礼拝メッセージ 5月11日(月)
2020.5.11
Soshin Jogakko
「神に問いかける」
中学部·高等学部校長 中山 謙一
こちらから讃美歌453番「聞けや愛の言葉を」を聞くことができます
【聖書】創世記32章23~31節(旧約聖書p.56)
その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
みなさん、こんにちは! 校長の中山謙一です。
今日の聖書箇所は不思議なお話です。ヤコブという男が何者かと格闘して相手をギブアップさせたのだが、その相手はどうも神様であった、という話です。夢と現実が相半ばしている不思議な話。
休校がさらに延長され、まだ家に居なければいけない日々が続きますが、
「これ、いつまで続くの…?」とか、
「例年だったら今頃は…」とか、
「どうしてこんな目に遭わなければいけないの?」
と思うことがきっとあると思うのです。現に私自身がそう思ってしまいます。
(もっと深刻な命の危機にさらされている人だっているのに…)
そして私のつぶやきは、最終的には、神様に向かって問いかけたくなってしまいます。
「神様、どうしてなのですか?」と。
私は創世記のこの話を思い出しています。
神様に向かって取っ組み合いをし、ヤコブは「祝福してくださるまでは離しません」と神様を困らせるのです。
聖書の中の人物(特に旧約聖書)は、神様に向かっていきます。すごくストレートです。
私たちも、神様にまっすぐに問いかけることをしていいのではないか。たとえ答が与えられないとしても。
こんな時でも、いやこんな時だからこそ、私たちは神様に背を向けるのでなく、神様を忘れるのでもなく、「神様のみ心はどこにあるのですか?」と尋ね続けるべきだと思うのです。
聖書の中では、神様に背を向け逃げようとする人を神様はおゆるしになりませんが、
神様に向かっていく人は、ヤコブのように大いなる祝福が与えられます。
〈お祈り〉
すべてを支配したもう全能の神様。
多くの人たちが今日も命の危険にさらされています。
互いにいがみ合ったり、不安でたまらない人が大勢います。
神様のみ心が私たちにはわかりません。
それでも神様は私たちをお見捨てにならないことを信じます。
私たちを助けてください。大いなるみ手で私たちをお支えください。
救い主イエス·キリストのみ名によって祈ります。アーメン。