高3 チャペルウィーク
2019.2.25
Soshin Jogakko
2月19日から22日までは、高校3年生がチャペルでの礼拝を担当する「高3チャペルウィーク」でした。これは2014年にはじめられたもので、礼拝の司会、パイプオルガンによる奏楽、お話、全てを高3の生徒が担当します。卒業間近の高3にしか語ることができない後輩へのメッセージが語られます。今年も8人の高3生徒のお話を聞くことができました。
以下は、そのうちの一人の生徒のメッセージです。
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みなさんは自信を持って自分のことを好きと言えますか。自己肯定感は何よりも人を強く、そしてかっこよくしてくれるものではないでしょうか。自分のことが好きで、自信があれば、それは周りの人にも伝わり、魅力的な人物に映ると私は思います。
私は自己肯定感が高い方だと自分では思っています。しかしそれは初めからあったものではありませんでした。
幼い弟に手がかかった時期は親の愛情は明らかに弟に向かっていました。その頃の私はかなり寂しい思いをしました。我慢もしました。その後、弟が成長すると、親の愛情は私にも注がれるようになりました。学校や塾でも色々ありましたが、人間関係は徐々に築かれ、今では固い友情で結ばれています。その上、今までのたくさんの経験、殊に高校1年生で参加したオーストラリア学期研修では、一人になって自分を見つめ直せたこと、高校2年生から取り組んできたジェンダー問題に関しては、自らイベントを開き成功を収めたこと、このように成功と失敗を繰り返して私は自信をつけていったように思います。
しかし、どんなに認められても、褒められても私の承認欲求は満たされていない、ということに最近気づいてしまいました。特に、自分じゃない誰かが褒められた時、認められた時、自分に対してとても自信がなくなってしまいます。これは性格的なものなのか、それとも成長過程における何かの欠落なのか、はたまた、当然の欲求で順調な成長なのか。今の私にはまだ分かりません。
ただ私のこの承認欲求は、不特定多数の人や自分が望んでいない人からの褒め言葉では満たされないものなのです。
私は自分が心から願う人の言葉が欲しいのであり、その人の一番になりたいのだと思います。自分にとって絶対的な存在というか、価値というか関係が欲しいのだと思います。それも絶対者である神ではなく、人間で、欲しいのです。そこが埋まらない限り、私は常に心のどこかに穴が空いているそんな寂しさを感じるのです。
そこは親からの愛情や、友達と育んできた友情だけでは満たされない、自分は今そういう段階に来ているものかもしれません、だからと言ってそこを誤魔化したり、別のもので埋めたり、まがい物で済まそうとは思いません。埋まらないなら埋まらないまま暫く生きてみようと思うのです。
聖書には、人は一人でいるのは良くないとか神と隣人を愛せ とか、互いに愛し合いなさいとか脆くて弱い人間の存在を本当に良く理解されている言葉が多くあります。それは神やイエスが本当に人間を理解し愛しているからで、人間という存在を根底から支えていこうとしているからなんだと思います。
人は痛みや傷が多いほど周りに共感ができ、愛せます。そう考えるとイエスには傷や痛みがあったのではないかと。私のように埋まらない寂しさがあったのではないか、だからあんなにたくさんの人を愛せたのではないか、と思うのです。
私の今求める絶対的な価値、自分が願うたった一人の誰かに認められたい欲求は、今すぐは満たされないものだと思います。だからこそ、イエスのように周りの人を愛し、共存して生きよ、と言われているように思うのです。
聖書 創世記第2章18節「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」