礼拝メッセージ 6月8日(月)

2020.6.8

Soshin Jogakko

「めぐみを受ける」

司書教諭  高橋 香

 

こちらから讃美歌234番A「昔主イエスのまきたまいし」を聞くことができます

 

【聖書】 マタイによる福音書 13章3節~9節
イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のあるものは聞きなさい。」

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1977年に発行された「捜真小学校20周年グラビア」に次のような文章があります。

「めぐみを受ける

『種を蒔いて置いたら みんな生えて出て来た 僕は感謝した 一粒のまちがひなく からを破って飛んで出た』 室生犀星

捜真小学校も今年で20周年を迎えられるそうで、おめでとうございます。私はもはや、捜真での12年間の生活を終え、この春から新しい土に根を植え替えました。でも、私の種は捜真で蒔かれ、水を与えられました。そして、いつの日か咲く花は、やはり捜真の花でありましょう。よい地に蒔かれた種は、よい実を結ぶと言います。その言葉を大切にして、私の種が、そして皆様の種がよい実を結ぶよう、祈っております。」

これは、43年前、グラビアに寄せた私の文章です。当時、私は高校を卒業したての大学生でした。長い中丸の丘での生活から、都会のど真ん中の共学に通い始め、学食にはなんとなく入れずに、中庭の欅の下のベンチでお昼ご飯を食べていました。特別母校が懐かしかったわけでもなく、ぼんやりと少し目線を遠くにして、身の回りの新しい環境を眺めていた時期だったと思います。多分、聖書の箇所がふと浮かんで、文章を書いたのでしょう。後日、小学校の担任の先生から「寄稿してくれて嬉しかった。」という葉書をいただき、ひどく恐縮したことを今でもよく覚えています。

聖書がずっとそばにありました。母校への愛着よりも、聖書への愛着のほうがずっと強いと今でも思っています。聖書の言葉が、その後の私の人生のピンチや喜びの時に、すっとやってきました。

この種蒔きのたとえもその一つです。この後の18節からは、親切にも「たとえの説明」というものが書かれています。23節には「よい土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
とあります。

在校生だった時は、「私はどんな土地に蒔いてもらえるんだろうか。何十倍の実を結ぶのだろうか。」と思いながら礼拝に参加していました。
でも今、この聖句を読んでみると「御言葉を聞いて悟る人」をすっかり読み落としていたことに気づきます。もしかしたら、よい土地は待っていれば神様から与えられるものではなく、自分で良い土地を見つけようとする人に与えられるのではないかしら。もしかしたら、「百倍、六十倍、三十倍」と大きな数字でなくてもいい。一倍でも二倍でも実を結べたならいいのではないかしら。と思えます。

「私たちが自分の耳を傾けて聞く」ことを待っていてくださる方が、私たちのそばにいてくださる。「一粒のまちがひなく」神様から私たちに蒔かれた種が、実を結ぶよう、今日一日を過ごしていきたいと思っています。

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