礼拝メッセージ 6月3日(水)

2020.6.3

Soshin Jogakko

「先生、どうして恋愛の楽しい部分はすっぽり抜けてしまうのですか?」

中1担任 新井 昂太

こちらから讃美歌453番「聞けや愛の言葉を」を聞くことができます

【聖書箇所】列王記上 19章6節~8節
主の御使いは戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ。」と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。

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「先生、どうして恋愛の楽しい部分はすっぽりと抜けてしまうのですか?楽しい部分がいいところなのに、出会ったと思ったらすぐにお別れなのですね」。というような質問だったと思います。大学生の私は、その時習っていた教授に聞いてみました。

大学で私は和歌を勉強していました。(和歌とは、五·七·五·七·七のあれ、百人一首などのあれ、ですよ。)和歌によく詠まれる二大テーマは「季節」と「恋愛」です。そうして、その時のクラスでは「恋愛の和歌」が教材になっていました。私たちのクラスは思いついたらすぐ質問、どんなにくだらないことでもすぐ質問、というクラスで、その時の私も深く考えずに先ほどの質問を教授にぶつけた、というわけです。
というのも、和歌集の「恋」のテーマを見ると、「恋心が芽生える→会いたいなあと思う気持ち→お別れした後のさみしさ→また会いたいと思うさみしさ→すっかり会えなくなってしまった悲しみ」と続いていくのです。要するに「会いたい」と思ったらすぐに「さみしい」。だから私は、どんな質問にも完璧な答えを返してくれるその先生に、「そこには日本文化の考え方がね…」とか「そこには歌人の思いが込められていてね…」といった解答を期待して、質問をしたのでした。
先生の答えはこうでした。
「そりゃあさー、デート中はデートが大事ですから。そんな大事に時に和歌なんか詠んでちゃダメでしょー。」
「和歌なんか」と言い切った先生のコメントに、そりゃそうだわー!とクラスで笑ったのをよく覚えています。(先生はその後ちゃんとした解説もしてくれました。)
続けてクラスメートがこんなことを言いました。
「確かにさ、『楽しい』っていうのは皆同じように『楽しい!』って感じだけど、『悲しい』っていうのは人とか場面でそれぞれじゃない?だから歌にできるのかもよ。」と。

その言葉に私は確かな説得力を感じたのでした。もちろん、「悲しみを共にする」ということはあり、それはとても大切なことです。でも、悲しみの色合いというのは私達一人ひとりが持っているもののような気がします。

新型コロナウイルスがあろうとなかろうと、私たちには日々悲しいことや辛いことがやってきます。楽しいことはたくさん起こってほしいけれど、悲しいことや辛いことにはなるべく起こってほしくありません。そして悲しいことは早く忘れたいものです。
でも、今。まさに今、あなたが悲しんでいることは、あなたという人間の大切な、中心的な「何か」を表しているのではないか、と思ったりもするのです。あなたという人間だけが、そのことにそんな風に悲しめる。そこにあなたの大切な何かがある。
その大切な何かこそ、私たちが神様によって与えられたもの。それに基づいて「生きよ。」と言われたもの。そんな風に思って歩んでゆければよいな、と思っています。

 

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