My Soshin Story

高校2年M.Kさん 2017.5カンボジア研修

聖書: それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて/裁きの座に引き出されるであろう。」コヘレトの言葉12:12~14

 

カンボジアに行ってきて、一番伝えたいと思ったことを話したいと思います。
突然ですが、今日から「ただ本を読んでいる人、時計が読める人、眼鏡をしている人、手がキレイな人、美男美女が殺されます」なんて法律が出されたらどうしますか?皆さんは今、「え?意味が分からない」「急に何を言っているんだ」と思いませんでしたか。そうですよね、それは私たちの正しいと思うことと違うからです。
しかし、これは実際に30~40年前のカンボジアという国で起こったことなのです。1970年代にカンボジアはアメリカが始めたベトナム戦争に巻き込まれ、国が混乱し貧富の差が拡大しました。そうした中、1人の革命家が「平等な社会」という理想を実現するための革命を起こしました。権力を握った彼は、格差をなくすためにカンボジアをお金も機械もない原始時代のような状態に戻しました。そこのルールをつくり農業をさせました。カンボジアの人々は、敵やスパイを隠していると疑われたために尋問され、拷問を受け、そして処刑されました。革命家にとって頭の良い人は邪魔でした。例えば、ふとした時に時計を見るだけで「この人は、時間が分かり時計を読める人だ=頭の良い知識人だ」などという理不尽な理由で罪のない多くの人が殺されました。きっと、革命家の彼は、このやり方が正しいと思っていたのでしょう。
私は今回、当時、尋問や拷問が行われたトゥールスレーン収容所や、当時の人口の大半にあたる400万人以上が殺されたキリングフィールドへ行きました。
トゥールスレーン収容所はもともと普通の高校でした。しかし、ある日突然、恐ろしいところへと変わったのです。キリングフィールドでも赤ちゃんから老人まで無差別に虐殺されました。お金も機械もないため、多くの人は鉄砲ではなく、農業で使う棒で頭蓋骨が壊れるくらい殴られました。赤ちゃんは足をつかまれ1本の木に向かって打ちつけられるという無残な方法で殺されました。そういうことが、何年間も毎日のように繰り返されていました。私はこの研修に参加する前に、カンボジアの内戦の歴史を調べている中で、この虐殺について知りました。普段から、私は何かを調べると、そのことについてもっと知りたいと思うようになるのですが、このことについても、もっと知りたいと思いました。しかし一方で、そんな恐ろしいところに行きたくないし、見てはいけない人間の歴史のような気がして見たくない、と思う気持ちもありました。カンボジアへのうのうと足を運ぶことは、本当に他人事としてしか考えていないようで、自分が許せませんでした。私には,このような複雑ないくつかの気持ちがありました。
そんな葛藤を持ちながら行った収容所で、私はたった7人しか生き残らなかった内の2人の方と会うことができました。その人は、傍から見たら普通の男の人で、自然に話し、笑っていました。うまい言葉は見つかりませんが、つらい経験をしながら強く生きている姿に、心がぎゅっと締め付けられました。その方は「生還者」という本を出し、この虐殺での体験や思いを多くの人に詳しく伝えています。私はその本を読みました。彼の人生は、私には考えられないほど辛いものでした。彼は、収容所などでひどく残酷な目に遭い、何度も死にそうになりました。そして、大切な家族や友人が目の前で殺されていく中、本当に運良くここまで生き残りました。
彼は本の中でこう語っています。
私は生き残ったが、幸運だったなどとは言えない。妻と子供は死に、私が耐え抜いた拷問の恐ろしさと言ったら。その時に生き残るよりも死ぬべきだったのかもしれない。しかし私は生き残った。私は私の物語を語ることが私の義務であると信じる。トゥールスレーン収容所で命を落とした人々の写真の前を歩く時、誰もがみんな生きたかったのだと思う。なぜ彼らは殺されたのだろうか?これらの命を落とされた人々の写真の中に、私も入っていたかもしれないと考えることが時々ある。こんなにも多くの人々が殺害された中で、私が生き残ったのは偶然だったのだろう。毎晩考えるのだ。生き残ったというのは何たる幸運だったのだろう。なぜ私は生き残ったのだろう。私の人生では1000回は死ぬ機会があった。何度も至近距離から撃たれた。しかし殺されなかったのだ。これはもう、私の理解の及ぶところではない。他の人たちだったら殺されていたのかもしれない。しかし私は生き残った。
私は、私を拷問した人々を責める気はない。もし彼らがまだ生きていて、私の前に現れたとして、私は今も彼らに怒りを抱くだろうか。いや彼らは上位の指導者ではなかったのだから。その時、彼らはそうせざるを得なかったのだ。私は彼らも私のように犠牲者であったのだと考える。彼らは他の人間の命令に従うしかなかったのだ。私なら何か違う振る舞いができたと言えるだろうか。命令に背けば自分が死ぬはずだ。殺すことを拒否する強さが自分にはあったのだろうか。尋問の間は私の中に怒りがあった。しかし長い時が経ち、この収容所について学び、そうせよと言われていたことを彼らがせざるを得なかったことを理解した時、それ以上に怒りを抱く事はなくなった。私を尋問していた人々も両親や家族を失ったのである。
私はこの収容所やキリングフィールドに行き、この本を読み、多少重い話でも、この事実を皆さんに知って欲しいと思い、礼拝で話をすることにしました。
皆さん、考えてみてください。自分がこの時代にいたら、きっとどちらの立場であっても、同じように苦しみ、この虐殺を止められないのだと思います。そして家族が友人が殺されればきっと少しは怒りを覚えるでしょう。しかし、長い時が経って事実を知ったとして、この人のように責めずに許せるでしょうか。
初めはこの場所へ行った時、ただここでひどいことが行われていたんだという想像しかできず、ただただ見ることしかできませんでした。自分に何ができるかも分かりませんでした。
しかし、今、分かったことがあります。歴史を学び事実を知るという事は、それだけで意味があるのです。隠したいような負の歴史でも、伝えなければその歴史は後の世代に知られません。
しかしながら、今、人は過去を見るだけで変わっていないような気もします。今日、トゥールスレーン収容所やキリングフィールドでは「展示」という形で、人々に内戦の事実を伝えています。私は収容所やキリングフィールドへ行きたくないと思っていましたが、今は行って良かったと思います。この虐殺は、一人の革命家が、自分の理想の世界をつくろうとした結果だったのではないかと感じます。
私は思います。強欲になってはならない、人は神様にはなれはしないと。人は、あくまでも神様の下にいて、力をもらいながら生きているのだと思います。私の周りには、優しくて明るい良い友達や尊敬できる人がたくさんいます。カンボジアでも、実際出会った人、お店の人,すれ違った人たちは、皆優しくて温かい人達でした。でも、人は追い詰められれば残酷にもなれます。人は、自分次第で優しくも残酷にもなれる生き物だと思います。だからこそ私は、周りの人や環境に恵まれ、今、生きている事を感謝して、神様の下で自分らしく生きていきたいです。そして、たくさんのことを経験し、「知る」事を恐れずに、人の痛みや喜びを分かち合うことを大切にしたいです。
皆さん、知らないよりは、知る方が良いことを忘れないでください。そして、自分の気持ちを伝えることを大切にしてください。

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