礼拝メッセージ 7月14日(火)

2020.7.14

Soshin Jogakko

「一日一生

中3副担任 三宅 義人

こちらから讃美歌265番「世人の友となりて」を聞くことができます

【聖書】マタイ6章31から34節
だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言っても思い悩むな。それらはみな異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

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例年、夏休みに入る前や1月の受験シーズン前に高校三年生に向けて先生方の激励のメッセージを載せた捜真だよりが発行されます。また、卒業式直前に高校三年生が「手帳に何か一言書いてくれますか」と訪ねてくることがあります。
私は毎回、次の2つの言葉のどちらかを書くようにしています。一つ目は「未来を信じ、未来に生きる」という言葉です。これは私が卒業した大学の総長を長く務められ、法学の先生であった末川博という人の言葉で、今も母校の入口の石碑にこの言葉が刻まれています。
もう一つの言葉が「一日一生」という言葉です。最近比叡山の僧侶の方がこの題で本を出版されたそうですが、もともとは内村鑑三というキリスト者が使った言葉です。内村はこんな意味のことを言っています。

「一日は貴い一生である。これを空費(ムダづかい)してはならない。そして有効的にこれを使用するには神の言葉を聞いてはじめることにある。一日の成功失敗は朝の心構えで決まる。朝起きて、まず第一に神の言葉(聖書)を読んで神に祈る、これをしないではじめた一日の戦いに勝利はない。たとえ敗北のように見えても勝利となるに疑いはない。そしてこのような生涯を一生続けて、一生は成功に終わるのである。」

私たちは、生きていく上で一生懸命過去の自分の経験や知恵から、未来を展望して予測を立てて生活をします。けれども相手がある場合、その予測通りに進まなかったり、経験や知恵が通用しないということがあるということも知っています。先が見通せない、これほど人を不安にし、しばるものはないのだということを、この歳になって痛感しています。だから練習し、努力をするのだと思います。不安を自信に変えるために。

しかし視点を変えてみると、病や災害、戦争のように、経験や知恵、努力を総動員しても、先が読めないということがこの世にはあるということを私たちはこのコロナの混乱の中で嫌というほど味わっていると思います。そういう時だからこそ、この「一日一生」という言葉が響いてきます。一日を一生と思い、今自分に出来ることを一つひとつやっていくしかないのではないかと考えます。

今日取り上げた聖書の箇所は、とても有名な箇所です。「明日のことを思い悩むな」という言葉は、ともすれば、うまくいかないこと、先が読めないことに対して、「くよくよするな」という意味で捉えられがちです。それはそれで意味あることだとは思います。だけど「流れや運命に身を任せろ」という浅い意味でイエスは語ったのではないと思います。そんな受け身的な意味の言葉ではありません。くよくよして立ち止まるのではなく、「できることは何か」を問いかけ、それを実行に移していくという積極的な言葉です。もし先が読めない不安がぬぐえないなら、神の国と神の義を祈れと言っています。つまり自分が目指しているものが本当に神さまの御心に適っているかを問いつつ、今自分のできることを積極的に実行していけば、道は開かれるということを述べているのではないでしょうか。未来は誰にもわかりません。でも今日私たちがやるべき業の積み重ねが未来を開いていくのです。

「未来を信じ、未来に生きる」という言葉と「一日一生」という言葉は、根の部分ではつながっていると思います。例え小さいことであっても、今の自分のできる正しいことを実行していく、それが未来への道への第一歩だということをしみじみ感じるこの頃です。

≪お祈り≫
神さま、私たちの人生は先の見通せない不安と隣り合わせです。そのような怖れの中で私たちは立ち止まってしまう弱さを持っています。けれども、今日できることを積み重ねていく時に神さまによって未来が開かれるということに立ち帰っていくことが出来ますように私たちを支えてください。
この世界、この日本の混乱の中で弱い立場に置かれている人に思いを寄せ、イエスさまによって告げられた正義と平和が実現しますように。
この祈りを私たちの主であるイエス·キリストにみ名によって祈ります。
アーメン

 

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