礼拝メッセージ 8月26日

2020.8.26

Soshin Jogakko

「正義中毒とイエスの教え」      宗教主任 藤本 忍

 

こちらから讃美歌234番A「昔主イエスのまきたまいし」を聞くことができます

 

【聖書】ヨハネによる福音書8章1節~11節

イエスはオリーブ山へ行かれた。 2朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 4イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 6イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

********************************************

数か月前、毎週土曜日に放映されているTV番組「世界一受けたい授業」をたまたま見ていました。すると脳科学者の中野信子さんが出演されていて、「今、日本では、正義中毒が流行っている!」というタイトルで授業をしていました。大変興味深い内容でした。彼女が言うには、今、日本では、自分と異なる意見を持つ人を赦せない人が増えている、特にインターネット社会になり、SNSが普及したことによって、そこに拍車がかかっていると言っていました。とっても納得しました。
なぜなら、芸能人や著名人の言動だけでなく、自分の隣に座っている人の仕事上のミスや気に入らないことまでも、ツイッターやインスタなどのSNSによって簡単に拡散され、どこの誰かわからない人から誹謗中傷を受けたり、どこの誰かわからなくても、誹謗中傷をしたりする人が事実、存在しますし、その誹謗中傷で傷ついた人が命を落とすという社会問題にすらなっているからです。

では、なぜSNSNの普及が「正義中毒者増殖」の拍車をかけているのでしょうか。それは、匿名性とその世界だけの共感性が原因のようです。何を言っても顔や名前がバレないという安心感。一緒になって攻撃しているという連帯感。更に、人は人を裁く時、快楽物質であるドーパミンが脳内で大量に出ていて、「人への攻撃」は楽しくて止められない中毒性があると言うのです。ターゲットを決めては攻撃をして、感情が収まればまた次へと相手を変えて再炎する。怖い話だと思いながら、インスタで自身の投稿をたくさん揚げて「いいね」をたくさん欲しがる人の心情とも似ているのではないかとも思いました。「正義中毒」も「いいね」もどうすれば終わるのか。それは、多分、自分にとっての絶対的他者からの「たった一つの『いいね』」を貰えれば、不特定多数からの「いいね」なんていらなくなるのではないか、と思ったりもします。でも、このたった一つの「いいね」が得られないがために、多くの人は彷徨っているのかもしれません。

また、授業の中で中野さんは、日本人は人に対して寛容に接するのに必要なセロトニンという前頭葉の物質が世界で最も少ない民族である、とも言っていました。日本人同様に少ないのは北欧の人たちです。要は日照時間に比例するということです。日本は気候帯として北欧とは違うわけですから、とどのつまり、屋内で過ごす時間が非常に多い内向きの国民性と言えるのだと思います。
最後に私が最も関心を持ったのは、正義中毒症の解決方法です。

一つ目は相手にも自分にも一貫性を求めないということです。人間というものはどこまで行っても不完全なもので、永遠に完成しないということを弁えておくことです。私は将来夫となる人と24~5歳のころに付き合い始めました。長くお付き合いすると、昨日言っていたことと今日言っていることと違う、この人、なんなの?と思うこともよくありました。当時の私は、なぜあんなに普段優しい人が、時々頑固になるのか。果たして優しさと頑固さは同じ人間の中に成立するのか、考えました。そして、彼に質問しました。すると彼はこう言いました。「君もまだまだ未熟な人間だな。人間とはそういう矛盾した存在なんだよ。一人の人間の中に相反するものが共存する、そういう矛盾した存在が人間なんだよ。」と。

もう一つの解決方法、それは、対立でなく並列で考えることです。対立軸から抜け出して、何事も並列で処理する、つまり全てを相対化することです。互いに互いを包み込んでいく、これが正義中毒から解放される秘訣だそうです。

本日の聖書箇所ですが、姦淫の現場を押さえたと意気揚々と律法学者やファリサイ派が主イエスの所にやってきます。姦淫の現場であれば、男性もいたはずです。しかし、女性しか彼らは連れてきません。公平に裁こうという気はなく、あくまでも主イエスを試そうというわけです。しかし、主イエスは何も言わずかがみ込み、指で何かを書いています。私達はついつい主イエスが何を書いたかが気になってしまいがちですが、地中海世界の人間であれば、この行為が何を意味するのかすぐにわかるようです。それは、あなたのやり方に従って、この話を進める気はもうとうないという、ハッキリとした拒否、拒絶、不参加の意志表示なのです。彼らはイエスが参加してこない、不参加の意志を示しているのがわかったからこそ、執拗に問い続けました。しかし、主イエスはやはり同じ土俵には乗ってきませんでした。と思った次の瞬間、主イエスはこの状況を一変させます。それがこの言葉です。「罪のない者がまずこの女に石を投げよ。」訴えられた女性も、訴えようとやってきた律法学者もファリサイ派も共に同等な人間として、一貫性のない一罪人として並列に置かれたのです。そして主ご自身でさえ、その身を低くかがめて、同じ地平に立たれて「私もあなたを罪に定めない」と言われるのです。彼女を裁こうとする者には過去の罪を思い起こさせ、今、まさに罪を犯した女性には、赦しと解放を与えて未来へと押し出されたのです。聖書には、年長者から始まって、一人、また一人と立ち去って行ったとあります。これは事実だと思います。中1の生徒に「罪人だと思う人?」と聞いても、誰一人手を挙げません。しかし、高三の生徒に「自分には罪があると思う人?」と聞くとほぼ全員手を挙げます。

主イエスが生きられた紀元1世紀は、心理学も脳科学も全く存在していない時代です。しかし、現代、それらが解明されればされるほど、主イエスがなさったことがどれほどのものなのかがわかります。漸く時代が主イエスについて来た、と言えるのかもしれません。当時の人々が主イエスの教えの新しさに感嘆し、魅せられ、救われたように、現代の私も主イエスの教えの新しさに魅了され、そして救われています。姦淫の女性を一緒になって裁くのではなく、一貫性のない罪人として並列に立ち、互いに互いの罪を包み込んでいく、そのような交わりをしていきたいと思います。なぜなら、姦淫の女性は私達自身だからです。キリストに出会うことによって変えられるのは、人間観であり、世界観であり、そして人生観なのだと思います。

🎵一人だにも、滅ぶるは、み旨ならじ、助けよ🎵 讃美歌493番より

Back

page top