礼拝メッセージ 6月10日(水)

2020.6.9

Soshin Jogakko

「主の声はささやくように」

国語科  照下千恵

こちらから讃美歌187番「主よいのちの言葉を」を聞くことができます

 

【聖書】列王記(上) 19章11~13節

主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。
「エリヤよ、ここで何をしているのか。」

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中学1年生国語の教科書に掲載されている「知識の樹木」に、次のような文章があります。
「周囲の音を聞いて自分がどんな地点にいるかを聞くには、まずしゃがんで、できるだけ低い姿勢をとりながら耳を澄ます。」―休校中の4月5月、私は実にそのような心持ちで過ごしていました。

今年は、いつもの年よりも、鳥の囀りがよく聞こえたような気がします。自宅は山と海とに近いので、この季節、ウグイスやホトトギスの声はよく山にこだまします。鳶が窓の外を横切っていくのも、よく目にします。が、今年は、今まで聞いたこともないような、朗らかな小鳥の囀りをよく耳にしました。
気持ちの上では、枯れ井戸の底にうずくまって、囀りを耳にしていた、といってもよいでしょう。生徒に会えない、声を聞くことができない、授業ができない…それは私にとっては、手足をもがれてうずくまっているような状態だったのだろうと思います。

そんな中、Gsuiteの導入が決まりました。無論、専任の先生方が念入りな議論をされた上での導入なのですが、講師の自分にとっては心の準備が伴わず、新聞で読んだおぼろげな知識を頼りに「Gsuiteとは」と検索することから始めました。
目の前に、使えるはずの手段があるのに、思うようにいかなくて、必死に資料を読み、説明動画を視聴し、ノートに書き込み、質問をし、心優しい同僚の手を煩わせ、試行錯誤を繰り返す日々。うまくいかないことが悔しくて、泣きながら勉強したのは何十年ぶりでしょうか。しかし今、井戸の底でうずくまった2ヶ月を経て、新しい生徒との繋がり方を手に入れた、と感じています。

主の声は、ささやくように小さい。しかし、洞穴のように暗い場所にこもっている時は、不思議とそのささやきが、はっきりとした力を持って聞こえてきます。
すべての予定がキャンセルされ、すべてのつながりが絶たれると、自分が本当は何をしたかったのかがよく分かります。
私の場合、生徒と出会いたい、言葉を通じて授業をしたい、という欲求だけが、純粋に残りました。
生徒と言葉と―その最も大切なものが、二つながらに自分の仕事であったことは、本当に幸いなことでした。
コロナ禍…「禍」(わざわい)と呼ぶにふさわしい今回の事態ですが、禍の中でこそ、神様のささやきに耳を澄ますことで、得られる力があります。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」

「あなたは何を求めているのか。この事態の中であなたができる、もっとも善い働きとは何なのか。」そのささやきに従って、今日も努力しようと思います。

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