礼拝メッセージ 6月22日(月)

2020.6.15

Soshin Jogakko

「最善の自己」

中1担任  稲野 祥子

こちらから讃美歌494番「我が行く道いついかに」を聞くことができます

 

【聖書】ローマの信徒への手紙8章28節

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることをわたしたちは知っています。

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“Trust in God. Be true to your best self.”

「神を信頼せよ。最善の自己に忠実であれ」

この言葉は捜真女学校の建学の精神です。シンプルだけど、奥が深い。「最善の自己」って何だろう。順風満帆で何もかもがうまくいっている、絶好調の自分のことだろうか。私がこの学校に勤め始めてから3年が経ちますが、時々この言葉を思い出しては、「最善の自己」について考えることがあります。

みなさんには、自分の選択を後悔したことがありますか?些細なことでも、大きなことでも、何かしら心当たりはあるのではないでしょうか。私はかなり慎重な人間で、まさに「石橋を叩いて渡る」タイプです。たとえば、私は敏感肌で自分の肌に合う化粧品を見つけるのに苦労するのですが、いいなと思うものがあると、インターネットの複数のサイトで片っ端からレビューを見て、成分表を調べ、販売員さんに話を聞いて、とにかく綿密にリサーチをします。大丈夫だと思えたら、ようやく購入します。しかし、膨大な時間をかけて選んだものでも、実際に使い始めてみると肌に合わなくて、「失敗したなあ」と思うことが多々あります。

最善の手を尽くして物ごとを決めたのに、それが思うようにいかなくて、残念に思ったり後悔したりしたことがあるという人は少なくないと思います。

そんな時、私には思い出す言葉があります。それは、「指した手が最善手」という言葉です。これは将棋の世界でよく使われる言葉です。将棋を指したことがある人はわかると思いますが、将棋では次の一手を何千、何万通りのうちからひとつ、選ばなければいけません。その一手が勝ちにつながることもあれば、負けにつながることもある。「指した手が最善手」という言葉には二通りの捉え方があると思います。ひとつは「自分が指した手、選んだ道筋を最善のものにしなさい」です。その時、自分が選んだ道を最善だと信じ、たとえ期待外れな展開になってしまっても、後悔するのではなく、それを「最善のもの」にしていこうよ、という考え方です。どんな局面に置かれても、その都度、自分が信じる最善の選択をしていけば、いずれは明るい場所に出ることができるのだと勇気づけられます。二つめの捉え方は、「熟考して最善の一手を指しなさい、最善の選択をしなさい」です。将来の自分が、過去の自分を信頼できるように、過去の自分の選択を責めないように、よく考えなさい、と捉えられます。

さて、最善の一手を考えるとき、あなたはどうしますか。私の場合、考え抜いて答えを出したあとは、全てを神さまにお委ねすることにしています。今日の聖書の箇所に書かれているように、神さまはあらゆることを働かせて「益」としてくださります。私たちひとりひとりに最善の道を備えてくださります。たとえ、思うようにいかなかったとしても、そこに試練が待っていたとしても、その都度神さまに「どうすればいいですか」と問いかけ、聖書に書かれていることを頼りに前に進めば、きっと道は開かれるのだと信じています。

「最善の自己」とは、絶好調の自分、ではなく、どんな状況にあっても神さまの声に耳を傾け、最善を追い求める自己のことだと私は思います。この混乱する世の中における「最善」とは何なのか、神さまに問い、考え続けたいと思います。

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