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学校法人 捜真学院

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礼拝メッセージ 9月18日

2020.9.18

Soshin Jogakko

愛のある生き方

 

こちらから讃美歌453番「聞けや愛の言葉を」を聞くことができます

中1担任 新井 昂太

【聖書】マルコによる福音書5章25~34節

さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

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中学1年生、2年生の皆さん。皆さんはこの半年ほどの間に環境が変わったのではないかと思います。中学1年生は小学校から中学校へ、2年生は下級生から先輩へと、自分の置かれている立場が変わったはずです。私たちは立場が変わったことで、成長したことで見えてくるものがあります。今日は「成長したことで見えてくるもの」を中心にお話をしたいと思います。

先日、中1A組で授業をしていた時のことです。「先生は何時ごろ帰るのですか?」という教員の生活、のような話が始まり、そこから「教頭先生のお仕事とは?」という話になりました。皆さんにはあまりイメージがつかないだろうとは思いますが、ひどいもので、「え?教頭先生はひまだからすぐに帰ってるんじゃないの?」と言っている方もいましたね。勿論、教頭先生は全くひまではありません。が、それを私が分かったのは実際に自分が学校という場で働きはじめてからであり、自分の立場が変わってからのことでした。

話を私がまだ幼かった頃に戻します。近所に、Aさんというご家庭がありました。Aさんのお家はご夫婦のお二人、そしてワンちゃんが一匹いました。私が4、5歳の頃だったと思います。そのAさんのご家族が突然引っ越しをされました。もう少し正確に表現すると、突然いなくなってしまいました。幼かった私が覚えているのは、突然がらんとした雰囲気に変わったお家、そしてそこに残されて時々鳴いていたワンちゃんの姿です。私は両親に尋ねました。「Aさんのお家はどうしたの?」と。両親は「引っ越しをしたのよ。」と何もなさそうに私に言い、幼かった私はワンちゃんだけ残されてしまったことを疑問に思いつつ、それで納得をしたのだと思います。

Aさんのお家が様々な事情を抱えていたこと。そして苦しみの中で所謂「夜逃げ」をしたこと。それらが分かったのは、随分後になってからでした。

Aさんの件をはじめ、大人と呼ばれる年齢になったことで私が最も強く感じることは「笑顔で振るまっている人も、何も問題がなさそうに過ごしている人も、悩み悲しみ苦しみを背負って生きていることが多いのだ」ということです。

今皆さんの隣にいる友人。元気そうに笑っていると思います。でも、その人も、悩みをかかえ、それを誰にも話せないままがんばってその場にいるのかもしれません。
反対側の友人。何もなさそうに見えるかもしれませんが、悲しみを背負いつつ、それに打ちのめされないように耐えている最中かもしれません。

今日の聖書箇所は12年病気で苦しんでいた女性に対しイエス様が奇跡を起こす場面です。病そのものの苦しみだけでなく、差別までも受けなくてはならなかった女性。苦しみのどん底にいる中、イエス様の服の、そのほんの端に触れたのだと思います。そしてその時に奇跡が起こる。マタイによる福音書にある同じエピソードでは服に触れた女性に対し「元気を出しなさい。」とイエス様が呼びかけたことで病が癒されています。苦しむ女性が服に触れた時、イエス様にはその苦しみ悲しみが伝わったのだと思います。
元気そうにふるまっていても人は悲しみ苦しみを抱えているのかもしれない、ということを感じる今、このイエス様の力はより一層輝かしいものに私には感じます。
私達にはイエス様のようなことはできません。隣人の服を少し触ってもその人の苦しみや悲しみは伝わってきません。でも、もしかしたらこの人は悲しみの中にいるかもしれない、苦しみの中でもがいているかもしれない、と思うことはできます。そのふるまいの中で、悩み悲しみに気が付くこともできるかもしれません。そして、そっと寄り添ってあげることも。
私たちにできることは多くはないはずです。でも神様は、わずかなパンで多くの人を満たしたように、私たちの持っているわずかな思いや行動を、苦しむ人を支える大きな力に、悲しむ人をなぐさめる大きな愛に変えてくださる方です。すべてに気が付くことはできないけれど、隣人が悲しみ苦しみの中にいるかもしれない、と思って行動すること。寄り添ってあげること。これがキリスト教の語る「愛のある生き方」の一つの答えなのかもしれない、と感じています。

(9月17日 中1·中2放送礼拝)

 

 

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