礼拝メッセージ 5月19日(火)

2020.5.19

Soshin Jogakko

「祈り」

学院長  中島 昭子

こちらから讃美歌461番「主われを愛す」を聞くことができます

【聖書】イザヤ書42章9節
昼、主は命じて慈しみをわたしに送り、夜、主の歌がわたしと共にある
わたしの命の神への祈りが。

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捜真生は「お祈り」とか「黙祷」と言うと、どのような場面でも静かになって、目を閉じます。ホームルームや礼拝では、その日欠席のお友だちが元気になって登校できますように、献金を捧げているフィリピンの子どもたちをお守りくださいと祈ります。ある夕方、お友だちのご家族が病気ということを知った高校生が輪になってお祈りしているのを見たことがあります。捜真は心を合わせて祈る時間を大切にしている学校です。

さて、校内に昔の校舎の模型があるのをご存じでしょうか。白い塔、教室など、アメリカ風の建物が並んでいます。今と違うのは、建物が木造で、寄宿舎もあったことでしょうか。与謝野晶子が来て歌を詠み、川端康成の小説の挿絵になった美しい校舎でした。

しかし、75年前1945年5月29日、この校舎はわずか30分で燃え尽きてしまいました。横浜大空襲です。午前9時ごろから618機の飛行機が爆弾を投下、横浜は焼け野原になり、死者は1万人を超えたと言われています。捜真には生徒46名と教職員8名がいました。空襲があるかもしれないというので、登校しなかったり、途中で家に戻ったりした生徒もいましたし、工場に出ていた者、疎開していた者もいたので、登校した人数は少なかったのです。卒業生のIさんがこの日のことを次のように書いています。
「工場勤務が続いたけれど、今日から交代で学校に行き勉強できる。登校途中で空襲警報が出て、友人たちと夢中で走り、学校の防空壕に駆け込んだ。それでも久しぶりの学校でうれしく、防空壕の中で皆で書き取りをした。(中略)ここは危ないというので、防空頭巾を水で濡らし、反町方面に走った。しかし、消防団の人に下は火の海だから引き返すように言われ、追われる動物の群れのように走り、戻ると捜真の白い塔が炎と煙に包まれていた」
空襲の後、焼け跡に集まった生徒と先生は、まず祈ったそうです。「捜真を元のような学校にして、勉強できるようにしてください」という祈りであったのだと思います。

私たちの祈りは、昔も今も、私たちに命を与え、私たちを愛してくださる、どのような時も共にいてくださる父なる神に心を向けた感謝と願いです。

【お祈り】全知全能の父なる神様、今日も生かされていることに感謝します。この一日を生きるのに必要なものを全て与えてくださりありがとうございます。今、世界は大きな苦しみの中にありますが、病気で苦しんでいる方々を癒してください、私たちの命と生活を守るために働いている方々を特別に祝福してください、今日私たちが為すべきことを示してください。神様の独り子イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

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