礼拝メッセージ 6月29日(月)

2020.6.29

Soshin Jogakko

「信仰があれば行動は問われないのか」

宗教主任·高一担任 藤本 忍

 

こちらから讃美歌9番「力の主をほめたたえまつれ」を聞くことができます

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【聖書】ローマ信徒への手紙3:28
なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

ヤコブの手紙2:24
これであなたがたもわかるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。

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聖書にはこのように矛盾することがよく書かれています。一方で人は信仰によって義とされるとあり、もう一方では人は行いによって義とされる、とあるのです。高三の聖書の授業では、その点について学んでいます。義とは神に目に正しいとされて、救われるという意味です。信仰によって救われるのか、行いによって救われるのか、どちらなのでしょうか。
宗教改革者のマルチン·ルターは、「どうすれば人は救われるのか」と苦悩した結果、一つの答えに辿り着きました。「その条件は人間にはない。神が一方的に無条件に人を赦し、救ってくれるのだ。人間はそれを信じることしかできない」と。すると次に新たな問いが誕生します。「じゃ、神を信じていれば、それでいいの?神が無条件に愛し救うと言うのなら、何をしてもいいのか?行動は問われないのか?」

この問いに対する多くの生徒の回答はこうです。「神を信じているのであればこそ、その愛に応えようとするので、神を裏切ったり悲しませたりするような行為はしないはずである。」「赦された感謝を基に行動をすると思うので、自ずと信仰と行動は一致してくる。」「信仰があればこそ、聖書に書かれていることを自ら主体的に行おうとするだろう。」
しかし、中には「行いは問われない。何をしても良い」と言う生徒もいます。その意見を聞いてみると「殺人や窃盗のような罪を犯せば、人間の世界はその人を法で裁く。しかし、どんなに罪深いことをしたとしても、神は必ず赦されると思う。なぜならイエスもそうやってどんな人も赦していたから。神の一方的な恩寵とはそういうことだと思う。」と言うのです。「何をしても良い」と言うのではなく、「何をしたとしても赦してくれる神を信じている」のです。キリスト教で言うところの罪は法で裁かれるとは限りません。むしろ裁かれないものがほとんどです。でも、一方でたとえ法がその人を裁き、死刑判決が出たとしても神はその罪を赦される、ほとんどの生徒はそう認識しているのです。

勿論、その場合、感情的には「反省や悔い改め」があって欲しいとも言います。死刑に価する人も赦されている、しかし自分の罪の深さを「反省し悔い改めて」欲しいと。実はこの「悔い改め」と「反省」には大きな違いがあります。「悔い改め」は神に背を向けて神から離れていた人間が神のもとへ帰る、方向転換をして神のもとへ戻るという意味があります。その時、人は生き方や在り方が変わります。性格や性質は変わりませんが、生きる方向性、姿勢が変わります。ですから「悔い改め」は生涯に何度も起こりません。それに比べて「反省」は何度も繰り返し起こります。個人的な経験から言うと、罪が赦されたから悔い改めが起こりました。順序が逆です。悔い改めが起こったから赦されたのでは無条件ではないのです。赦されたと同時に過去の自分が崩れ(裁きが下り)、その瞬間、悔い改めが起こり、ゼロから新しい自分が再生されていくのです。これは神の御業としか言いようがありません。

多くの日本人は自分の感情と法の裁きの結果や社会現象、現実、世論等が一致しないと、「赦せない、おかしい、神も仏もあったもんじゃない」と言います。つまり、自分へのご利益がないとダメなのです。自分と神の御心が一致しないと信じられないのです。しかし、キリスト教信仰とは、この自分の感情を越えて存在する神、その意志を信じることです。そういう点では、高三は自分の感情と一致しない神の御心をよく理解しています。いつの間に育ったのでしょうか。憎いあの人も嫌いなあの人も神が創造された人、自分の感情とは関係なく、無条件に一方的に、自分同様神に愛されている存在である、そう理解しているのです。
この神の無条件の愛を、一方的な恩寵を安っぽいものにしない、むしろこの愛に応えるために自分を用いて欲しいと願う者であります。

マルチン·ルター

 

 

 

 

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