかりません。次の日からは、駅前でその子を見かけていません。ここは買ってくれる人が少ないと思って、場所を変えたのかなと思います。その子はフィリピンから来たと言っていましたが、手作りのお菓子は、日本にはない味で、とても美味しかったです。
私は、別にいい人というわけではありません。たまたま最近見たり聞いたりしたことがあって、それを思い出したから、そうせずにはいられなかっただけです。もし先ほど話したようなことを見たり聞いたりしていなければ、私もその留学生の子を無視して通り過ぎていたかもしれないと思います。何が行動の分かれ目だったでしょうか。「知っているかどうか」なのだと思います。たとえいい人でも、人を助けるため、人の役に立つために必要なことを知らなければ、人のために行動することはできないと思うのです。私たちが多くのことを学び、多くのことを知らなければならないのは、このためです。「知らないことは罪だ」「知ろうとしないことは罪だ」という言葉を聞いたことがありますが、その通りだと思います。
さて、今日の聖書の言葉には、私たちの神様がどんな神様なのかが書かれています。私たちの神様は、天から人を見下ろして、お前たちはダメなやつらだ、と裁いているような神様ではありません。神の独り子イエス·キリストは、神であるのに人間の姿をとって人間の世界に降りてきました。そして、王様や金持ちやエリートの家ではなく、最も貧しく見下されているような庶民の家に生まれ、貧しい人々の苦しい生活を自分で経験し、味わい、知ってくださいました。最後は、最悪の犯罪人がかかる十字架での死刑まで味わって下さったのです。そこまで私たち人間のこと、特に苦しんだり悲しんだりしている人間のことを知ろうとして下さるのが私たちの神様であり、イエス様です。 私たちの神様がそういう神様であるということは、素晴らしいことではないでしょうか。
祈り
私たちが苦しいとき、つらいとき、イエス様は必ず私たちのところに来て、ともにいてくださることを信じ、感謝します。私たちもまた、苦しんでいる人、つらい中にある人のことを知る努力をし、そのような人たちの役に立つことができる人間になれますように、力と導きを与えて下さい。コロナの影響で苦しんでいる世界中の人々のうえに、神様のお恵みがありますように。