礼拝メッセージ 6月11日(木)
2020.6.10
Soshin Jogakko
「他の誰かのために」
社会科 上野麻彩子
こちらから讃美歌Ⅱ編1番「心を高くあげよ」を聞くことができます
【聖書】ヨハネによる福音書3章16節17節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
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4月の半ば、新聞でこんな記事を読みました。
「1665年、イギリス中部のイーム(Eyam)という村の洋服店に、ペスト菌を持ったノミまみれの布地が持ち込まれた。すぐに、ノミを介してイーム村でペストが広がった。ペストは高熱で苦しみ、最後は全身が黒くなって死ぬため黒死病と呼ばれ、世界中で恐れられた病気である。しかし、このイーム村の牧師はこう決断し、村人を説得した。『ペストをこの村で食い止めなければいけない。村から出てはいけない。他の村にうつしてはならない。』イーム村の人びとは牧師の決断に従い、村をロックダウンした。最終的に700人いた村人のうち260人が死亡したが、まわりの村や大都市へのペストの拡大を食い止められたのである。」
こんにちは、社会科の上野麻彩子です。主に日本史の授業を担当しています。なぜ歴史が好きになったのかというと、最初は、算数の計算とちがって覚えたものを正しく書くだけで点数がとれて、嬉しかったから。もう少し成長すると、自分とは何か、人とは何かを歴史という事実の積み重ねを通して知ることができると思ったからです。
私は大学でも歴史を学ぼうと思い、文学部の史学科に自ら望んで所属しました。しかし、その頃からすでに文学部で学んだことはお金にならないと言われ、他の法·政経·商·理工·教育などの私の在籍した大学にある他の学部より価値がないように扱われることが多くありました。お金にならない文学部の、趣味の学問といわれるような歴史学の存在意義などなおさらない、という感じでした。
そんな私が大学二年生の時にとった授業で、西洋史の教授がこう言いました。「歴史というのは、過去に学び、過去をせおって未来を見通すことができる学問なのだ」と。その時は、教授かっこいい!と思い、これを心にとめておこうと思いましたが、なかなかこれを他の分野の人にわかってもらうことはできませんでした。
さて、歴史を勉強していると、かならずどこかで同じようなことが何度も起きることに気がつきます。「歴史はくりかえす」というものです。たとえば、戦争。今でも戦争はなくなりません。なぜか。それは、人間というのは自分だけが豊かになりたい、そのためには相手を出しぬいて支配して言うことをきかせたい、そういう本能に近いものを持っているのだと私は思っています。しかしその一方で人間は捨てたものではない、と思わせるような場面に出会うこともあります。それは、人間でも「他の誰かのために動けるのだ」と感じたときです。
この2020年のはじまりから、新型コロナウィルスの危機に直面した私たちは、極限状態の時にどうあるべきか、多くのことを試されました。この21世紀に生きる私たちが、350年前のペストの恐怖にさらされたイギリスのイーム村と同じような決断を迫られることがあるのだと思い知らされました。イーム村の人のように、村の全滅までかけて、誰か知らない人を守るためにロックダウンできる勇気があるか…といわれると、全部はさすがに無理かも…と思ってしまいますが、イーム村の人たちの、文字通り命をかけた行動には間違いなく心が動かされますし、その行動が価値あるものであったことは歴史が証明しました。そして、歴史を学ぶことは、過去に学び結果を予想し、私たちが未来を決断する手がかりを持つことなのだ…とあの時の大学教授の言葉を今年の春、私もようやく確信できました。
人間の本性は、極限状態で試されます。自分の弱さに負けた時の行動は、他の誰かを傷つけます。しかし、イエス·キリストは、弱さゆえに人を裏切り、社会で何の役に立っていないと思っている人間に、それでもあなたには存在価値があるということを命をかけて示され、共にいてくださること選んでくださいました。イエス·キリストが共にいてくださる事に励まされ、自らの弱さに負ける道を選ぶのではなく、少しでも他の誰かのために行動できるようにありたいと願い祈ります。