礼拝メッセージ 5月25日(月)
2020.5.25
Soshin Jogakko
「神様とのつながり」
高等学部教頭 鳥居 敬一
【聖書】ルカによる福音書15章11節~32節
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。
いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
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先日、ある生徒からこういう質問をされました。
「先生は父の日のプレゼントにお子さんから何をもらったら嬉しいですか?」
「欲しかった物をもらって嬉しいということもあるけれど、それ以上にプレゼントしてくれる気持ちが嬉しい。」「物がなくてもカードなどで思いを伝えてもらうことのほうが嬉しいと思う。」と私は答えました。
子供の頃はプレゼントそのものを嬉しく感じました。しかし、今はプレゼントそのものよりも、相手の思いのほうが嬉しいです。その人と自分との関係を喜ぶようになったのだと思います。
今日の聖書の箇所の放蕩息子の兄弟が大事にしていたものは何でしょう。
この兄弟が共に大事にしていたのは父からもらう財産でした。弟は放蕩(好き勝手にふるまうこと)した末に、やっと父との「つながり」が大事であることを悟りました。それに対して兄は、ずっと父とつながってはいましたが、大事にしていたのは「つながり」ではなく財産でした。
私たちは神様に何を求めているでしょうか。神様の恵みは絶えず上から降り注いでいます。それを私たちは手のひらを上に向けて受け取ることができます。しかし、その手の上に載ったものだけを見て握り締めてしまうと、上からの恵みを受け取ることができなくなります。手にしたものが一番になってしまうと、与えてくださった神様とのつながりが切れてしまします。
放蕩息子の父は最後にこう言っています。
『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。』
つまり、神様と一緒にいることは、恵みを全て手にすることであり、神様から離れることは、死んだのと同じ状態だということです。
全てを与えてくださる神様とのつながりを最も大切にできるように日々祈りたいと思います。