礼拝メッセージ 11月10日

2020.11.11

Soshin Jogakko

人生に開く穴            

中1担任 新井昂太

【聖書】創世記37章18節~24節

兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、 相談した。「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から助け出そうとして、言った。「命まで取るのはよそう。」ルベンは続けて言った。「血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない。」ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである。ヨセフがやって来ると、兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった。

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今日の聖書箇所は、兄たちに裏切られ穴に投げ入れられたヨセフという人物の物語です。穴に投げ入れられたヨセフの物語にちなんで、「穴」をキーワードにお話をします。

皆さん、手でOKサインを、つまり親指と人差し指で穴を作ってみましょう。その穴を2㎜くらいまですぼめ、目にあててみてください。

私は皆さんと同じ中学生の時期、いや、小学校高学年から高校2年生の間くらいまで、しばしば教室でそのように手に小さな穴を作ってものを見ていました。と言うのも、このようにすると遠くのものが少しだけ、ほんの少しだけですがよく見えるのです。(目を細めるのと同じ原理です。)私は随分目が悪く、そして目が悪いにも関わらず特に意味のないこだわりで眼鏡もコンタクトも頑として拒否していました。視力検査をすれば、あのCのような記号の一番上も全く見えませんでした。一度は眼科医の方があのCを紙に写したものを持って近づいてきて、それでも1~2mくらいまで来てようやく見えたかどうか…というような私の様子をその眼科に来ていた方々に見つめられていたこともありました。

このようなお話をすると必ず、「私は目がいいのだけど、目が悪いってどういう感じ?」と聞かれます。目が悪い人の「世界」の説明は中々難しく、私も困ってしまうのですが、少なくとも目が悪い私だけが見えている(目が良い人には見えない)「世界」があるのだなと思ったりもしています。

話は変わります。私は学生の時、プールの時間、特に学年の始めのプールの時間をなんとなく憂鬱に感じていました。理由は2つあります。1つ目は単純に泳げないことです。私は全く泳げず、ましてや小学生の頃には水は恐怖の対象でした。怖いし、呼吸は苦しいし…プール嫌だなあ…ということです。理由はもう一つあります。それは私の病気です(病気、と言い切るほど重いものではないのですが)。私は「ろうと胸」と言って胸のあたりに大きなへこみ(穴)があります。だいたい3cmくらいの穴でしょうか。「デリカシー」という概念などまったくない小学生男子ですから、プール開きのたびに「ど、どうしたの!?それ!?」であるとか、「心臓どこいったの??」という言葉が飛んできました。真面目に答えるのも何だし、答えないのも何だし…ということで私は必殺技を編み出しました。それは、驚いて突っ込んでくる友人に対し、それ以上の勢いで「すごいだろ!!」と根拠のない自慢をすることでした。小学生男子とは面白いもので「すごいだろ!!」と言うと、だいたい皆「すげえ!かっこいい!」とか、「選ばれしものだ…!」とか不思議なリアクションをしてくれました。

さて、今日の「穴」をテーマにしたお話は先日中学1年生でPEPTALKを聞いていた時にきっかけを得たものです。そこでは先ほども出た視力検査の「C」のマーク(「ランドルト環」というそうです。)を見ました。PEPTALKの主旨としては、「穴を見るのではない、円ができていることを見ましょう。」という話だったかと思います。でもその時私は別のことを思い起こしていました。それは私が通っている教会の先生が言った次のような言葉です。「キリスト教は人生に開いた穴を埋めるものではない。開いてしまった穴から、人生を見るためのものだ。」

今日話している「穴」とは、「傷」とか「影」とか言い換えられるものだと思います。

さらに具体的にするならば、「上手くいかない人間関係」とか、「どうしても好きになれない自分のところ」とか、「与えられないもの」、「失われた大切なもの」、「苦しい病」などとなるでしょうか。

穴のない人生はありません。誰もが、皆さんのどのような人生においても、上手くいかないこと、悲しみに打ちひしがれてしまうことが起こるはずです。その時には、これから起こる全てのことが、苦しく悲しむべきもののように思えてしまうこともあります。人生の全てが悲しみであるように、人生は暗闇であるように見えることもあると思います。

そんな時、穴から見える世界に意味を見出してくれるのがキリスト教という存在、キリスト教の愛なのだと思います。

私の人生にも穴があります。欠点があり、手に入らなかったものがあり、失われたものがあります。でも、だからこそ見える世界があるのだと感じます。

真っ暗闇の穴の中で、一筋の光を見ようとする人間でいたいと思います。

(11月10日 中1、中2チャペル礼拝)

 

 

 

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