礼拝メッセージ 7月15日(水)
2020.7.15
Soshin Jogakko
捜真では今日15日から全体での登校が始まり、学校でも放送という形ではありますが、全校そろって礼拝をおこなうことができるようになりました。今日から28日までは、分散登校中に行われた校内チャペルでの有志礼拝のお話を、毎週(月)(水)(金)にご紹介します。
有志礼拝は高3の生徒の申し出で始められました。中1から高3までの生徒が毎日30人~50人、そこに教職員も加わり、2週間にわたって共に聖書の言葉を聞くことができました。
「幸福な世界」
中1学年主任 佐々木 広
こちらから讃美歌187番「主よいのちの言葉を」を聞くことができます
【聖書】ルカによる福音書12章16〜21節
それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」
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アメリカのヨセミテ国立公園にある断崖絶壁、エル·キャピタンの写真です。高さは900メートルで、東京タワーの約3倍、東京スカイツリーの1.5倍です。
3年前、この崖に命綱なしのフリーソロクライミングで挑んだクライマーがいます。その人の名はアレックス·オノルド。彼の挑戦を密着取材したドキュメンタリー映画を、先日テレビで観ました。番組の紹介に「衝撃の結末」とあったので、いつ彼が手や足を滑らせて落ちてしまうのかと、観ている途中で怖くてテレビを止めたくなる、緊張でやたらと手汗をかく、身体に悪い映画でした。
ただ、私にとっては結末よりも衝撃を受けたことがあります。
それは、彼の言葉と生き方です。
命綱なしのクライミングなんて、どれだけクレイジーな人なのかと思っていたら、淡々とした、物静かな、欲望とは全く縁がない、哲学者みたいな人でした。彼は、死にたいわけではなく、無謀な人でもありません。死なないために、厳しいトレーニングと緻密な予行演習を繰り返して、本番に挑みます。家は持たず、キャンピングカーのような車で移動しながら、生活のほとんどがクライミングのためというストイックな生活をしています。
世界的に有名なクライマーなのでファンがいて、なんと恋人ができます。クライマーではない一般の女性で、映画にも出てきます。アレックスとは対照的な明るく社交的な人で、その影響で彼にも変化が表れ、家を買うことになりました。彼女は当然、彼には死なないでほしいわけです。彼の怪我をきっかけにフリーソロクライミングをやめてほしいと持ちかけました。しかしアレックスは、彼女の気持ちを気遣いながらも、自分にとっては彼女の願いよりも挑戦が優先だと言いました。映画の中の言葉はこうです。
「彼女は人生に幸福を求めている。僕はすべて挑戦のためだ。誰でも幸福に安住できる。幸福な世界には何も起きない。そこにいても何も達成できない」。
「幸福な世界には何も起きない」という言葉が、私にとっては衝撃的でした。
私たちは、危険やリスクがない、幸せな安定した生活がいいと思っています。
例えば、我が家の子どもは今年受験生です。親の立場からすると、子どもたちには、将来の安定した生活をめざして少しでもランクが上の進学や就職を、と願います。ところがアレックスは、幸せに安住する人生、安定した人生には何も起きない、自分にとっては生きていないのと同じだ、というのです。私や妻が当然のように願う子どもの幸せな人生は、「何もない、何も起きない人生」なのか、と衝撃を受けたのです。また、自分自身の人生についても、同じように考えさせられました。
今日のイエス様のたとえ話に出てくる金持ちと、私たちの考え方は同じではないでしょうか。仕事である程度成功して、何年も安心して生活できるくらいお金や財産を蓄えて、あとは悠々自適で楽しく暮らしたい、というのがこの世の普通の価値観です。
ところが神様は金持ちに対して「愚かな者よ」と言います。
ある時、イエス様は教えを求めてきた金持ちの若者に、「持ち物を全部売り払って、私についてきなさい」と言いました。その若者は、財産を捨てることができずに去って行きました。安定した、幸せな生活を捨てるのは、どんなに真剣に人生のことを考えている人でも難しいのです。それは、私たちも同じです。しかし、そういうものを捨てないと、そこから離れないと見えないものが、人生にはあるのだと思います。
何年か前に高校のクラス会があり、その時に私は、かつてのクラスメートの1人からそういう話を聞きました。
クラス会では、集まった人全員が近況報告をしたのですが、その中で、裁判官をしていたA君が近況報告をしました。裁判官といえばエリート中のエリートです。しかし彼は、家庭の事情で裁判官を辞め、今は特技である音楽を生かして障害を持つ子どもたちの施設でボランティアをしながら、法律相談で生計を立てていると言っていました。そして彼はこう言いました。障害を持った子どもたちに関わるようになって、子どもたちの笑顔に触れてわかったことがある。価値のない人間なんていない。障害がある人も障害がない人も皆同じように、生きていることそのものに価値がある。自分はそれを発見しました、と。彼は、エリートコースから外れたときに、人生には仕事の成功や上のランクを目指すことよりも大切なことがあると気づいたのだと思います。アレックスの言葉を借りれば、人生に大きな出来事が起きたのです。クラス会の近況報告の話としては、やや場違いだったかもしれません。しかし私の心には、この話が最も強く残りました。なぜなら、私も含めて多くの人は、そういうことに気づかずに、あるいは気づいていても仕事が忙しいとか何とか言って、見ないようにして生きているからです。
今日の聖書の言葉でイエス様は、命を取り上げられる金持ちについて、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」と言っています。
神の前に豊かになるとはどういうことでしょう。今日の聖書箇所の少し後に、こういう言葉があります。
ルカによる福音書12章33~34節
「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなた方の富のあるところに、あなた方の心もあるのだ」
私たちの心が、持ち物やお金や安定した生活への執着から解放された時、神様は本当に価値のある「尽きることのない富」(少し前の箇所ではそれを「神の国」と言っています)を与え、私たちの人生を真の意味で豊かにしてくださるのだと思います。
祈り
神様、ともに礼拝の時をもつことができたことを感謝します。
私たちは自分の幸せや安定した生活からなかなか一歩踏み出すことができない弱さを持っています。人生にとって本当に大切なものを私たちが見つけることができるように、神様の導きをお与えください。
災害やウィルスの感染拡大により、多くの人が苦しみの中にあります。自分のことだけでなく、困っている人たち、苦しんでいる人たちのことを考えて行動することができるように、私たちにできることを教え、行動する力をお与えください。
イエス·キリストのお名前によってお祈りします。